幸福

「リンゴは本当に赤いのか?」

僕とあいつはここにある真赤なリンゴを本当に同じ色として認知しているのだろうか。僕から見える赤は他のみんなから見える赤、世間が定義する赤色と本当に同じなのだろうか。以前そう考えたことがある。

どうやっても自分自身の目でしか色を判断することはできない。他人の目にどう映るか知り得ることはない。

ある本で、優秀な科学者達が集まり人間の幸福について研究しているという節を読んだことがある。その中では、幸福とは主観的厚生であるとし、様々な人へのヒアリングを重ねその統計から幸福を定義する研究を行ったと記されていた。このとき僕は大きな違和感を感じた。

幸福は主観的厚生である。ここについては全く異論がない。自分自身、幸福とは主観的な感情、意識、欲求が構成するものであると考える。であるならば個々人の主観を可視化する、つまり客観的なものとして定義しようと試みること自体果たして意味があるのかと考える。

健康であること。お金持ちであること。愛する人がいること。生理的欲求が常に満たされていること。これは言ってしまえば客観的厚生である。一般的に幸福と定義されてしまう恐れがあるが、人によっては健康だからと言って幸福ではないという人もいるかもしれない。病気が回復し、退院すると自宅でまた両親から虐待の的にされてしまうという状況であれば、その子供は健康になることは不幸になることであると考えるかもしれない。

幸福を定義してしまうということは、その反対にそうではない不幸な状況を定義してしまうことにもなる。

名門大学に入り、有名企業に就職し、社交的で理解のある人と結婚し、子宝に恵まれ、経済的に裕福な家庭を築き、子供や孫に見守られながら長い人生を終える。

もし仮にこれが幸せな人生ならば、当てはまらない僕の人生は不幸なものだろうか?いや違う。自分の幸福は自分で定義する。親、友達、恋人、ましてや顔も知らない科学者達に決められる筋合いなどない。その代わり、他人の幸福を否定することもしなければ、自分の定義した幸福を他人に押し付けることもしない。一般論に騙されず、自分自身の幸福とは何か、心が求める真の欲求はなんなのかを真摯に考えるべきである。

他の誰でもなく自分自身の見たままに、感じてみる。



70億通りのリンゴの見え方があってもいいのかもしれない。むしろその方が刺激的で面白い。



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