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<ロダンの庭で> それでも花は咲く

海棠の木が倒れたらしい。

母の話である。
裏庭に回ると、たしかに海棠が行き倒れたように横たわっていた。


実は、数年前にも一度倒れたことがある。
その年は大雪が降った年で、雪の重みに耐えきれず、根本から薙ぎ倒されてしまったのだった。
雪が融けると、父が滑車とロープを使って海棠を立て直した。

もうダメだろうと思っていると、その春、海棠は見事な花をつけた。


今回はどうやら春先の長雨で土砂が流れ、地盤が緩んだために根元から倒れたものと思われる。

枝先に膨らんだ蕾が、ようやく開き始めたところだったのだ。倒れたのは前日のことだという。足元の池を覆うように倒れた海棠は、まるで床に伏す病人のようであった。


母が、下の方にある枝を切って持って帰りなさいと言うので、私は水面をかすめるように垂れている枝をいくつか手折った。

こんなに間近で海棠の花を見るのは、初めてだった。

房をなして垂れ下がる蕾が、サクランボの実のように見える。調べてみると、海棠は花海棠というのが正式で、中国原産のバラ科リンゴ属なのだそうだ。一方サクランボは、同じバラ科でもサクラ属に分類される種でイラン辺りに自生してセイヨウミザクラと呼ばれ、花を鑑賞するサクラとは別物らしい。


春は、バラ科の植物が次々に花開く季節である。

ウメやモモ、アンズにスモモ。
そして、日本人がもっとも愛するサクラが見頃を迎えると、もう春真っ盛りである。

ことほどさように日本人の心を高揚させるサクラの花に、私も子供時分には心が躍ったものである。


ところが、いつの頃からかサクラの花にただならぬ雰囲気を感じはじめた。おそらくそれは、かの有名な一文が原因であったろう。


桜の樹の下には屍体が埋まっている!


梶井基次郎の有名な冒頭である。
と長年思っていたら、いつだったか、これは坂口安吾の名言であると何かで読んだ。

またもや勘違いをしたらしく、いささか情けない気持ちでいたが、よくよく考えると私は坂口安吾を知らない。国語便覧でその名を知っているばかりで、実際に読んだことがないのだった。

それではこれを機に読んでみようと思い立って、それらしき本を探してみた。


『桜の森の満開の下』


おそらくこの作品だろう、そう当たりをつけて読み始めた。

なるほど、桜の木の怪しい魅力がどろどろと伝わってくる。怪奇物といってよい話を不気味に、それでいて昔話のような軽妙な筆致で描いてある。


話の筋についつい引き込まれて思わず忘れそうになったが、くだんの文章はどこにも見当たらない。

そこで、今度は梶井基次郎の『桜の樹の下には』を読み直すことにした。

そして、その冒頭。


桜の樹の下には屍体が埋まっている!


やはり、この一文は梶井の作品だったのだ。
一体どこで坂口安吾の名言であると読んだのか全く憶えていないが、おかげで二人の文豪の作品を読む機会を得たのだから、これはこれでよかったと思っている。


桜の花は、不思議である。
昼の光の下では儚げな花びらを豪華に広げ、堂々たる貴婦人のようであるのに、夜になると闇の中にぼうっと白く浮かぶ妖艶な亡霊のように見える。昼と夜とではまるで別人である。

もし、夜中に桜の下を通ったならば、美しさよりも恐怖を感じるに違いない。


桜の樹の下には屍体が埋まっている!


膨らんだ蕾がしだいに赤く染まり、やがてはらはらと散っていく様子を見ていると、まんざら小説の中の話ではないように思えてくる。


思えば、日本文学を読むのは久しぶりだ。
改めて読んでみると、圧倒的な迫力に驚かされる。文豪と呼ばれる作家の文章には、渾身の魂が宿っている。ただ文章を書き散らしている私とは、天と地ほどに筆力が違う。

もちろん、文豪と筆を競う気など毛ほどもない。
そうではなく、世の中には優れた人たちの多いことに驚嘆しているのだ。


ところで、海棠は中国では最も美しい花とされ、かの玄宗皇帝は楊貴妃に譬えたという。

桜よりも細い枝から長く伸びた花茎の先でいくつもの花房がこうべを垂れて咲く。その姿は、たおやかな淑女のようである。

そこには、皇帝を惑わし、安史の乱を引き起こす元凶となった小悪魔的な面影はない。

とはいえ、私は楊貴妃がどんな女性であったのか知らない。会ったことも見たこともなく、ただ語られた歴史によって「傾国の美女」と知っている、、、、、にすぎないのである。


子供の頃、大人は賢者であると思っていた。
ところが、よわいを重ねるにつれ、大人には二種類あるのではないかと思い始めた。

つまり、星の王子さまの言うところの「うわばみを見る大人」と、「帽子を見る大人」である。


私たちは経験によって多くのことを学ぶ。たしかに学びはするが、それは同時に物事を決めつける尺になってはいないだろうか。

知らないことも知っていると思い込み、いたずらに自分の考えに固執してはいないだろうか。

知識や経験が、かえって自惚れを生みはしなかっただろうか。


手折られてもなお粛々と花を咲かせる蕾に、私は己の非力さを見たのだった。



<ロダンの庭で>シリーズ(4)

※このシリーズの過去記事はこちら↓




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