見出し画像

8-6.日米和親条約の中身

4つの条約原文

幕府がアメリカと結んだ条約は「日米和親条約」(神奈川条約ともいわれる)として知られていますが、原文が4種類ありました。英語、日本語、漢語、オランダ語です。国家間の取り決めである条約が有効性をもつためには、署名と正文の2つの形式が必要で、これは現在もかわりません。

ところが、この条約にはそれがなく非常に曖昧なままでした。双方の全権、つまりペリーと林双方が署名したものがないのです。ペリーは英語版に署名し、林は日本語版に署名しました(署名は応接掛4名分)。漢文版には松崎、オランダ語版には森山の署名のみです。また、正文の取り決めがなかったのです。
 
「正文を何語(複数言語も可)にするかの交渉は、日米間で一度も行われなかった。条約にも正文に関する記載がまったくない。正文に言及がないまま4カ国版が作られた。どの版に基づいて条約解釈を進めるか。この大切な問題が宙に浮いたままとなった。」(「幕末外交と開国/加藤祐三」P二213)

12ヶ条の条約

この条約は全12条からなります。

主なものは、第2条で下田、箱館を避難港として開港、第3条で漂流民救助に必要な費用の相互負担、第4条はアメリカ人漂流民の取り扱いと、彼らが「正直の法度には服従いたす」こと、第5条で下田、箱館での遊歩地の範囲(下田は7里四方)、第9条は、アメリカへの最恵国待遇付与。第2、6、7、8条で役所を通した欠乏品の取引と、その対価についてが決められています。

第11条で18ヶ月以降、アメリカの領事または代理人の駐在の許可です。この第11条が実はくせものでした。英文では、「どちらか一方の政府が必要とすれば18ヶ月後の下田に領事を派遣できる」という内容でした。オランダ語でも同様です。つまり、どちらか一方の政府の申し出だけで領事を派遣できるというのです。

しかし、漢文版、日本語版では「両国政府が必要と認める場合に限って」とあり、「どちらか一方」ではなく、双方の合意の上となっていたのです。これに幕府は気がついていました。いわゆる誤訳ですが、条約正文を何語にするのかの取り決めがない状態であったので、アメリカは英語版を、日本は漢文、日本語版を正式なものとしていたのです。

この約2年後、アメリカから初代総領事の任を帯びたタウンゼント・ハリスが下田に来航し、幕府は慌てることになるのです。

次の会談場所は下田

ペリーは、この後箱館に検分へ向かうことを告げ、帰ってきたらそのまま下田へ向かうので、実際の開港にむけた相談を下田でおこないたいと依頼し、林は承諾しました。次の会談は6月初旬、場所は下田が決まります。

日米それぞれの条約の総括

この条約内容、ならびにその交渉過程について、林とペリーはそれぞれどう報告したのでしょうか。

林は、一連の交渉について「相手の恫喝の意をそらし、戦闘にならないよう努力を傾け、後の患いなく国法に反しない限りで応対し、穏便に取り計らうことができた」と老中に報告しています(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P217)。

ついで主張したのが「双務性」の主張です。「アメリカ人漂流民の救助に対する経費はアメリカが払う」といった内容を「アメリカ人及び日本人」とし、その双方の人間がそれぞれの国に漂着した場合の救助を明記し、その費用は互いに相殺されるとしたのです(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P220)。

ペリーは、海軍省への報告書の中で、第4条のアメリカ人が「正直の法度には服従いたす」とある、つまり治外法権が排除された箇所についてが、一番苦労した点だとしています。次のように報告しています。
 
「第4条はアメリカ人が(日本の正しい法律)に服すという意味では決してなく、正義と人道主義に基づく法に服すという意味であり、政府がこれを了解されるよう期待します」(「幕末外交と開国/加藤祐三」P222)
 
つまり、日米それぞれの法律の上に、「正義と人道主義に基づく法」があるはずであり、それを認めただけにすぎないという釈明です。「正直の法度」は漢文版の和訳、オランダ語版の和訳は「公正の法」、英語では「Just laws」となっています(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P222)

また、第9条の最恵国待遇の獲得を大きな成果としています。最恵国待遇とは、最初に条約締結した国が後続国に対して優位にたち、後続国が新しい条約上の利益を獲得した場合、その利益を等しく享受できるというものです。これは1842年の南京条約締結時にイギリスが生み出した、生まれたばかりの国際法上の概念でした。適用国は欧米列強のみのため、片務的なものです。林を含む応接係は、これに対しては配慮した様子はありません(そもそも、これがどのような意味を持つのか理解できなかったと考えられる)。一方、ペリーはこれを勝ち取ったことを「今後も列強に対して有利かつ重要な条項である」と主張、報告しています(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P223)。

下田の実地検分

調印後の4月4日、ペリーは交換した条約を積んだ帆船サラトガを、ハワイ経由の太平洋航路でアメリカへ向けて出航させました。8日には派遣されていた応接掛が江戸に戻ります。ペリーの艦隊が下田へ向けて出航したのは4月18日でした。下田の実地検分のためです。この下田での停泊中に、吉田松陰の密航事件が起こりました(「170年前の吉田松陰の企て」)。

続く

タイトル画像出所:国立国会図書館国際子ども資料館(https://www.kodomo.go.jp/yareki/archive/archive_01.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?