今日、考えたこと。 〜「やりたくない」と、認める代わりに〜

最近、ふとこんな言葉が頭をよぎる。

「やりたくないなら、やめてしまえよ」

思い返せば、自分でキッパリと「やめます」と言ったことがないことに気づいた。何かを辞めたことはあるけど、いつでもそれはフェードアウトしていくような形だったり、ひたすら時間がすぎるのを待ったりと、そんな中途半端な終わらせ方をしていたと、これまでを振り返って感じる。

だからといって、「嫌だ嫌だ」と言いながら何かをしていたわけでもなかった。むしろ、「何かしたい」というエネルギーの方が強かったと思う。

小さい頃から何かを知ることが好きで、ただ知りたくて、こなしたくてやっていた公文を続けた結果、5,6年くらい連続で上位者の集いに参加させてもらえたこと。

小さな頃にサグラダ・ファミリアを雑誌で見て以来ずっと建築が好きで、高校生の時に建築についての本を色々と見て、その知識が3年になった今でも時折登場するくらいのところまでは深掘りできていたこと。

音楽が好きで、これまた高校生の時にオアシスに、ピンク・フロイドに、レディオヘッドに出会って、そこからジャンル問わず様々な音楽に触れているうちに、サイケやパンクなど、文化に根付いた音楽があることを知り、といった具合で知識の枝葉を広げていったこと。

今思えば(それが今やっていることに役立っているかは別として)「やりたい」「知りたい」というエネルギーが与えてくれたことは自分にとってとても大きな実りを与えてくれた。

でも、今自分は別の問題にぶつかっているとも感じている。それが「やめる」ということだ。

自分は「やめる」ことのその先を、この歳になるまで知らずに生きてきた。「つづける」という選択肢しかもっていなかった。「好きだ」と感じたものを手放すことがやめられない。ストレスに感じていても持ち続けることをやめられない。

好きだったことをどうしても「やりたくない」と感じる自分がいることを否定してはいけない。ただ、否定した先にどんな自分がいるかを想像することができない。だから、「やめる」ことが怖いと、そう感じる。

「やめる」ことのその先に、何が待っているのだろう。「やめる」先を考えることが、今の自分にとっての試練なのかもしれない。

今まで自分を突き動かしてくれた、「好奇心」というエンジンとは別に、何か新しく自分を突き動かすエンジンを見つけることが、今の自分の課題なのかもしれない。

それはいつになるかは分からない。ただ、今動くことでそれが長引くことはないことは分かる。だから今動くべきで、そういう風にもがくところを、誰かに見てもらう必要があるのだと思う。それが案外「やめた先」になるのかもしれないから。

そう考えながら、今こうしてnoteを書いている。どんなにちょっとしたことでも、とにかく痕跡として残していこうと決めた。

今日は、そんなことを考えた。

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