自分自身が、人々に対して「認識したいと思ってること」を認識するようになっている

出会う兄弟の一人一人に対して、彼らの中に何を「知覚」するかで、彼らはキリストの証人にもなれば、自我の証人にもなる。

私自身が知覚したいと思うことを、「出会う人々」は、私に確信させるようにできている。自分が知覚する全ては、「真実であってほしい」と思っている思考体系を証明するからだ。

(イエスは暴徒たちの認識を共有しなかった。なぜなら、彼はスクリーン上で何が起ころうとも、平和の聖火を持ち続けていただに、暴徒の行いを「攻撃」とは認識しなかった。
これは極端な例だが、自分が何を見るかの責任に立ち戻れば、自分の選択の明確さに立ち戻ることができる)

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