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(2023/10/07/日)垂飾付耳飾(国指定重要文化財)


本日は、以前撮影した写真を投稿します…

 本日は朝から雨が降っていた為、一日中、読書と、いつも博物館や美術館で使っている記入シートをillustratorで改良する作業を行う予定です。

 現在0950なので、この後晴れたら、外出したいと思います…。
(天気予報だと今日はこのままずっと雨っぽいですが)

 なので本日は、以前(2023/09/24/日)撮影した写真を紹介したいと思います…。

垂飾付耳飾

垂飾付耳飾 
下北方五号地下式横穴墓出土 
古墳時代中期 
国指定重要文化財

『宮崎市生目の杜遊古館』 下北方五号地下式横穴墓出土、
銀装太刀と同じ展示ケースに入れられた、黄金製の耳飾りです…。
写真の写り具合が悪いですが…
二つの耳飾りは、若干左右でデザインが違うようです…。
展示スペースの展示台(黒いスポンジ)が耳の形にカットされていて、
装着した時の様子がイメージし易い様な展示がされています…。

垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)
古墳時代中期

 金製で、心葉形(しんようけい)の垂飾りが取り付けられた耳飾りです。
長い鎖が付く長鎖式と呼ばれるもので、国内の垂飾付耳飾でも最古段階の資料です。
製作地は、朝鮮半島製、日本列島製の二つの意見が有ります。

国指定重要文化財

『宮崎市生目の杜遊古館』

下北方五号地下式横穴墓出土『垂飾付耳飾』に添えられた解説パネル

 こちらは『宮崎市生目の杜遊古館』の『銀装太刀』と同じ展示ケース内に展示された『垂飾付耳飾』です…。

 古墳から出土する遺物(作品)の中でも、私が最も好きな作品の1つです。

 鎖部分は、古墳時代が終わった後、太刀を帯に下げる時に使った鎖、『兵庫鎖』の編み方で編まれた鎖が使われていて、シンプルですが、作り手のセンスの良さを感じる作品です…。

 又、その鎖の間には、同じく黄金の空玉(うつろだま)が取り付けられていて、鎖の先端には心葉形(ハート型と言う意味)のデザインのトップが取り付けられていて、華やかな感じがします…。

 この古墳に葬られた人の生きていた時代は、現代の様に、男性女性、身分など余り関係無く、アクセサリーを付ける習慣が有った様です…。


参考資料

 埴輪等の研究から、農民でも耳環(太といイヤリング)をしていて、装着したまま埋葬されたのではないかと言われている……。

 と、以前どこかの資料で読んだ気がしたので、本棚から、かなり昔に購入した一冊の本を引っ張り出して来ました…。

かなり昔に購入した本です。
読みすぎて、ボロボロになっています…。

大阪府立近つ飛鳥博物館図録30
平成15年夏期特別展
黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー
発行日 2003年4月15日
編集・発行 大阪府立近つ飛鳥博物館
デザイン  d-考房
印刷    株式会社 中島博文堂印刷所

 こちらの資料はかなり昔の資料ですが、読み易く、面白い資料なのでおススメです。

 そして、この本の中に、一般人も耳環を付けていた事が記載されています…。

 金銅製の耳環については、各地の多くの古墳に副葬されている。そして、農夫とされる人物埴輪にも、耳環の表現された物がある。すなわち、この頃には、有力な農民にも耳環が普及していたのである。そして、彼らはその死後、耳環を付けて葬られた。

P67 岩瀬 透 

黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ーより。

 そして、この本には、今回紹介する垂飾付耳飾についても、かなり詳しく書かれていました。



下北方五号地下式横穴墓出土 垂飾付耳飾『有鎖式長型(A-2型式)』のデザインについて…

下北方五号地下式横穴墓出土 垂飾付耳飾 

 今回紹介した『下北方五号地下式横穴墓出土 垂飾付耳飾』は、上記の参考資料によると、『有鎖式長型(A-2型式)』と呼ばれる物の様です…。

 下記に、その資料の一部を備忘録として残して置きたいと思います…。


有鎖式長型(A型式)の分類について。

有鎖式長型(A型式)
 連結金具が兵庫鎖により、兵庫鎖と中間飾が交互に連結した比較的長いもの。

 
 垂下飾りには宝玉形が多いが三翼形等が混在する。
 
 これはさらに形態によってA-1~A-3の三型式に分類が可能である。
 
 A-1型式は複数の兵庫鎖を垂下させるもの。
 
 A-2型式は単純に中間飾・兵庫鎖・垂下飾が一直線に並ぶもの。
 
 A-3型式は垂下飾が一見してA-1・2より大きい物である。

黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー P87(一部抜粋)



制作技術と系譜に見る特徴

 特にA型式は伽耶地域との密接な関係をもつとされながら、同一形態がほとんど存在しない。

 しかもA型式の垂下飾の大部分が宝珠形を呈し、その多くは中央に空球もしくはガラス玉をはめ込んだものである。

 この形態は朝鮮半島には存在せず、どちらかといえば日本特有の形態と言えなくもない。

黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー P90~P91(一部抜粋)


A-2型式についての解説

 時期についても五世紀後半から六世紀前半に対して、A-2型式はそれより古く、五世紀中ごろに出現し、六世紀初頭には見られなくなる。
 
 材質は、終末期の姉ケ崎二子柄古墳のみ銀製である以外は全て金製であることから、A-2型式は金製が基本形態であったと考えたい。

 原材料の入手先や技術力を勘案する。

 このように過程すると『日本書紀』等に出てくる「任那官家(みまなかんけ)」の存在がクローズアップされてくる。

 
銀製の姉ケ崎二子塚古墳出土例は、垂下飾が後述するA-3型式のように大型化し、技術的にも類似することから日本製と思われる。

黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー P91(一部抜粋)

 A-2型式はA-1型式を副葬する古墳より小さく、しかも畿内周辺部に分布することから、ヤマト政権に組み込まれた在地豪族の武人クラスが所持した型式と思われる。

 ヤマト政権の直轄ではなく、小規模であってもそれぞれ独立していたことから材質は金製か。

 ただし、垂飾は一連である。

黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー P94(一部抜粋)

 なるほど。 この『下北方五号地下式横穴墓出土』で出土した『垂飾付耳飾』は『A-2型式』と呼ばれるもので、それは朝鮮半島には存在しない『どちらかといえば日本特有の形態』だそうです…。
(似た様なデザインは存在する様ですが、大きさが小さく、鎖も短い様です)



垂飾付耳飾をデフォルメした量産品の流行と、アクセサリーを付ける習慣の終わり。

 又、この資料の後半に解説されていますが、これら『垂飾付耳飾』等の金製品が全国に普及した後、民間でも耳環と言うアクセサリーになって爆発的に流行し、当時は農民の間にまでファッションとして流通していたそうです…。
(本書では垂飾付耳飾が、後に民間で流行する耳環の原型であると考えられていると書かれていましたが、引用の範囲を超える為、情報が書かれたページのみ記載します)

参考資料
四 垂飾付耳飾の終焉
黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー P94

 しかし、その後、日本では冠位十二階や、統一的な身分制度が出来た事で、金や銀、宝石類等の威信財(現在で言う所のブランド品?)を身に付けているか否かで、その人の身分を見る様な事が無くなってしまった為、アクセサリーを付けると言う文化は廃れてしまったと考えられている様です。
(引用の範囲を超える為、情報が書かれたページのみ記載します)

参考資料
三 装いの意義
黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー P67

 そして、耳飾り、ネックレス、指輪、腕輪、王冠等の頭飾りをつける風習は、明治になるまでこの国から消えてしまう事になった様です…。



感想

 う~ん、『下北方五号地下式横穴墓出土』で出土した『垂飾付耳飾』を調べる為に、この資料『黄泉のアクセサリー古墳時代の装身具ー』を久しぶりに読みましたが、面白い事が多く書かれていて、個人的には凄く面白かったです。

 特に耳環は、垂飾付耳飾を作る際に手間のかかる鎖部分をデザインから丸ごと排除し、輪っかの部分だけをデフォルメ(強調・変形)して、当時(約1500年程前)の民間人(農民)が入手できる程、量産化する事に成功していたとは…。

 何というか…この国は、何でも解析し、取り込んで作り替える事ができる人々が元々多く住む地域だった……と言う事が解りました。

 逆に言うと、元々、色々と作れる器用な人々が多い様なので、発想力(アイデア)が、この地域で物作りを行うのに最も必要なスキルのかもしれません…。

 我ながら、なかなか面白い国に生まれたな~と思います。

 …と言うか、私も過去の物(遺物)をベースに、新たに『何か』作りたいな~と、この資料を見て益々思う様になりました。


2023/10/07/~12023/10/08/0950~1208


最後まで読んでいただきありがとうございます。 作品製作をしているので、サポートいただけたら創作活動に関する費用にしたいと思います。