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掌編小説【薔薇喪失】01.『深海に溺れる星』

 麗人は『薔薇庭園(ゴレスターン)』の入口から、真っ白な階段を上っていた。骨を精製してつくった白い土を、薔薇の蔓がモルタルとなって繋ぎ、強固にして存在を続ける要塞都市は、乾ききった死によって構成されている。麗人は庭園の支配者として階段を上っていた。薔薇を編み込んだ黒緑の長い髪を横に流し、豪奢で長いマントの端を薫る死の風に翻しながら、踵が高い編み上げのブーツで屍を越えるような厳かな歩みを続けていた。

 薔薇庭園の住人は、色のない薔薇と、肉体を持たない骨が殆んどだった。美が存在しないのである。色や肉体という生は、此処には何もない。住人たちは、生を知らない。麗人はこの薔薇庭園において、ただ一つにして最大でありながら、究極の美であった。

 薔薇庭園は、物語なのである。麗人が幼い頃に、預けられていた先の修道院でもらった聖書の余白に綴った脚本が、此処に存在する。麗人は都市に『薔薇庭園(ゴレスターン)』という名を与えた。名付けたのではなく、名を与えたのである。

 薔薇庭園において麗人は唯一無二にして不可侵の薔薇王として君臨していた。麗人はその美しさのあまりに、臨むことを強いられる。何処へ行っても、何をしていても。

 麗人は住人たちに声をかけられては微笑みを返した。住人たちは輝石でも与えられたかのように、与えられた祝福に恍惚とするのであった。

 麗人は王の居城に戻ると、侍従たちに迎えられた。侍従たちも、全員が色のない薔薇だった。透き通る花びらは生々しいのに、命の色を欠いている。澄んでいるのに美しくもなければ、煌びやかでもない。

 麗人は薔薇に彩られた玉座に座った。薔薇庭園は、渇きが蟠る土地だった。喉の奥は充分に潤っているのに、生の色味に欠けるために、空気の色が荒涼としている。

 麗人は何の脈絡も無しに、思った。


(何だか……死んでしまいたいな)


 麗人は長い睫毛を物憂げに伏せたのだった。羽のような睫毛が、傲慢な長さで佇んでいた。

 麗人は醜いものを探していた。深海色の明眸に映るもの全てが、醜かった。醜くなくても、美しくはないものも見えた。麗人は傍らの卓に置かれた鏡を手に取った。美貌が映っている。無償であるべき心と気持ちを、力づくで奪い取ることができる暴力を備えた美しさが、麗人を見ていた。美しさが過ぎて、鬱陶しいほどに思えた。麗人は玉座の背に体重を預けて、空を見上げた。夜が深まっていた。星が光っていた。もうすぐ薔薇庭園が炎に包まれる時間がやってくる。

 麗人は醜い死に様とは何かと、思案した。導いた先には『溺死』という結果があった。溺死した死体は醜いのである。水を吸い、腐敗した空気で膨張する死体は、その遺体が誰であったかを忘れさせる。

 麗人は長い指を頬に添えた。つと、白皙の肌を爪先が滑る。


(僕も、ふやけたら、醜くなれるのかな)


 だが『薔薇庭園』には水が存在しない。庭園の住人たちは『水』という概念も存在も知らず、麗人のように言葉として発音することができなかった。流れる水にまつわるものは、誰も知らない。薔薇庭園には生が存在しないからである。流れ続ける力があるものは、生を含んでいる。

 麗人は呟いた。


「溺れて、しまいたいね」


 侍従の薔薇が、怪訝そうに尋ねてくる。


「薔薇柩の君、偉大なる薔薇王。畏れながら申し上げますが……『溺れる』とは何のことでございましょう?」

「ああ……そうか、そうだね……」


 麗人は曖昧な息をついた。気だるい睫毛の影を深海色の瞳に落としながら、忘れていたことを思い出す表情になる。『薔薇庭園』には水という概念がないから、住人は海のことも知らないのだ。溺れるという現象を起こし得る環境を、思い描くことができなかったのである。

 麗人は海の話をした。


「溺れるというのはね、君たちが知らない、大量の命の源に包まれて死ぬことなんだ。その命の源を、海って言うの。とても青くて、とても昏くて、素敵で、恐ろしい場所のことさ。そう、ちょうど、僕の瞳と同じ色をしてる」


 麗人はそう呟くと、睫毛の長い下瞼に指先を重ねて、青い瞳の中心を指差した。極限まで研きあげられたサファイア、悲しみよりも深い青の中で、虹彩が青薔薇の花びらのようにして咲いている……

 溺死を知らない薔薇の侍従たちは、興味深げに麗人の周りに集まって、麗人の美しい瞳を覗き込んでは眩暈を覚えた。

 麗人はいいことを思いついたと言わんばかりの笑みを薄い唇の端に湛えると、卓の上に飾ってあった花瓶から、赤い薔薇の花を一本抜き取った。そして何をするかと思うと、花びらにそっと口付ける。薔薇の花は激情に乗り移られたかのように身悶えする。薔薇は薔薇でなければいけなかったその形を、構成要素の繋ぎ目を失っていった。麗人は薔薇としての存在が崩れた薔薇であったものの構成要素を練り直した。薔薇であったものは淡い紅色の炎に似た色に変わる。溶けた硝子のようであった。薔薇は小さな、硝子瓶に姿を変えた。麗人はその瓶の中を覗き込む。

 深海色の瞳によぎった嘆きの光が、一雫の涙になった。麗人は睫毛を伝って流れた涙を瓶の中に落とすと、瓶の口に息を吹きかけた。蝋燭に灯る炎を消すような吐息だった。瓶の口は焼けて、涙を閉じ込める。

 麗人は玉座に腰を下ろしたまま、涙を囚人にした牢獄を中に放った。小瓶は高く空に浮かびながら、腕に抱えられるほどの硝子の箱になって落ちてくる。侍従たちは硝子の箱が割れないように、落下点で待ち構えて受け止めた。

 硝子に閉じ込められていた涙は、箱いっぱいの深海になっていた。硝子に鎖されたまま、波のない海、流れない海として。薔薇の侍従たちは驚嘆を隠せない。


「薔薇柩の君、この美しい青が、海というものですか?」

「そうだよ、素敵だろう?」


 麗人は硝子の水槽に閉じ込められた深海の闇を見つめていた。それから何を寂しく思ったのか、夜空を仰いで瞬きを放った。小さな星が、淡く輝きながら、麗人の手のひらに三つほど墜ちてくる。麗人が星を持った手で四角い深海に触れると、星は硝子を通り抜けて、冷たい暗がりの中に光を添えた。閉じ込められたものは本当に深海であったのか、或いは夜空なのではなかろうかと、青の境界を曖昧にしていた。

 『薔薇庭園』に水が存在しないことは変わらないのである。生のために必要な『流れる』という営みは、この硝子の深海には存在しない。命のために必要だった潤いは、流れを止めるとたちまち腐敗する。美の根源である潤いは、生を終えると腐敗という醜悪に化けてしまう。

 死んだ水の存在しかなくて、溺れるには小さい海に、麗人が醜くなるのは無理があった。溺れる星を見つめながら、麗人は堕落への衝動にさえ付き纏う美に、溜め息をついたのであった。涙の軌跡をそっとなぞり、濡れた睫毛を瞬くと、星がきらりと手のひらに落ちて──そのまま光になって弾けた。

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