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「誰のために」線、公と私。全体主義。--とある論考を今、反芻すると--

ここ2ヶ月で、COVID-19(世の中一般では新型コロナウイルス)は今現在世界中でパンデミックを起こした。死者は増え続け、感染者は指数関数的にこの先増えかねない状況。そんな荒れ狂う世界のなかで日本の一人の芸能人が逝去した。死因は先のウイルスの症状の重症化であった。しかし、それを受けてこのような発言を目にした。

http://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye3943415.htm

私はこれに対して危機感を感じている。なぜならこのメッセージからあたかも志村けんが「誰かのために」結果的に死を迎えた、というニュアンスを感じられたからだ(功績という表現からだろうか)。社会、周りの人。そういうもののために身を削る。こういうことが、ましてや死が美談として語られ、世の中の正義とされる、そういう風潮が顕著になっていく未来を想像すると暗澹たる気持ちになる。ここからは千葉雅也氏(以下、氏と表記する)の論考に影響受けた文章でもある。一致団結、協力。そういう言葉が世の中を撹拌していく未来に強く嫌悪感を感じる。断っておくが、もちろんこれは後にも書くが公共的な正しさは必要なもので、必要な時に発揮されなければならない(今回の場合は活動自粛であろうか)。

下は氏が主張していた ジェンダー論を私が一方的に解釈、付け加えをしたものである。

例えばジェンダー。具体的には仕事上の男女不平等。人間のジェンダーが問題になり得ないところでそれを問題にする、ということはあってはならない。だが、実際にはそのジェンダーの問題圏は一意に定めることはできない。なぜなら人は生物的な「雄らしさ/雌らしさ」という端的な部分とそれに対して可逆的な人為的に構成される部分が両方あるから。この可逆性により、哺乳類の繁殖という観点の価値観の外にある価値観が生まれる。例えば同性愛や二次元に対しての愛などが挙げられる。けどもその根本は生物的本能の性愛である。つまり、人間は根本の対象に対して拡張した行動(逆らったり、それを満たす対象や手段を変化させたり)を獲得できる。それにより人間は驚くほど自由である。また、ジェンダー以外の問題でもそうだが、多くの問題が公共空間なのか、私的空間なのか、という空間的目線で見る必要もある。しかし、実際はその境界線は不明瞭で互いにとって常に影響を与え続けている。現実として「やましいことはなくすべき」「誰もが道徳的(天使のように)に生きるべき」のような公共空間の際限なき拡大、というような風潮が現実として強くなっている(今回のパンデミックがそれにバイブスをかけているとも思う)。もちろん、公共空間での不当な男女差別、マイノリティへのヘイトスピーチや差別的処置には抵抗しなくてはならない。しかし公共空間を過剰に広げて、個人の「私」を破壊してしまうと、この先には私を概念化した個人性の破壊が待っている。

上を受けてもう1つ言語化すると公と対をなす言葉は「私」である。私とは個人が持つ複数のアイデンティティである。アイデンティティ、「~らしさ」とも言い換えられるだろう。これは他者に対しての暴力性でもある。先ほどの公共空間の際限なき拡大はそれを減らすように1つに染め上げる行為である。公に向かい私を削る、とも言える。私を明け渡し、1つの権力や1つの概念、目的に身投げする。これの究極が全体主義であり、前段で述べたように「個人性」の破壊に繋がる。氏も書いていたがその未来を啓示しているのがエヴァである。人類補完計画。ある意味1つの宗教的な希望である。すべてが1つになることで他者との苦しみが消える。その実態は誰もが同質の人間であり、機械であり交換可能の部品となる。この未来は切迫した危機感を纏うディストピアである。

これは私の経験であるが、1つの感覚として閉塞感と全体主義は結び付くものであるとおもう。公共性、「善き正しさ」に身体を任せ個人性を実態が遠く、空虚な権力に向けて破棄する。前段の全体主義を個人の視点から描き直すとこうではないだろうか。「遊び」「不合理」を気付かないうちに放棄してしまい、絶対的な正しさにおもねり、盲信してしまっている現実。こういうこと。

最初に重ねるが今回のパンデミックによって、「自分の身を公のために削る」ということが正しさとされないだろうか、という危機感を感じている。「私を棄てて--みんな--のために行動せよ」公と私、その境界線の放棄。それに抵抗するためには、今回に限れば公を見直すということ。自粛中の補填の要請や抗議。抽象的に言えば「みんな」を疑うこと。また、逆説的だが自らの身体に依拠した欲望を発見すること。これらが抵抗する方法足りえるのではないか。

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