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自分の楽器を奏でるには

当時住んでいた家から海は徒歩3分くらいの場所にあった。家の外に出ると、いつも波のかすかなさざめきと潮の匂いがした。

よく一人で海岸沿いの道を歩いた。海のせいで空気はもやっと生暖かいが、潮風が吹いているので不快ではない。隣に目を向けるとそこにはアメリカまで通じている太平洋がある。
僕にとってその広大な太平洋の海は、開放的な場所ではなく、僕を閉じ込め、この先行き止まりを示しているように見えた。ちょうど僕の人生がこれ以上は先に進めないと感じているように。

その海辺の町で4年間、中学校の教員として働いた。田舎で働くというと、たいていの都会に住む人達はうらやましがる。「のんびりしてそう」とか、「自然がいっぱいでいいな」とか。でも、僕に言わせれば田舎は時々行くからいいのだ。人の数や、気を晴らす場所も少なく、人々の考えはたいてい保守的である。そんな町で教員として働くことのしんどさをきっとあまり想像できないのだと思う。
勤務した学校は、とにかく、ありとあらゆる教育活動が強制という二文字によって動いているように見えた。部活動も強制(生徒も教員も)、宿題も強制、朝練習も強制、掃除の時間は一言も言葉を発してはいけない。給食は完食しなくてはいけない。学校教育目標に強制という二文字がないのが不思議なくらいだった。
その学校で楽しかったことや学んだこともあるが、結局、僕はその雰囲気に最後までなじむことが出来なかった。

小川洋子の短編小説に『海』という作品がある。中学校の教師である主人公の男性が、同じく中学校の教師をしている婚約者の実家(海辺の町)へ行き、ちょっと変わった弟に会い、その弟と心を通わせるという話だ。
この弟は20歳過ぎで、身体は大きいが、とても幼い話し方をして、定職にもつかず、自称楽器演奏家と名乗っている。。彼が演奏する楽器は鳴鱗琴(めいりんきん)と言って、クジラの浮袋や魚の鱗でつくられ、海からの風を利用し鳴らす楽器だ。

読めば分かるが、鳴鱗琴は架空の楽器なのである。この弟君の想像上の楽器だ。でも彼はそれを奏でることができる、と言う。
さびしいさびしい海辺の町で、友もなく、仕事も持たず、過ごしている。でも彼には海からの風を受けて楽器が弾けるのだ。僕には最後まで出来なかったことだ。

今も僕は場所を変えて教員を続けている。諦めの悪い自分に少々あきれながらも。
自分の居場所をずっと探してきた気がするが、たぶんそれは作っていくものでもあるはずだ。
今いる場所で今度こそ、僕は自分の楽器を奏でたいと思う。

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