一歩踏み出すこと
『街角ピアノ』という番組がある。
追いかけてまでは見ないが、やっていれば見る。
うまく弾いている人もいるし、うまいとは言えないが聴き入ってしまう人もいる。
そして、演奏と同時にその人についての紹介が少しあり演奏が終われば少し何かを話す。
それだけなんだけれど、私が交わることのない人の人生を垣間見て、グッとくることが多い。
私は現在noteを利用して思ったことや考えたことを言葉で発表している。
もちろん作家としてデビューしたわけでもないし、何か雑誌に投稿するでもない。ただ、発表できる場があって、私がやってみようと一歩踏み出したから発表できている。
街角ピアノも、音楽をオンライン上ではなく現場で、一個人が発表できる場だ。そして、あとは本人がやるかやらないかだ。その一歩が大きい。
その一歩は、人によって異なるだろう。
ためらうことなく歩を進める人。しばらく考えてから歩を進める人。思い悩んだ結果、その場を立ち去る人。そもそも、何かをやってみようと思えない人もいるだろう。
そして聴衆も同じかもしれない。気になって立ち止まる人。気になりつつも立ち止まれない人。気にならない人。気に障る人もいるだろう。
立ち止まった人の中にもいろいろいる。ただ聴く人。リズムにのったり、拍手をする人。声をかける人。どの人も一歩踏み出した結果だ。
一歩踏み出すこと。
私はインターネットに関わることを極端に怖がっていた。何か取り返しのつかないことになるのではないか、と思っていた。だから、noteを知ってやってみたいと思ったときも散々迷った。
けど、やってみた。
まだ数ヶ月だけれど続けている。
全く読まれた形跡がない時もあった。
それでも、自分の中にただ形もなく存在していたものを、言葉にして外に出せたことがうれしかった。
そして、そのうち少しずつ読んでくれる人が現れて、リアクションをしてくれる時もある。
なんだか、すごいなと思う。
特に何かを発表しなくても、日常の中でも一歩踏み出すかどうかで迷う時がある。
道に落ちたゴミを見つけたとき。困っている人を見かけたとき。
普通のルートをただ歩くだけで日常は進んでいくけれど、その一歩を踏み出さないことを後悔したり嘆くことが予測できるのだ。
それと同時に一歩踏み出したことにより生じるかもしれない煩わしさも想像してしまう。
きっと動物は一歩踏み出すかどうかは本能で決めるのだろう。人は厄介だな。未来のことや他者の存在まであれこれ思い巡らせる。
さて、私はこれからどうしたいのか。
これまで散々迷ってやめてきたことが多かった。面倒くさいと思ってやらないことも多かった。
そうだな。
一歩踏み出す勇気がないなら、勇気を持ちたい。
面倒くさいだけなら、やれるんじゃないか。
人の目が気になるなら、そんなものは考えるだけムダだ。自分の好奇心と良心に従って進みたい。
そして、誰かの一歩に対してはフラットな気持ちで接していきたい。その結果、心を揺さぶられたならその時は一歩踏み出してリアクションをしていきたい。
そのうち、好奇心と良心にのみ従って軽やかに生きていけたらいいなぁ。