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辻村深月『琥珀の夏』と、物語ること

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「記憶」の物語だ。遠い記憶のなかの出来事が、突如今に蘇り侵入してくる。翻弄されながら、記憶の中の出来事は問い直され、本当は何が起きていたのかが明らかになっていく。けれど、「本当」とは、なんだろう。何が「本当」なのか、この作品を読んでいると、そこを揺さぶられる。

「ミライの学校」跡地から、数十年前のものと見られる少女の白骨死体がみつかった。真相は・・・。ボリュームのある重厚なミステリーだが、辻村さんならではのテンポ感と心理描写で、読者を全く飽きさせない。
だが、『琥珀の夏』は、「ミステリー」というカテゴリーとはまた違う構成も持っている。

法子や美夏は、過去の事実を知っていくのだが、どれだけ「事実」を知ろうと、変わらないものに行きつく。それが、美夏に声をかけてもらって孤独から救われた法子の喜びであり、夜の湖で法子に手を差し伸べてもらった美夏の喜びだった。

ほんの一瞬の出来事と、その時の感情の記憶は、「事実」と言うにはあまりにもはかなく、どこにも記録されない。形を持たず、証言を得ることもできない記憶は、「事実」とはなり得ない。にもかかわらず、30年の時間を経て、彼女たちを「事実」に向き合わせ、「事実」にがんじがらめにされ、止まっていた美夏の時間を再び動かしたのは、「記憶」だった。

「ミライの学校」は、怪しい宗教団体かのように報道され、世間にはそのように認識された。関係者の証言や水の販売といった記録に残る「事実」を重ねていけば、そうなるのも当然だ。けれど、そこで過ごした法子や美夏の「記憶」による実感は、報道される「事実」とはズレがあった。
彼女たちにとって、そこでの時間は、良きものとも感じられていたのだ。
証言の積み重ねから「事実」が浮かび上がりながら、同時に「記憶」によって相対化されていく。どんな事実にも、回収しきれない個々の記憶という要素が付随しており、そこに目をむけるとき、対象(ここでは「ミライの学校」)は善悪の二項対立で判断すべきものではなくなる。

「ミライの学校」が良いのか悪いのか。それは、語られない。ある人にとっては良いものであったし、ある人にとっては、良くないものであった。ただ、それは「ミライの学校」自体が善か悪か、と判断する材料にはならないのだ。ただ、このような場所があった、ということだけ。

ナラティブセラピーという心理療法がある。世の中は、その人が世界をどう語るか、によって成り立っているという考え方がベースにある。

クライアントが最初に語る物語を「ドミナントストーリー」と言う。それはクライアントを支配する、ネガティブで苦悩に満ち、辛いものであることが多い。それをセラピストとともに点検し、異なる解釈の可能性を探る。同じ出来事であっても、このようにとらえることもできるのではないか、と。

そのような過程を経て語られる物語を「オルタナティブストーリー」と言う。オルタナティブストーリーにたどり着くことによって、クライアントが以前よりも、現実を生きやすくなることを目指す。

美夏は法子によって、自分を支配してきたドミナントストーリーから解放され、家族と一歩を踏み出そうとするところで、小説が終わる。

この作品において、読者は物語終盤よりも前で白骨死体の真相を示唆されており、同時に、最後まで読んでも、真相は当時を知る人物たちの証言から予測されるものでしかない、という、ある意味宙づり状態に放置される。
つまり、真相解明がクライマックスではないのだ。

でもそこが、私が辻村さんの作品を読み続ける理由だ。真相解明が物語の終結ではない。登場人物が、現実をどのように受け止め、歩き出すか。過去の意味を問い直し、それが現在を生きる力となっていくか。辻村さんは、その過程をこれでもか、というほど丁寧に追う。
真相解明のカタルシスとは異なる、深い読後感がある。

『琥珀の夏』は、「記憶」が媒介となり、美夏と法子が、自身の物語を語り直す物語である。
過去は変えられない、と言う。確かに、起きたことを無かったことにはできない。でも、今を生きている私自身と地続きにある過去とは「記憶」であり、「記憶」は長い時間の中で私たちの脳内で編集されていく。だから、私たちが過去に縛られていると言うとき、それは、自分で自分をがんじがらめにしているのかもしれないのだ。
それがどれほど辛い過去であっても、私たちは、過去を語り直すことができるのか。両親と暮らせない寂しさをずっと抱え続けた美夏の幼少期、そして身近な少女の死、と、美夏の過去は辛く重い。それでも彼女は新しい一歩を踏み出す。
同時に、その一歩を踏み出すまでには、30年近い時間が経っていた。

この物語に、どんなに辛い過去でも、どれほど時間がかかっても、また、前に進めるときが来る、という希望を見出すこともできる。
同時に、過去を語り直すのにはこれほどの時間を必要とし、また法子のような存在無くしては無しえない、と考えると、限りなく絶望的だとも読める。

現実はどうだろう。今読んでいる『悲しみとともにどう生きるか』(集英社新書)で、世田谷一家殺人事件で妹家族を失った入江杏さんは、遺族として生きてきた20年の思いを語っている。

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妹一家が逝ってしまってから六年経った二〇〇六年の年末。私は「悲しみ」について思いを馳せる会を「ミシュカの森」と題して開催するようになった。(中略)さまざまな苦しみや悲しみに向き合い、共感し合える場をつくることで、「ミシュカの森」を、犯罪や事件と直接関係のない人たちにも、それぞれに意味のある催しにしたい。そしてその思いが、共感と共生に満ちた社会につながっていけばと願ったからだ。
『悲しみとともにどう生きるか』柳田邦男・星野智幸・平野啓一郎・若松英輔・東畑開人・島薗進・入江杏 編著  集英社新書 2020/11/22

「ミシュカの森」によって、入江さんは自身と同じように悲しむ人たちをつなげ、新しいつながりの中で、生きる力を得、生きている。喪失と再生、などと簡単にまとめられるものではないけれど、これほどの悲惨な体験をしても、他者の悲しみを思い、共に生きていこうと歩き出すことができるのだ、と感銘を受けた。

話が広がっていってしまったが、私の中でこの二冊がつながったのは、人はどれほどの悲しみ、辛い過去から、立ち上がることができるのか、という疑問においてだ。けれど、そこに答えは無い。ただ、立ち上がれる可能性がある、ということだ。

『琥珀の夏』から『悲しみとともに~』へ、今これ以上のことを書けないが、記録として残しておこう。人はどのようにして過去から立ち上がることができるのか、たぶん、これは、私の読書の柱となるテーマの一つだ。


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