レイシズムとは何か(3)──偏見からジェノサイドへ(2)

 前回ミシェル・ヴィヴィオルカの議論を用いて、レイシズムが差別・暴力といった実際の行為として現われるか、それとも偏見に留まっているかは、社会的条件しだいだ、ということを指摘した。
 なぜこれが重要なのか。
 それは差別現象が「差別アクセル」と「反差別ブレーキ」の対抗関係のなかで起きるからである。
 この連載で考えたい問題意識をあらためて明確にしておきたい。
 どんな社会的条件が「差別アクセル」になるのか(つまりレイシズムを激化させ差別・暴力という行為を生み出す効果をもつ条件)。また逆にどんな社会的条件が「反差別ブレーキ」となるのか(レイシズム激化を抑制し、差別・暴力行為への発展に歯止めをかけて、せいぜい偏見やマイクロアグレッションに留める効果をもつ条件)。
 つまりレイシズムのピラミッドでいえば、下の階から上の階へとレイシズムを激化させる「差別アクセル」(赤の矢印)と、逆にレイシズムを上から下の階へと抑制しようとする「反差別ブレーキ」(青の矢印)との対抗関係を、誰にでも見えるように明確な言葉にしたい。

スライド4


 以下はその試論である。前回書いたことと若干重複するものの、あらためて「差別アクセル」と「反差別ブレーキ」との対抗関係について説明する。


●差別アクセル

 前回も引用したがヴィヴィオルカは「偏見は必然的に行動に移るわけではない」という重要な指摘をしていた。繰り返しになるが要点を再掲する。
1934年の米国白人の研究者ラピエールの研究で、かれが一緒に旅行した場合は中国人2名が一緒にいても一例を除き66のホテル・184のレストランを回っても断られなかったが、後にそれらにアンケートを郵送し質問すると回答の9割以上が中国人客を断るかもしれないと答えたのだった。ヴィヴィオルカは言う。

「この事例が示すのは、アジア人に対する偏見と行為が必然的につながるわけではまったくないことだ。中国人客は実際にちゃんと受け入れられたのである。だからといって、こうした状況で偏見が差別として表れないわけでもない。むしろ偏見から行動への移行には、特に政治とモラルの面で条件が揃うことが必要だ。条件がそろわなければ、行動は起こされないか、オルポートがラピエールの著作の注釈で書いたように、「気まずさを生むような、面と向かった状況」〔オルポートの引用〕を避けて間接的な形で行われる」。」(森千香子訳『レイシズムの変貌』76頁)

 このコメントは「差別アクセル」と「反差別ブレーキ」の関係をわかりやすく教えてくれる。
 まず「差別アクセル」からについて。

 ヴィヴィオルカによると、偏見(Lv.1)からの差別行為(Lv.3以上)への移行には、「特に政治とモラルの面で条件」がそろう必要がある。これが差別アクセルだ。つまりレイシズムが実際の差別行為以上に現象するには、その差別や暴力行為の背中を押すアクセルのような効果をもつ社会的条件が必要なのである。
 レイシズムのピラミッドの上階へと行為をエスカレートさせる社会的条件(とその効果)のこと差別アクセルとしておく。差別アクセルにはたとえば実際に相次ぐヘイトクライムや、極右政治家のヘイトスピーチや、在特会などの極右勢力の組織化や、そして国や自治体による差別などが含まれる(後述)。


(具体的な例では、2019年8月のあいちトリエンナーレでは、河村たけし名古屋市長をはじめとした極右政治家が「表現の不自由展・その後」を徹底的にバッシングし、わずか3日で展示中止に追い込んだ。大量の電話・FAX・メールや直接による差別・脅迫が主催者に殺到するようになったのは、「抗議」形式をとった極右政治家のヘイトスピーチが巨大な差別煽動アクセル効果を生み、レイシズムのレベルを一気にピラミッドの上階へと引き上げたためだ。
 また最近の新型コロナウイルスの世界的な流行下で、日本でも世界でも、中国人(や日本人含めたアジア系)への差別・ヘイトクライムが頻発している。以前の定義でレイシズムが人種化して殺す(死なせる)権力だと書いた。新型コロナウイルスを口実にした差別頻発は明らかに、レイシズムがウイルスや病原体という社会の危険を人種化し(「中国人」「アジア人」=感染源!)それを排除したり、死なせることが、人種化された自分の生を守ることにつながるとするレイシズムの権力の作動である。ここでの差別アクセルはたとえばマスコミやSNSでの、社会の病原体として人種=「中国人」「アジア人」をつくりだすヘイトスピーチやニュースなどであろう。これについては改めて説明する。)

●反差別ブレーキ

 次に反差別ブレーキについて。
 ヴィヴィオルカは、前述の条件(「政治とモラルの面」での)が揃わない場合は、「行動は起こされない」か、あるいは「「気まずさを生むような、面と向かった状況」〔オルポート〕を避けて間接的な形で行われる」と書いている。つまりレイシズムは差別アクセルが無い場合は直接差別などの行為(Lv.3以上)としては現われず、せいぜい間接的に行われる(Lv.2以下)に留まる。
 これについてはヴィヴィオルカが引用しているゴードン・オルポートの古典『偏見の心理』の元の文章に、より明確に反差別ブレーキについての言及がある。

(ラピエールの研究結果を踏まえたうえで)「われわれは試みに次のような一般化を行ってみよう。すなわち、一方には法律と良心とがあり、他方には慣習と偏見があるというはっきりとした葛藤が存在する場合は、差別は主として潜在的で間接的な仕方で行なわれ、当惑をもたらすような対面状況においては、元来、差別は行われない、と。」(ゴードン・オルポート著、原谷達夫/野村昭共訳『偏見の心理(上)』(培風館、1961年、52頁)。

 差別禁止法が空気のような存在であるフランスの社会学者ヴィヴィオルカは、オルポートの引用時に(差別禁止法のない日本の読者にはとても)重要なことを省いてしまっていた。オルポートは差別を抑制する効果をもつ法律や良心を前提していた。個人のレイシズムに基づいた偏見があっても、それが反差別の法規範や道徳と対立し、「はっきりとした葛藤が存在する場合」には、差別は「潜在的で間接的な仕方で行なわれ」るし、気まずい「対面状況においては、元来、差別はおこなわれない」というのがオルポートの趣旨だった。
 このように差別に反対する効果、レイシズムが激化して暴力や差別などの行為に発展するのを抑制する効果をもつ社会的条件を、この連載では反差別ブレーキとしておこう。レイシズムのピラミッドの上階に向かう差別アクセルに歯止めをかけ、ピラミッドの下階へと差別を封じ込める社会的条件(とその効果)が反差別ブレーキである。反差別ブレーキにはオルポートが指摘した法律や良心だけでなく、反差別の社会運動や当事者団体、首相や政治家の反差別コメントや、行政やNGOのヘイトウォッチ、さらには第三者介入(差別発生現場に居合わせた第三者が差別を抑制する介入を行うこと)からスポーツや音楽や映画などの反差別文化などが含まれる(これについては改めて次回以降論じる)。

●差別は「ココロの問題」ではなく、リアルなチカラ関係(権力)の問題だ

 以上で、差別アクセルと反差別ブレーキのごく簡単な説明を終えた。
 現実におこる全ての差別は、互いに対立する社会的効果(差別を激化する差別アクセルと、抑制する反差別ブレーキ)のせめぎ合いのなかで起こる。
よく差別は「ココロの問題」だと思われがちだが、それは間違いだ。差別は極めてリアルなチカラ関係(権力関係)のなかでしか起こらない。
 しかしだからこそ差別が起こるチカラ関係から目を背けず、分析することさえサボらなければ、私たちは差別にリアルな対処ができる。
 つまり具体的な状況下で、どんな条件が差別アクセルとなり、どんな条件が反差別ブレーキとなるのかを分析していけばよいのである。
 次回はまず差別アクセルを、その次に反差別ブレーキについて、どのようなものがあるか解説したい。
 では、レイシズムを暴力に結びつけてしまう差別アクセルとは一体どんなものか。人種化して殺す(死なせる)という権力が実際に作動して人々を暴力やジェノサイド行為に走らせる社会的条件とは何か。(続く)

※このような方法は、戦後日本の左翼が重視してきた従来型の反差別教育のやり方とは異なる。つまり差別をなくすのは、差別の被害と、その主体であるマイノリティを理解することだ、とする発想とは異なる。
レイシズムのピラミッドでいえば、私はレベル3以上の差別・暴力・ジェノサイドへの発展を阻止することが最も主要な実践課題だと考えているため、じつはピラミッドのレベル1の偏見部分はそれじたいの改善を主な課題とは考えていない。ピラミッドの一番下の偏見=イデオロギーこそ諸悪の根源だと考えがち上の世代には批判を受けるかもしれないが。
しかし「偏見はダメだ」「マイノリティを理解しよう」と言ったところで、どれほど意味があるだろう? わかりやすい差別を批判するだけでなく、わかりにくい偏見をも批判しなければならないという批判精神は尊いとは思うが、ではどうやったら目の前の差別やヘイトクライムに対処できるのかという問いに答えられるのか?
私はピラミッドのレベル3以上への発展を阻止する実践を通じてでなければ、レベル2以下のマイクロアグレッションや偏見を克服する意味ある実践をつくれないと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?