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あえて「働かない」合理性についての序論

労働はオーバーアチーブである

 「労働」とは、本質的にオーバーアチーブである。賃金と労働が=(イコール)の関係で結ばれることはほとんどありえない。人間は、賃金に対してつねに過大なはたらきをしなければならない。30万円分のはたらきをして、30万円を手にするのでは会社はつぶれてしまう。すくなくも50万程度のはたらきを見せていなければ30万円を手にすることはできない(あるいはもっとかもしれない)。
 人間は、賃金以上にはたらく傾向をもつ。それが人間の「働く」ことにともなう条件である。人間以外の生物には、必要とされる以上の財物やサービスを提供しようとするものはない。捕食能力が高いからと言って、あざらしのための魚までとるサメはいないのである(当然ですね)。
 そのようにアディショナルな労働をする生物は人間を除いていない。人類は、必要性を超える労働をすることによって他の動物と分岐した。にしても、人間はなぜ必要性を超える労働をするようになったのだろうか。人間は、必要以上のものを作り出すが必要以上のものはつかいきることはできない。それは誰かにパスする(あげる)しかない。人類は、つくりすぎたものを誰かに送り出した。必要を超えるものをつくりだすことで、人類は発展してきたと言っても過言ではない。
 私たち人類は、だいたいの物事の起源については何も知らないしこれからも知ることはない。その根源が遠い過去のうちに蔵されているためであるし、また人びとの活動が個人によって行われているというよりもむしろ、社会的に、団体として行われているからである(そのはじまりがどこかいまいち掴み切れない)。

あえて「はたらかない」

 だから、「労働する」ことも、するかしないかを意思として決定するのでもなければ、なぜそれをしなければいけないかもうまく説明することができない。ただ、「労働する」事実がそこにあるだけである。語ることができるのはどのように労働するかにすぎない。ニート(NEET)の存在が明らかになって久しいが、「はたらく気がしない」というのは、はたらくことの意味や価値が分からないのと同義である。「意味」があるか分からないからである。これは合理性の呪いに覆いつくされた時代の宿痾である。「働く意義が分からない」と労働を放棄する人びとは、世界は「意味のあること」に統御されていなければならないと考えているのである。徹底している。彼らは、その意味のあることを「等価交換」だと考える。したがって、30万円分のはたらきには、30万円が支払われて当然であるし、それが払わなければ合理的でないと理解する。ある意味でその通りである。一定のコストに適正なリターン。それは確かに合理的である。
 「労働」が、本来的に、オーバーアチーブであることを理解していなければ、労働する理由は見いだせない。なぜならば、等価交換とは程遠いからである。ただし、彼らには気づいていないことがある。それは、彼らのその生活自体が彼らを扶養する親たちの「愛」や「肉親の情」といった非合理的な支出に下支えされている事実である。みずからが他者からの贈与によって成立しているにもかかわらず、他者への贈与のプレイヤーになろうとしない。みずからへの贈与に対し、ものを受け取ることの果実に対し、それへの返報行為をとらずに、贈与にあずかるだけというのは、みずからの支出がない分、投資コストがゼロで様々なものを得ることを意味するのであるから、ある意味できわめて賢い取引である。なるほど。
 ニートという種の者に、それも進んでその場にとどまるものに、経済的な功利で語ってもはたらきださない理由はこれである。しかし、それとは別に働きたくとも働けない状態に陥っている人が数多くいる。その人たちは、その意に反して働けないのである。これはなんとかしなければならない。


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