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To be a Stranger

正月休み。TVは見ないしSNSも開かないし外にも出ない。年末年始特有のうざったい寝ぼけ浮かれた空気は避けたかった。朝起きて走り、その後は一人部屋に籠もって映画鑑賞や読書に耽る。そういう過ごし方をした。

自分のために書かれた本といっては大げさだけれど、ピッタリと自分の境遇に当てはまる内容のものに出会い、運命のように感じることがある。たとえばこの一冊のように。

https://www.amazon.co.jp/dp/4480080155?tag=note0e2a-22&linkCode=ogi&th=1&psc=1

異人論序説

特に運命を感じたのは、以下の一節。

異質な、互いに排他的であり敵対的ですらある社会文化圏のはざまに合って、両方の影響を受けながら、そのどちらにも完全には帰属していない一群の人々がいる。ジンメルの<異人>、または社会学にいうマージナル・マン marginal manなどはむろん、そうした人間類型をさす概念である。(p.274「異人論序説」赤坂憲雄)

「あ、これ自分だ」と思った。

「互いに排他的であり敵対的ですらある社会文化圏」

私立の中高一貫校に通っていた。そこではひたすら勉強に専念し、いわゆる難関大学に合格することを強く推奨される(自称!)進学校だった。クラスの男子は全員メガネで、ちょっとオタクっぽい空気の人が多かった。

一方で、サッカー部は体育会の世界。制服も校舎も違う彼らは中高一貫校の私とは異なり、スポーツ推薦や特待を勝ち取って高校から入学してきた。将来はスポーツ推薦で大学に行ったり、専門学校や自衛隊に進む人もいた。

高校の頃の私は、この二つの全く異なる常識を持つ世界に所属していた。またそれと同時に、そのどちらにも完全には帰属していなかった(という感覚が常にあった)。

まず、体育会系のカルチャーが肌に合わない。特に縦関係が嫌いだ。私は立場が上の人の言うことを素直に飲み込む従順さも、自ら人の上に立つ傲慢さも持ち合わせていない。それに同級生とも話が合わない。他の部員は違う校舎の人だから、先生のモノマネとか、誰が可愛い/可愛くないとか、みんながしている話は何も分からない。3年部活をやったが友達は一人もできなかった。異質な存在に向けられる畏怖と軽蔑と嘲りが同時に混じり合ったような視線に常に晒されていた。完全によそ者だった。

それと比べて、一貫校の方はとても落ち着く空間だった(もはや落ち着きすぎてずっと寝ていた)。友達もたくさんいた、というか中高の6年同じ学校に通った80人なんかみんな友達みたいなものだ。でも、サッカー部に所属し毎日何時間も”あちら”の世界で過ごしている異質な存在であることには変わりなかった。あと、勉強していない(空気を醸し出している)にも関わらずテストで良い点数を取ると、「お前は天才だから」とよく言われた。これには誰も口にしない続きがあるのを僕は知っていた。「お前は天才だから、オレたちとは違う。」と、友人が私との間に境界線を引き、心を閉ざしているのがわかった。「鬼神を敬してこれを遠ざく」と孔子が言うように、卓越する者は敬遠される。ここでも私は異人だった。

このように、私は全く異質な二つの世界にいながら、そのどちらにも完全には帰属意識を持てない<異人>だった。

赤坂はさらにこう続ける。

マージナル・マンの自我は、所属する世界の二元性にもとづいて二つに分裂する。この分裂のために、かれの行動や感情は首尾一貫せず、不安定となる。かれはどちらの世界にあっても人々の注意をひきやすく、そのまなざしの意識から、反省的な、自己意識の強い人間となる。自我の分裂ははげしい内面的緊張として経験され、どちらの世界にも帰属しえないことから、根なし草の感じにたえず悩まされる。(同・p277)

同質な仲間として受け入れられることはなく、孤独が当たり前だった。だから社会の中で自分の居場所を確保し存在するためには、自分のやるべきことをやって、突き抜けて、実力で人に認めさせるしかない。異質であるが故に常に視線に晒され続け、その外部の視線がやがて自己の内部に根付き、強烈な自意識が生まれていた。そしてそれに耐え得る完全無欠さを必死に追い求めるようになった。外からはそれが真面目・勤勉・優秀に見えることもあっただろうが、私からしてみればただひたすらに、自己の不完全さと自他のまなざしに怯えていただけである。

こうしてこれまで絶えず付きまとってきた自分の強い自意識と内省性、そして孤独感。これらが本の中で社会学的現象として鮮やかに描き出されていることに強く心を打たれた。

さらに赤坂は、折原浩「現代における危機と学問」から次の一節を引用する。

かれの生活は困惑そのもの、不安そのものとなるが、まさにそれゆえ、かれはいわば両方の信念体系からはみ出して、認識論的アルキメデス点に立つことが可能になる。・・・・・・(かれは)相対化された、もはや自明ではない信念体系に、いわば外側から、距離をとってアプローチする・・・・・。かれは、aないしbの信念体系を、まさに問わるべき課題とし、それが自明のこととして妥当するにいたった経過(信念体系の形成、社会化、変容の過程)と、それが現在自明のこととして通用している条件(客観的現実とのかかわり合い方)とを明らかにすることができる。(同・p278)

この引用に以下の文章が続く。

ジンメル以来、<異人>に見られる客観性として言及されてきたものが、ここにはある。マージナル・マンおよび<異人>は、認識論的なアルキメデス点、あるいは解釈者の位置にたつ。この、二つの世界の臨界点(マージン)にあるとき、それぞれの世界の内側では疑う余地のないものとして流通している「相対的自然的世界観」は、自明性の仮象そのものをひき剝がされる。世界がその根底から懐疑にさらされるのである。(同・p278)

二つの互いに排他的な世界に所属する<異人>もしくはマージナル・マンは、平面的にはマージンに立ち二つの世界を相対化し、また同時に立体的に”解釈者”として世界を客観的に見下ろす視点を獲得する。相対化による客観視によってそれぞれの世界でそれまで決して疑われることのなかった暗黙の常識がその自明性を失い、”かれ”は世界を「その根底から懐疑にさら」すのである。この避けることのできない不可逆的なプロセスによって、”かれ”はどちらの世界にも決して帰属することができない”根なし草”となる。

無論、私も ”かれ” の一人である。俯瞰的・客観的・分析的な視点で物事を見る傾向が強い。共通の慣習に盲目的に従う集団の一部にはどうしてもなれず、常に孤独が付き纏う。そして「当たり前」を疑ってしまうから煙たがられ、やんわりと(時にはあからさまに)排除される。その排除の力に対抗するためには、絶対的な結果を残すことで彼らの"当たり前"よりも自分の方が正しいことを証明し続けなくてはならない。だからずっと必死だった。

さて、これから先、私はずっと”根なし草”として生きていくのだろうか。内部においては過剰な自己意識と反省に絶えず苛まれながら必死に自己を証明し続け、外部に向けては根本的懐疑という一種の”破壊”をしながら孤立して生きていくのだろうか。

〈異人〉であることが100%ネガティブというわけではなく、他の多くの物事と同様にポジティブな側面もある。〈異人〉という俯瞰視と懐疑性という特殊能力の持ち主は、懐疑という名の”破壊行為"の後に”創造”や"再構築"といったプロセスが伴うのならば、非常に強力な革新の担い手になるだろう。自意識と内省から来る絶え間ない自己批判は、好成績や高パフォーマンスに繋がる側面もある。代償は伴うが、活かし方次第では強力な武器にもなりうるだろう

10代のときに偶然置かれた環境は人格形成に大きな影響を与える。性格には運命的な側面が強くて、それにうまく折り合いをつけながら生きていくほかないだろう。だから孤独やら過剰な自意識やらは決して感じのいい代物ではないにせよ、現に自分はそういう人間なんだから、まずはそれを認める他ない。諦めにも近い感覚を持ちながら、決して小さくはない負の側面の代償として得た能力やらを活かして、なんとか生きていこうと思う。というか、そうするしかないだろう、仕方ないさ。

それに、人はゆっくりだが変わり続ける。

Life goes on…

https://youtu.be/URR_Nv-6MZs


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