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私で生きる

人はいろいろな役割を持っている。

生まれたら『〇〇さんのお子さん』になり、その後は『〇〇学校の生徒』『〇〇をしている人』『〇〇さんの配偶者』『〇〇ちゃんの父母』『〇〇の社長』などなどキリがない。

私は現在会社に所属しているが、役職の権限とその人の能力にギャップがあるケースも多く、肩書きで評価をしたり、肩書きをチラつかせる人たちを軽蔑していた。そして、自分はそんなことはしていないと思っていた。

けれど、2〜3年前に信号待ちをしていて、ふと思ったのだ。
"私の肩書きがなければ、一体なにが残るだろう"と。
仕事はしているし、幸い家族もいる。好きなものもあるけれど、私自身はなんなんだ?
結局、私は何ができるんだろう?
肩書きをひけらかしている人たちと同じじゃないか?

そう考えたときに、足元がぐらついた。

私自身は、一体何者だ。

就職してからかんちがいをして、目一杯働き続けてしまった。仕事に関してはきっちりと責任を果たし、プライベートに関してはよれよれだった。
仕事優先で、家族は後回しだった。
書いていると、うんざりする。
昭和平成のサラリーマンだな。
体調も崩してメンタルもボロボロになって始めて気づきだしたのだ。私はこんな人間だったっけ。

本体と肩書き。
まず、本体である自分があって、個人の属性としての肩書きがあると考えたい。
"何を大げさに"と思われるかもしれないが頭と心が固くなっていると、肩書きに縛られ、それを失くすことが不安になるのだ。
けれど自分自身が主であり、メインなら、安定するのではないか?
会社に勤めていようと、ひとりで事業を立ち上げようと、時々働いていても、何もしていなくても、私は私なのだ。

人と関わるときには肩書きではなくその人自身を見られるようになりたいと思う。
肩書きはその時点でのただの属性だ。
その奥にあるその人の資質や本質を見極めたい。
そして、私も自分自身を取り戻し、私の資質や本質を見極めないといけない。

やっと、やっとスタートラインに立てたのかもしれない。長くてしんどいウォーミングアップだった。
ここからはのびのびと、大切な人たちとともに私の人生を過ごしていくのだ。
これでいいのだ。