mutatio

※前ブログより再掲載※(八月十日)

変わった事、沢山有る。

いつからかは解らないが、引きこもりがちでマイナス思考な常にネガティブな鬱体質人間だった私はヒトに執着することなく答えを見出せる“モノ”に執着してた。

今ももしかするとそれは改善されていないのかもしれない。

まずはルックス。青い髪に顔面多数の装飾品、奇抜な服装に身を包むことが何より好きだった。

それを失くしては、自分だと認識したくないほどこの見た目が大好きだった。

顔にひどいコンプレックスを抱いている私は目の付け所が変わったりすることや傷をつけるのが何よりの精神安定だった。

そして、薬物。チープドラッグと言われる処方薬依存症だった。そして市販薬依存でもあった。

毎日パワハラが酷かった時、電車で通勤している時に片手にSSブロン一瓶と向精神薬、もう片方にはレッドブルの一番大きいのを二本持って生活していた。

それを着くまでに飲み切り、開店するときにはドンギマりで居ていないとボロボロにならずに仕事が出来る状況じゃなかった。

コデインもブロンのようなものじゃなく原液と、メジコンを中国から個人輸入していたりもしていた。

そして帰宅をしても、交代人格の人に眠剤をODされ腕に傷がつく毎日を過ごしていた。

お陰で今も離脱症状で薬剤性パーキンソニズムとジストニア、アカシジアが残ってしまった。かなり苦しい。

煙草を吸っていると手の震えが目立ち、笑ったり肩や首に力が入ると首元すべてが攣ったように固まってしまう。酷くてまだ舌が攣ってしまう。

寝るときには、アカシジアに似たレストレスレッグ症候群のような症状がまだ出る。

兎に角病気になってしまうようなことばかりしていた。

そしてとても鬱が慢性的にあるヒトだったので、何にしても気になってしまっていたりしていた。

体系のことに気になり過ぎてしまい、拒食・過食嘔吐を繰り返していたりお菓子のみで生活する偏食家に成って居たりもした。

そうしていると、食べたくなってもご飯を食べることが出来なくなってしまい栄養失調で倒れたり、運動を極度にできなくなってしまったりしていた。

身体事体が何も受け付けなくなってしまう、そして食べることが出来たと思っても食べたことを強迫観念から罪悪感で辛くなる。

生きることを反対されているかの様に、体が成ってしまう。

そんな自分が、変わった。

今のパートナーに出逢ってから、まずご飯を少しずつ食べれるようになった。

そして食への興味が出てきている、食べれるものが少なかった自分がまた沢山食べたいものが出てきたことが何よりうれしい。

かなり、当時よりは体重も増えたし身体もぽっちゃりしてきているがちゃんとパートナーは綺麗に成ったねと良い事だと教えてくれた。

私にはずっと解らなかったから、本当に出逢わなかったらきっと今頃病棟の片隅でカロリーの高いIVRとか入れられていたのではないかと思うとぞっとする。

そして、薬物依存者だったパートナーはかなり酷い過去を送っていた。(現在は完全に辞めている。)

違法薬物の代表格のマリファナ、LSD。そして私と同じコデイン原液依存。ロヒ食いだったところもある。

アングラ業界の若手アーティストだったこと、音楽をクリエイトするためのツールだったとパートナーは言っていた。

ただやはり、依存している状況になんら変わりは無いということ。そしてそんな“薬中”の自分に嫌気が差したらしい。

そこからの事、薬物を使用しているヒトやその環境から一切姿を消したという。

その根源を完全に経ち、離脱症状に苦しみながら今に至るそう。

そこまでやり切っているパートナーと居ていると辞めないといけない使命感や、今までの自分そしてこれからの自分の為に成らないそれがとても可哀想に感じた。

私自身、薬物を使用していようが食品を摂取しなかったとしても自傷行為が酷かったとしても誰も悲しまないと思って居た。

それもつい最近まで。解離し薬に浸され、腕には医療用縫合糸の集合体の姿を見たパートナーや家族、友達の顔が曇っているように見えた。

そして言葉ではっきりと『そんな貴方を見たくない』と言われてしまった。そこからの事、自分を大切にしないと自分の大切な人を大切にできないと知った。

今までの行為がすべて、周りの大切な人を傷付ける行為だということを認識してしまって酷く失望した。

“ソコ”まで行って初めて理解した。とても視野の狭い人間だったということ。自意識過剰だとしてもいい、自分のことは最低でも大切にしなくてはならないと痛感した。

そこから、薬物を辞めるようになった。 パートナーも初めはとても褒めてくれていた。

今は辞めて当たり前だと、自覚のない状況を作り上げるなとよく叱責される。御尤もです。

私は、他人の一人や二人で人生など変わりやしないと思い込んでいた。

人との出逢いなどで自身が変わることなども無い、よく言えばブレない流されることのない人だと思い込んでいた。

今はそう言い切れない、なぜなら知らなかった人生観や感情を教えてくれたこと、そして今までの全ての出逢いの意義を再認識させられた。

地球上の人口や、人柄、過去を見てしまえばちっぽけなことでも私にとってはとても大切なことで大切な人。

嫌な部分や、見たくも聞きたくもない事も山ほどある。そして知りたくないまだ知らない部分も沢山有ると思うが唯々今自分が気持ちの変化や意識の変化がある現状に対して嘘は何一つないからこそとても幸せな出逢いをしたと言い切れる。

正直、いつかは別れが来ると思う。そう覚悟して過ごしている、一瞬一瞬がとても大切、宝物だと思う。

こんなことを考えながら過ごすなんて本当に数少ないと思って居る。

なぜこのような考え方になっているのかというと、私の母がつい先日霊視で診てもらっていた。

信じ切っているわけではないけれど、私はいつか暴力を振るわれ、浮気され、別れると言われた。

全てしないと信じ切れる内容ではない、むしろする確率の方が大きいようなものばかりだ。

だからこそ、その時の自分が辛くならないように上限を決めて別れが来ることを前提にすべて行動することにした。

人は終わりがあるとなにかしら大切にしだす。命や時、無期限だと錯覚してしまうようなものは大切にしない。

私もそうかもしれない、今まで死に近すぎた人間だったがなんやかんやと生きている現状に癒着している。

パートナーとご飯を食べる事、パートナーと一緒に床に就く事、パートナーと出掛ける事、今日ですべて終わると思うと一分どころか一秒でも大切に思えてくる。

生きている証明も、楽しいと思う証明も、幸せと感じている証明も今しかできない。精一杯するしかないと思った。

付き合った当初に、パートナーからよく『後悔の無いように全力でいくし来い』と男気のように言っていた。

全然解らなかった当初は、全力で行けば行くほど辛くなる。と思って居たからこそ余計に解らなかった。

確かに、今でも行けば行くほど辛いという心理は理解できるけれどもうここまで来てしまったら後戻りできないからこそ全力で行くしかない現状だということも今は思える。

本当に相手のことを大切だと思う気持ちがあるなら、自分のことも誰のことも本心から大切にできると確信を持った。

私が大好きな映画がある。人は可笑しいとよく言う映画だ。

それがSawシリーズの三番目の映画だ。沢山の話が連結している。

そのすべてが生に感謝せず生きていることを当たり前としている人々にジグソウという者が制裁を下す映画だ。

ジグソウ本人は、妻もおり子供も身ごもったが病院勤務の後薬物常習犯の者に流産させられ子供を失った。そして時が経ち末期の癌だと解る。

何度も自殺を図ったが人間の生命力により未遂にすべて終わる。そこから人間の生命力と生きたいと思う意思を試そうと沢山の何かを持っている人々にゲームをさせることに。

ゲームに選ばれる大半の人間は、生きることに感謝せず人を不幸に陥れることをしていたり、自身を傷付けることをしていたりする人々だ。

そんなに人々によく言うセリフがある。

『生きるか死ぬかお前次第だ

Live or die, make your choice.

ほとんどの人間は生に感謝しないで

Most people are so ungrateful to be alive.

生に感謝しない人間は生きる資格はない。

Those who do not appreciate life do not deserve life.

一度地獄に足を踏み入れてしまったら、悪魔にしか君を救えない。

Once you are in Hell, only the devil can help you out.

さあゲームを始めよう。

Let the game begin.』 選択を常にその人々に委ねる。もちろん成功した人もいるが皆何かを犠牲に払い成功する。

何も捨てることのできない、何も犠牲を払えない人は我が身の命と引き換えに失敗する。

逆に、何かを失ってから初めて生に感謝する人もいると思う。

自殺未遂をし生存本能に救われた人もいる、薬物依存に陥っている自分を見て絶望を覚え更生の道に進む人、大切な人を失う。

Ones you see death close, then you know what about your life is.(死を目前にしてはじめて生の価値が分かる)

この世は二極性、二面性だ。生があれば死がある。形あるものはすべて無くなる若しくは壊れる。

今ある現状にばかり目が行き、一瞬の感情でヒトは狂ってしまう。持っているもの、傍にいるものには目も中てず感情や心理に支配される。

私もそのうちの一人だ。一瞬の感情で嫌悪感に苛まれたり、その人を計ってしまうことが癖になっていたりする。

自分にとって、他人にとってどれくらい影響力有るかは解らないが今のパートナーは何も言わず何もしなくても今の現状に留まることなく良い方向に突き動かしてくれるだろう。

勿論自分自身の捉え方も色々あるかと思われる。余り捻くれて居なかったのかもしれないが結論変わることが出来た。

私も選択をさせられたのだ。

このまま一生ヒトのことを知ることなく恨み妬み、そして信じることを覚えずに生きるのか

傲慢な自身を捨て他者を認め、自分の大切さを知るか 常に選択を要求されてきた。

時には、極端な思想や答えを求められる時が有ったが苦しみながら何かを犠牲に選択をし続けて来た。

だからこそ、今ある物だけでなく無くなってしまったときのことを目前に置き今の現状に感謝をするようになった。

これが果たして成長と呼べるのか解らないが、私にとって人生にとってとても大切な事なんだと思う。

これがすべて数カ月で変わった事だ。

関わる人が変われば変わるとよく言う。影響されている、ブレている、流されていると他人は言うかもしれないが私でなければこうなることは無いのでは?と思う。

パートナーには、前歴・前科がある。ただ現在進行形で悪いことをしていない。と言っても周りの知らない人間は否定するだろう。

私にも、そんな人辞めておきなよと忠告した人もいるけれど、私のことを想ってこの人をよろしくお願いします。と頭を下げてくれた人もいる。

本当の友達は勿論後者だと思うし、私は前者の言うことを聞くことが出来なかった。盲目かもしれない。

後悔はしていない、パートナーが望んだように後悔は全くしていない。

選択をしてきたものすべて後悔していない。家を出たこともしていなかったら私は母の大切さに気付けない未熟な餓鬼なままだったと思う。

何時も居ていたペットの存在もとても愛おしさがいつもより増した。

何時も有る事が当たり前で無いことが思い知らされた。すべてが大切で仕方ない。

こういうことを気付かせてくれた今のパートナーには本当に感謝が止まらない。

だけど、そのパートナーは本当に生き急いでいる様に見える。不安になる事がある。

普遍的なパートナーとの別れでなく特殊な別れを迎えたらどうしようかとも思ってしまうくらい生き急いでいる様に見えています。

でもパートナーはそんな人なのかなと。人と少し違う感覚で居心地の快い人だ。

私の性別・生体学上、嫉妬心や嫌悪感が沸くことは特別なことでは無い。

好意をしっかり持っていて、手の届かないところがどうしても存在してしまうからこそ生まれるもの。

人生で一番嫌いな感情ですが上手く向き合っていきたいものですね。

マイナス・ネガティブ思考、引きこもり体質。慢性的な鬱。ヒトを毛嫌い、見下し独りを好んでいた私は

少しポジティブ思考、アウトドア体質、感情を出すことを知り、人に感謝の気持ちを知った。

本質は変わらないと、よく大人は言う。確かかもしれないが今の一瞬試しで今の自分を体験してみる。ゲーム感覚で人生を謳歌すればいいと思った。

嗚呼、今年の夏は楽しみの一つもないな。夏祭りも花火大会もCOVID-19の所為で無い。

パートナーとの初めての夏なのに夏らしいことが何一つ出来ていない。初めての冬は冬らしいことが出来るかな。

バーベキューや海、川遊び、アウトドアなものでも行きたいと思えたのにな。

何回も、春夏秋冬を迎えれたらいいのになと思って居るけれど何度迎えることが出来るかな。

ポジティブで居ることが出来たら、パートナーは消えない気がする。


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