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【短編小説】象牙の塔-episode3-
-episode3-雨音を聴きながら
雨が降っている。嵐ではなく静かな雨。
小さな雨粒が、窓の外に見える木々の葉やトタン屋根を鳴らす音が聞こえる。
彼は何をするでもなくコーヒーを片手に曇り空を見つめ、ただただ雨の音を聴いている。空模様とは反対に、彼の表情は穏やかに澄んでいた。
彼は大きな音が嫌いだ。車の音、賑やかな笑い声、皿の割れる音。
大きな音は心がざわつく。
彼がいつも聴いていたいのは静かな音だ。緩やかに打ち寄せる波の音。秋の葉が枝から離れ地面に落ちる音。本のページをめくる音。
『美しい物をこそ愛している』と言う彼にとっての美しいものとは、静寂や永遠を感じるものだ。
彼からしてみれば月の光にも、生物の死にも音はある。
そんな音すら感じとってしまう彼には人の生きる世界はうるさすぎるのだ。
しかし、こんな雨の日の世界は静かな音で溢れている。
彼が窓を開けると、外の静かな音と共に湿った土の香りがアトリエに流れ込んでくる。
確か私が初めて彼の家にやって来た日もこんな天気だった。
彼は私を椅子に座らせると金色の髪に触れ、ビスクでできた冷たい頬に指を滑らせる。彼の指は細く繊細で、少しだけ温かかった。
本当はその指に触れてみたかったのだが、私にはそれができない。それが叶うのは夢の中だけだ。
彼はとても不思議な人だと私は思う。
”人と物との明確な境界線を引いていない”と言ったらよいのだろうか。
時々私に向けられる微笑みは紛れもない優しさだ。
人を模したがらんどうの身でありながら、心の内では彼と対等でありたいと望んでしまう私はきっと愚かなのだろうと思う。
そう思う一方で私が彼の優しさを守りたいとも思っている。傷付くことを怖れ、行き場を無くしてしまった優しさを。
『きっと私の体と彼の心は同じ素材でできている。』
もしも彼が、誰も愛さず誰にも愛されないのであれば私が彼を愛そう。
彼の体が老い、朽ち果てる頃、不変である私の体は存在し続けるのだろう。しかし、心だけは、この想いだけは彼と共にあろうと思うのだ。
そんな事を考えながら私も彼と同じように外の雨音に耳を澄ましてみる。
そうすると、雨音に混じって夢の中で聴いたピアノのメロディが聴こえてくる。
彼にも聴こえているだろうか。
耳のいい彼のことだから、きっと同じメロディが聴こえているのだろう。
こうして私たちは、静寂と幸福の中でひっそりと春を待っている。
繰り返し訪れる春ではなく、一度きりの春を。
寂滅を。
-end-
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