「”死”は救いだ」ってあながち間違ってない...?

だいぶご無沙汰の投稿です。
確認してたら約一年ぶりの投稿ですね。笑

その久しぶりの投稿で、物凄い題名ですが最近考えていることについて書いていこうと思います。

終わりがあるから頑張れる

”眠いけど計算問題、一問頑張ろう”
”疲れたけど、あそこまで行こう”

比較的誰しもが一度は経験したものだと思います。
いわゆるラストスパートですね。

物事には全てに始まりと終わりがある。
試合、テスト、ゲーム、曲、コンサート、計算、本等々
”開始”と”終了”とも言い換えられると思うんですが、ある一定の時間内、範囲内において活動することが絶えず連続して、時にはいくつもの事柄が並行していくことが人間の生きている状態の1つを表していると思っています。

物語がたとえ不完全、本来の終わるべき形ではなくとも終わりを迎えるように、人の人生にも同じことが起きる。
だが逆に終わりたい形で終わることも可能だということも言える。

この終わりを目指して人は日々試行錯誤して毎日を過ごしている。
まさに、終わりがあるから頑張れるという事を表しているんじゃないかと思う。

終わりを自分で決められるから頑張れない

怠け者みたいに囚われるかも知れません。
あながち間違ってはないとは思いますが、終わりを自分で決められるという事は「終わらせない」という事も可能です。
厳密に言うと「自分で終わらせない」ですね。

宿題をやらないことは分かっているけどやらない、アニメを最終話まで見たいけど見ない、ゲームでラスボスを倒してクリアしたいけどやらない等々

”逃げる”と大体の方が感じること等が当てはまると思います。
他人から見たら終わったかのように見えることでも、本人の中ではまだ進行中の事は多い。

仮説を立て実験をする、その結果を元にまた仮説を立て実験する…
終わりのない、自分が納得するまでやり続ける。

宇宙の謎とかね笑

”死”は自分で決めたいけど出来ないもの

上の言葉通りなんじゃないかなって多くの方が感じたことがあると思います。
無いか。笑

最近よく考えているんですが「死ぬ場所は自分で決めたい」と強く考えるようになりました。
自分の人生の中で一番大きな意味を持つ終わり、それが死ぬことだと思います。

いつか必ず人は死ぬ。
いつでも死ぬことが出来るから頑張れる。
いつでも死ぬことが出来るから頑張れない。

そんな簡単に死を選びたくないし、選んで欲しくは無いけど、本人の中で納得して選んだ終わりなら良いことだと思う。

滅びの美学とか、死は救いだとか、いつ死ぬのなんか分からないんだからやりたいことやろうみたいな自己啓発もあったり。。。
これらは”死”を、”終わり”を物凄くポジティブに認識しているからこそ出てくるものだと思う。
浅い知識で間違った認識をしているかもしれないが、キリスト教も仏教も死後の世界という概念?みたいなのがあると思う。
天国地獄、閻魔大王とか、極楽浄土みたいなもの。
死んだ後あなたは救われますよ、だから今を清く行きましょう的な解釈だと認識しています。
間違ってたら指摘してもらえると助かるんですが、何千年と時が立っているのにいまだ人類に信仰されて信じられ、語り継がれている訳だから説得力はあるんだと思う。

そこから自分的には、自分が最高だって思える時を維持して終わりを迎えましょうってことだと解釈すると凄く腑に落ちる。

だから終わりがあるから頑張れるが、終わりがあるから頑張れないというジレンマが発生する。

なんていう終わりのないことを最近は考えています。
この考えと、腹くくって物事に取り組んでいる人って似ているな~と自分の中で繋がっていて、この「腹くくる」って終わりを認識して頑張るってことだなって思うんです。

長くなってきたので、今回はここまでにしときます。
またちょくちょく更新していこう思います。
次回は「腹くくる」から派生して書いていきますので、また読んで頂けると嬉しいです!

それではまた!

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