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あなたの隣の精神疾患

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タイトルを見れば、手に取らずにいられない。また、職場で私の隣に座っている同僚は、私が机に置きっぱなしにしたこの本を目にし、焦ったという。私が席に戻ったとき、そっと、「あの、その本さ・・・、おれ?」と言いにくそうに聞いてきた。ああ、申し訳ない。机に置きっぱなしにしたことに、特に深い意味は無いのだが・・・
タイトルだけでこの破壊力。全編通して春日さんの言葉の巧みさ、自由さに感服しっぱなしであった。

特に昨今の精神疾患が、正常域と「地続き」であり、いかに微妙な現れ方をするか。にもかかわらず、正常な感覚と相いれない、何とも言い難い「異常さ」を有し、生きにくい日々を過ごしているか。
春日さんが数多の臨床経験から得た実感に基づき、様々な精神疾患の症状が語られているのだが、それらの症状はそれぞれに奇妙で、同時に微妙であいまいで、けれども春日さんにしてみれば、特有のものなのだ。それを語れるところに、「観察」し、関わり続けてきた著者の凄味がある。

もっとも印象に残ったのは、第4章「神経症は気の迷い?」。

心に秘めた「わだかまり」を言葉にして語るのは、少なからず荷が重いことではある。が、安心してそれを言える状況が用意されているとしたら、それはなかなか気が晴れる営みでもある(カタルシス)。宗教における告解なども、神に許しを乞うという側面もあるけれど、わだかまりを言語化し「吐き出す」ところにポイントがある。占い師に相談するのも、メカニズムとしては似たようなところがある。
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つまり声に出して目の前の人物に心のうちを語るという行動(それはまことに生々しく露骨な振る舞いだ)は、ある種の覚醒をもたらす。それまでの沈黙し耐えていた自分とは別の視点をもたらしてくれる。場合によっては「我に返る」きっかけすら生じさせてくれるはずだ。
といった具合にあれこれとカウンセリングについて書き綴ってみたが、それを乱暴に要約してしまえば「心の内をきちんと語れば(そして誠実に耳を傾けてもらえれば)症状は改善します」といった単純きわまりない話になってしまう。しかし神経症を「気のせい」であると言い切ってしまうこともできるわけで、シンプルであることを軽んじたり侮るべきではあるまい。
性急になってはいけない。わたしたちは言語化というプロセスの大切さを今一度認識して、ときには愚直かつ丁寧に自分の心と向き合う必要があるのだ。              『あなたの隣の精神疾患』第4章150頁

精神科医とカウンセラー、どちらも心を対象にする。精神科医は薬を処方できるが、カウンセラーはできない。精神科医の診療は機械的で数分で終わり、はい、薬となる。それに対してカウンセラーはじっくりと話を聴く。など、が、両者の違いに対する世間一般のイメージだろうか。私もそれに毒されているのか、精神科医は話を聴かない、という漠然としたイメージがあった。でも、春日さんの本を読んでいると、それが誤りであったと痛感する。

春日さんは「言葉の人」だ。臨床の体感を言葉にする。曰く言い難い患者の微妙な症状や様子を、『あなたの隣の精神疾患』を読んだ人がなるほど、と感じられる言葉で、書いている。抽象的な専門用語の対極の言葉。説明する言葉ではなく、「伝える」言葉に「言語化」しているのだ。
専門家がその決定的な差異に意識的であり、「伝える」言葉を使うと、これほどに密度が濃く充実した一文一文となるのか、と春日さんの言葉を堪能した。

だからこそ、先に書いたように、精神科医は話を聴かない、という先入観を誤りだと思えたのだ。相手の話を聴く(誠実に耳を傾ける)には、相手が語ってくれなければならず、そのためには相手が医師を信頼していなければならず、信頼の源には、相手に語りかけた春日さんの言葉があったはずだから。

『精神科医は腹の底で何を考えているか』(春日武彦 幻冬舎新書 2009)を読むと、ものすごくヘンな先生もいっぱいいることがわかる。むしろ、ヘンな先生の方が多そうだ。その中で、伝える言葉を使おうとする先生は、どれぐらいいるのだろう。それぞれにどんなにヘンでも、そこに、決定的な差異がある気がする。

性急になってはいけない。わたしたちは言語化というプロセスの大切さを今一度認識して、ときには愚直かつ丁寧に自分の心と向き合う必要があるのだ。 

ここを読み、言語化を促す側にいると思っている私自身が、「言語化」できているのか、と振り返る。
あとがきの「縄を・・・綯いたい」の老人のエピソードからは、春日さん自身の「言語化」の過程がうかがわれる。春日さんの言う「言語化」とは、自身の心の在りようを検証し続けることなのだ。それがあるから、患者の心の在りようを伝わる言葉で描き出すことができるのだろう。

書きながら、私は、noteで言語化の練習をしているんだな、と気が付いた。本について書こうとすると、結局は読んだ自分について書くことになる。だから大変なのだ。
でも、書き上げたときには、カタルシスとまでは全然いかないが、幾ばくかの達成感が訪れる。それは、その一冊を読んで、わずかであっても、著者を、あるいはその本のエッセンスを、知ることができた、という安心感と言えるかもしれない。



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