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#22 バスク

カンドウ神父という人がいた。

どういう人であったのか、なぜ名前を聞いたことがあるのか、気にしたことはない。

それが、ふとした弾みで気になった。


その名をSauveur Antoine Candau ソーヴール・アントワーヌ・カンドウといい、1925年に来日、その翌年に上京してのちに東京公教大神学校の校長として日本人司祭の育成に携わり、早稲田大学や上智大学、聖心女子大学で教鞭をとり、アテネ・フランセや東京日仏学院でフランス語学やフランス文学の講義を担当されたのだそうだ。

カンドウ神父の論考や書簡、エッセイを収録した『カンドウ全集』という書籍がある。読んだことはなかったが、神父の日本語や日本文化への造詣の深さについては何かの記事で読んだ記憶がある。なるほど、それで名前を知っていたのかとようやく思いあたった。

ところが、カンドウ神父の情報はそれだけではなかった。それは、司馬遼太郎の『街道をゆく(南蛮のみちⅠ)』を読んでいる時に偶然発見した。

彼は、バスク人であった。
それも、フランス側の。

1549年に鹿児島へ上陸したフランシスコ・ザビエルもまた、バスク人であった。しかもスペイン側の。

日本にゆかりのある二人の外国人を、私はそれぞれフランス人とスペイン人だと長い間思っていた。学校の教科書にはザビエルがバスク人であったとは書かれていなかった。当時のイベリア半島の状況からすると、彼はスペイン人ではなくバスク人として紹介されるべきであった。なぜならザビエルはナバラ王国の出身で、のちにスペインとの戦いに敗れて王国がその支配下に入ったとはいえ、今でもバスク地方は決してスペインだとはいいきれないからである。


それまでは歴史上の人物として遠くにいた人が、こうして急に身近な親戚にでもなったかのように感じるというのは非常に身勝手な話であるが、バスクという言葉を意識するようになったのは、先日紹介をした以下の本のためである。



本書の中に、主人公のニコライが滞在するフランスバスク、エチェバー村の描写がある。

ハンナは、セゾンの急流にかかっているアベンス橋を渡り、要綱で柔らかくなったタール舗装の狭い道を伝ってバスクの丘の中へと、すでに一時間ほど歩いていた。道の両側に古い石壁があって、彼女が近づくとトカゲが慌てて逃げていく。原では羊が草を食べており、子羊が雌羊のそばで今にも倒れそうによたよたしている。(中略)
暑さが濃いかおりのメドレーを奏でている —— 野生の花のソプラノ、刈った草と新しい羊の糞のメッツァ=ヴォーチェ、柔らかいタールの執拗なバッソ=プロフンド。

『シブミ』菊池光訳(ハヤカワ文庫)より


< 印のあるところがEtchebar >

Etchebarという地名は、どうやら実在するらしい。Google Mapのストリートビューで確認すると、まさに上記のような風景が広がっていた。


ところで、私はバスクについて何を知っているだろう。

少なくとも国ではない。独自の文化と言語がある。料理が美味しい。独立運動が盛んである。

……。


どれも一元的で、本質を捉えたものは一つもない。

そういうわけで、書籍を頼りにバスクとは何かという探究の旅に出た。

まず最初に驚いたのは、バスク地方がピレネー山脈を挟んでスペイン側とフランス側に広がっていることである。
もちろん知識としては知っていたが、スペインにおけるバスクとフランスにおけるバスクとでは、どうやらかなり様子が異なるようなのだ。バスクの存在は、スペインでは瘤のような異形を呈しているのに対して、フランス・バスクは、あたかもフランス国内の一つの県に過ぎないような澄まし顔で溶け込んでいる。

前述の司馬遼太郎氏の本にも同じような感想が書かれており、これは私がバスクを肌で感じた瞬間であった。


そもそもバスクという民族は、クロマニョン人を直接の祖先とするといわれるほどその歴史は古く、ローマ帝国の版図にも入らず、大西洋に面してピレネー山脈の両側に長いこと苔がすように生きてきた民族である。

バスク人の血液型の統計にも、同族婚が多いことが数値として表れている。B型の発現率はヨーロッパ最低値である一方、O型の発現率はヨーロッパ最高値、Rhマイナス型は世界的に見ても高い数値を示している。これらは集団内婚姻の高さを示すものである。

他方、言語については、前掲の私の記事で、ニコライがバスク語の発音を学ぶにあたりドイツ語を参考にしたのはバスクの地理上の位置を知らなかったからではないかと書いた。ところが、バスク語は両隣のスペイン語ともフランス語とも全く異なる、単独の、いわば日本語のように孤立した言語であることがわかった。



これは、言語史上、最大の謎の一つだといえる。日本語の場合は周囲が海に囲まれており、比較的言語島が形成されやすい環境にあることは容易に理解できる。

しかし、バスクは大陸にあり、絶えずゲルマン民族やアラブ人などの異民族が行き交った交差点上にある。それにも関わらず、言語として全く独立しているというのは、言語学者ではない私から見ても普通ではないと思われるのである。

現在のバスク地方は、フランスの3県、スペインの4県、合わせて7県を指す。バスク人たちはそれぞれスペイン語やフランス語も話す。

ところが、最近ではバスク人の中でもバスク語が話せる人は少ないのだそうだ。そのため、バスク語アカデミーなるものが設立され、バスク語の教育を行っているらしい。

奥付けを見ると、1983年に週刊朝日で連載が始まった『街道をゆく』だが、この時点ですら、旅上で出会ったバスク語を話せないバスクの人々が、そのことを悲しんでいる様子がたびたび描かれている。


言語というのは自己同一性アイデンティティである。

繰り返しそう述べられている。バスクには言語以外、何一つ固有の文化がないのだ、と。


バスクのシンボルであるベレー帽を被っても、バスク十字を身につけても、サハトと呼ばれる革袋からワインを口に注いでも、完全なるバスク人ではありえない。なぜならそれらは、すべて外見上の特徴にすぎないからである。


< バスクのシンボルたち >


しかし、言語は違う。
言語は魂である。
文法を学び、単語を覚えただけでは言葉を身につけたとはいえない。言葉を真に身につけるためには、その奥にある魂のようなものを纏う必要がある。バスク語関連の書物に格言が多いのもそのせいかもしれない。バスク人の、バスク語への固執をみるうちに、いつしか私はそんな気分になっていた。


バスク人は何処から来たのかわからない民族である。自分が何者で、何処から来たのかを知りたいという気持ちが、きっと言語という自己同一性への欲求に繋がっているのに違いない。


ところで、先にあげたニコライの発音の話に戻ると、実はまんざら突飛な話ではないのではないかと、ふと思った。

というのも、バスク語にはKという文字が多用されているからである。

いつか本腰を入れて調べたいと思っていることの一つにKの言語分布がある。例えば、コーヒーという単語を綴るのに、Cから始まる場合と、Kから始まる場合がある。ラテン語圏ではcafé のようにCから始まることが多いが、西ゲルマン語の英語もなぜかcoffeeとCを使う。コーヒーの原産地エチオピアではKaffaであり、オランダ以東にかけての国ではkoffieやkaffeのようにKが使われる。

そして、バスク語もまたkafaeと綴る。まるで西北ゲルマン諸語の言語上の飛地のようである。しかも、バスク語では前置詞の代わりに格語尾が用いられる。

ここから、実はバスク人は、はるか昔に東方まで移動しており、ゲルマン諸語に影響を与えたのち、地中海沿岸を支配したローマ帝国によって分断されたのではないか。
と、いい加減な人類学を想像してみた。
学界の偉い方々からは、出鱈目を言うなとお叱りを受けそうであるが、この出鱈目の「鱈」は、バスク地方の名物でもある。


バスク人の古くからの生業の一つに漁業がある。捕鯨はバスク人の代名詞ともいえるものだが、ノルウェー式捕鯨が一般的になるにつれて、バスク人の捕鯨漁は縮小した。面白いことに、バスクの捕鯨は日本と同じ突取捕鯨なのだそうである。現在、この漁法は鯨へのダメージが大きく残酷であるということで使用されなくなったようだが、こんなところにも遠く離れたバスクとの共通点が見出せるのも興味深い。

アイルランドからニューファンドランド沖にかけての海域は、タラの良好な漁場で、バスク地方だけではなくスペインやポルトガルでもよく食べられている。塩漬けにされたものはバスク語でバカラオといい、保存食の定番である。

バカラオは1週間ほどかけて水で戻し、そのあとでさまざまな料理に使われる。

バスク地方は代々女系社会らしいのだが、料理に関しては美食倶楽部というものがあり、女子は厨房に入らずという女人禁制のクラブが存在するのだとか。
男性だけが入会を許され、男性だけで料理をし、美食を味わうクラブなのだそうである。

ここ数年、バスク風チーズケーキなるものが流行ったことでもあるし、いつかバスク料理でもつまみがら、地元の人と交流するのも楽しそうだ。


ここは一つ、勉学の秋と称してバスク語の勉強でも始めてみようか。

バスク地方は西仏両国にまたがっているから、両方の言語の影響を受けている可能性は高い。どちらの言語も多少の心得はあるから、なんとかなるかもしれない。それに、何かの本によるとバスク語と日本語は似ているらしいという説もある。

そこで善は急げとばかりに本屋へ赴き、バスク語の文法書を手に取ってみた。


ページを繰るたびにテンションが下がっていく。
フランス語とスペイン語に多少の心得があるから…。日本語に似ている…。
なぜそんな甘い期待を抱いてしまったのだろう。
そこには、未知の言語としてのバスク語が、私を睥睨していた。


こうして私は、週末がくるたびに本屋に通い、晩秋をはるかにすぎた今も、バスク語の教本を前にして買うべきか買わざるべきかという問題に苦悶し続けているのである。



※バスク地方のキャロル『Gabriel’s Message 』をStingのアレンジで




<一度は行きたいあの場所>シリーズ(22)

※このシリーズの過去記事はこちら↓


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