「イジーさんに連れられて」第十二話
暗闇の中に、薄い光が灯った。
ベッドに横になっていたイジーは、ランプを持って侵入する二人の顔を見比べると、怪訝に眉根を寄せる。
「アンドリューに……お前はドクサか? どうやって入ってきた?」
イジーは声を低く、それを訊ねた。
そのどこか腑抜けた様子に、アンドリューは首を傾げながらも続ける。
「寝起きかい? だとしたらすまなかった。けれど鍵も閉めないで不用心だね」
「そうだったか? ……まぁ何でもいい。今日は眠れそうもない」
「おや、少し気分が悪いのかな。どちらにせよ、僕はこれから行く場所があってね。ドクサのことは君に任せるよ」
「……」
ぼんやりした目で、イジーはアンドリューを見送った。
そして残ったドクサは、ランプ片手にこちらまで来ると、焦るように早口で告げる。
「イジー、大変なんだよ! レクシーが攫われたんだ!」
「……レクシーが? どこの誰に?」
イジーは落ち着き払って端的に問うた。
「あの男だよ、ジェスタ・ジェスタ――って、言っても分かんねぇか」
ドクサは焦りながらも、イジーに伝わるように言葉を置き変えた。
「とにかくエリッサはアイツの仲間で、遥かなる園は安全な場所じゃなかったんだよ! それでレクシーは連れて行かれて、イジーしか頼れるの知らなくて、だから……」
語尾を落としながら、ドクサは一心にイジーを見つめた。
「なあ頼むよ、オレに力を貸してくれ!」
「……ジェスタのことは俺も知ってる」
依然としてイジーはベッドに寝たままドクサに言った。
ドクサはそれなら話は早いと、イジーにすがりついた。
そこに含まれる感情は、きっと一縷の希望を見つけたようなものだろう。
大事な妹を攫われたのだ。兄であれば、わき目も振らずにこれを取り戻したいと願うのは当然のこと。
だからこそ、無我夢中のドクサは、眼前にいる青年の異変に未だ気づかない。
「それなら、いっしょにレクシーのこと助けてくれ!」
「……」
イジーは天井を見上げて、小さく息を吐いた。
「俺は力になれない。他を当たれ」
「えっ……?」
そこで初めて、ドクサはイジーの不自然さを悟る。
「なに言ってるんだ……こんなときに冗談なんて、笑えねぇぞ?」
「俺は嘘が嫌いだ。お前にしてやれることはない」
イジーは他人事らしくそう言った。
これにはドクサも徐々に感情を募らせていく。
「ふ、ふざけないでくれよ。オレ、イジーなら絶対に助けてくれるって……そう思って、必死にアイツらから逃げてきたのに」
「手間かけさせたな。けど俺を頼ること自体が間違いだったんだよ」
「なんで……だよ。なあ、なんでそんなこと言うんだよ!」
昂るものを抑えきれずに、ドクサはイジーを怒鳴る。
けれどイジーの態度は冷え切ったまま、億劫そうに上体を起こした。
「前もって言ったはずだ。孤児院から先のことは、お前ら自身で何とかする問題だ。俺はそれ以上関わるつもりはないし、関われるだけの力も持ってない」
「どうしてだよ……頼むから、そんなこと言わないでくれよ……」
ドクサの激情は、怒りよりも悲しみが勝っていた。
床に膝を落として、嗚咽とともに空虚を漏らしていく。受け入れ難い現実から目を背けたいと思うように、両の瞳は淡く潤んでいった。
「……」
これを視界に映すイジーは、静かに目を閉じる。
自分を頼りにここまで来てくれた子供が、裏切られて苦しんでいるのだ。
それを見捨てることは絶対にしたくない。
けれど、イジーの中に渦巻く気持ちもまた、それと同様に混沌としていた。
できることなら、このまま全てを忘れて眠りに落ちてしまいたい。そうすれば、辛い現実など見なくても済むのだから、と。
しかしそれは、あまりにも身勝手な行いだった。
人攫いとしてイジーは地獄に落ちる覚悟はある。どれだけ独善を重ねようが、子供を送り届けた先に幸せがなければ、それは蜃気楼のような希望を与えたのと同じだ。
虚飾を取り払った真実を知り、待ち受けているものが深い絶望だったとき。
それは、ただ死を待つよりも残酷な拷問にほかならないのだから。
「……ドクサ」
イジーは絶望の淵の手前にいる、その少年に呼びかける。
「……なん、だよ……」
ぐっと涙を呑むように、声を絞りながらドクサは面を上げる。
そこにイジーは、自らが抱いている心境とともに、思いの内を曝け出した。
「お前の不安な気持ちは痛いほど分かってるつもりだ。今すぐにレクシーを助けに行きたいだろう。だけど、一つだけ聞いてくれ。ジェスタ・ジェスタに関わるってことは、俺たちがさらに不幸になるかもしれないってことをな」
イジーが零したのは、たしかな弱音だった。
何が彼をそこまで追い詰めたのか、ドクサにはまったく分からない。
はっきりしているのは、好き好んでイジーが沈んでいるわけではないことだ。
ドクサはベッド脇に腰を落ち着かせる。
いつもはドクサたちが彼に話を聞いてもらっていたが、今回の聞きは逆だ。
イジーが抱え込んだ重しを、ドクサが少しでも軽くしてあげる番だった。
「言ってみろよ。話せば楽になるって、オマエが教えてくれたことだろ」
「ああ……ありがとう」
イジーは深く心に封じていた、その過去に触れていく。
――それはきっと、悪夢だった。
豪と燃え盛る火の海。
彼の足元には、ソレが転がっていた。
普段から気の良い、ちょっと強面だが両腕に子供をぶら下げられるほど逞しかった男の首。ソレが、カッと見開かれてこちらを見ている。
あまりにも現実感のなさに、少年は夢でも見ているように思えた。
その日、旅団は鬱蒼と生い茂った森の中で野宿をしていた。数日後に控えた大劇場での特別公演のために、彼らは大帝国スピラの首都オクトスを目指し、長旅の休息を取っていたのである。
皇帝陛下もご覧になるとのことで、普段以上に大人たちはピリピリしていた。
彼が何となく話しかけても、忙しいからあっちに行ってなさいと言われて、仕方なく少女と遊ぶ。
この頃になれば、奴隷村の少女はすっかり明るさを取り戻し、座長にもらった青いハイヒールを常に履いて歩くほど陽気になっていた。
だから、彼は少女と遊び疲れて、この日は早い内に眠ってしまったのである。
けれど夜半、けたたましい警鐘の音に彼は飛び起きた。
辺りを見ると、そこかしこから火の手が上がり、仮設テントの屋根には無数の火矢が刺さっていたのである。
それは紛れもなく敵襲だった。
野宿していた旅団を、真夜中に帝国兵が襲ってきたのだ。
なぜ帝国兵が、などという疑念を挟む余地は介在しない。
一方的な蹂躙とともに、辺りに鳴り響く剣戟。
手に手に剣を持った大人たちが、帝国兵に必死の抵抗を行っていた。
その合間を、彼は合流した少女とともに命からがら逃げ惑う。彼女は裸足で、走るのに邪魔な青いハイヒールは、死んでも離さないとばかりに抱え込んでいた。
炎の熱気と、とめどない恐怖を押しのけ、二人はひたすらに走り続ける。
しかし、これを先回りするように辺りを取り囲んでいた軍隊。
まだ子供だった二人が、それらを相手に逃げ切れるはずはなかった。
すぐそこまで迫る、鎧尽くめの悪魔たち。
二人は身を寄せ合い、子供心に命運尽きるのを覚悟していた。
けれど、そのとき。
二人を逃がすために、割って入ってきた数人の大人たち。その内の、この旅団を率いていた座長が前線を切り開いて、真っ直ぐ走れと叫んだ。
彼はそれに従い、少女とともにわき目も振らず走り続ける。
後ろから大人たちの断末魔が聞こえ、座長が鬼気迫るかけ声で帝国兵を薙ぎ払い、そして沈黙していくのを肌で感じた。
それから帝国兵は、二人を追って来る。
必死に逃げる二人を、意地でも逃がさないように、狂気のままに怒鳴り散らすのだ。
意識だけで耳を塞いで逃走する彼らだったが、運命は残酷だった。
暗がりの中、少女が地表から浮き出た大木の根っこに躓いて、その拍子に青いハイヒールの片方を落としてしまう。
彼はとっさにそれを拾いに向かったのだが、差し迫る追っ手が間近に見えて、少女にそのまま逃げるよう指示した。必ずあとで追いつくからと、涙で顔中がくしゃくしゃになった彼女を一人走らせていく。
その選択が正しかったのかは、今となっては推し量る術もない。
なぜなら、そこから先の記憶はうろ覚え。
ただ生き延びることだけを考え、気づいたときには付近の町の前で倒れていた。
その町の心優しい司祭に救われ、成長してから記憶の手がかりとなる、青いハイヒールとトリックナイフを返してもらうまで、何も思い出せなかった。
否、思い出すことに怯えて、知らずその記憶を封印していたのだ。
旅団のことも、帝国兵のことも、あの少女のことすらも。
孤児として救ってもらった恩を仇で返すように、全てを忌まわしき過去として、遠い彼方に忘却しながら――
だから、そこから先は悪夢の続き。
今を生きる彼は、見捨ててしまった全てに対し、償いの道を歩んでいた。
「――サーカスって、ほんとにあったんだ!」
思いがけない驚きを得たように、ドクサは興奮していた。
「知ってるのか?」
「そりゃ父さんから、いっぱい聞いたからな。普段は芸人をしながら、いざとなったら剣を抜いて悪党と戦うんだ。みんなはただの作り話とか言ってバカにしたけど、父さんは一緒に戦ったこともあるって教えてくれたんだぞ。そのときの活躍って言ったら、もうすっげぇカッコ良かったってさ!」
瞳をキラキラ輝かせながら、ドクサはハッとしたようにかぶりを振った。
「ま、まあ、聖導師騎士団ほどじゃないぜ」
「人のためになることに、上下の優劣もないけどな。何にせよ、サーカスは人知れず帝国に消された。それを裏で手引きしていたのが、あのジェスタ・ジェスタだったと――俺もついさっき知った」
イジーは当時を思い返し、今でも胸が張り裂けるほどに心が痛んだ。
「何の前触れもなかった。それほど狡猾に、あの男は裏で事を進めていたらしい」
「アイツもサーカスにいたってのか? あんな野郎、どう考えても信じられるような奴じゃないだろ。誰も怪しまなかったのかよ」
「当時のサーカスは座長の意向もあって、どんどん人を増やしていた。俺もジェスタなんて男がいたことすら知らなかったぐらいだ。今思えばあの急激な人員増加は、皇帝暗殺の仲間を増やしてたんだろうな」
「あ、暗殺だって?」
「子供に聞かせる話でもないが、サーカスの義勇兵としての一面は、元々は革命を起こすために生じたものだ。座長をはじめ、みんな帝国の引き起こした戦火の犠牲者だった」
イジーの過ごした旅団は、旅芸人を装った革命軍だった。
各地を旅していたのも、小競り合いを収めながら着々と力を蓄えるため。
帝国に不満を持つ者を集めつつ、芸人として名を轟かせて皇帝に近づく機会を窺っていたのだ。
しかし急速に増長した組織には、必ず膿が生じてしまう。
元来人当たりの良かった座長は、帝国に恨みがある者の加入を拒まなかった。仲間になった暁には、誰もが志を一つにするだろうと信じきっていたのだ。
それゆえに、帝国との内通者を見過ごしてしまった。
夜中に強襲をかけられて、成す術もなくサーカスは滅ぼされた。そして同じことが繰り返されないように、帝国は大道芸を含む大規模な旅団の禁止令を制定する。
「今だから言えることだが、あの頃の座長は焦ってる感じだった。俺が話しかけても、どこかそわそわした様子で追い返されて……俺の知らないところで、よっぽど帝国を恨んでいたんだろうな」
命の恩人の隠された側面とともに、イジーはやり場のない気持ちを抱く。
「もしサーカスが革命に成功していれば、大帝国スピラとアルク共和国の終戦も早まってたはずだ。そうすれば、聖導師騎士団も汚名を着せられずに済んだかもな」
「えっ……おい、それって」
重大な分岐点を見つけたように、ドクサはイジーに問う。
「ジェスタがいなけりゃ、父さんも母さんも生きてたのか?」
「さあな、それは分からない。どの道、アルク共和国の王が、聖導師騎士団を恐れていたなら結果は変わらないだろう」
「でも、生きてたかもしんないんだろ! なあ、イジーッ!」
怒鳴りながら、ドクサはイジーの胸元にすがりつく。
「……かもな」
そこに、イジーはすでに潰えた可能性を提示した。
ドクサはすっと全身から力を抜き、半ば放心状態でイジーの横に座り直す。もう意味を成さない仮定のはずだが、すっかり打ちのめされたように俯いていた。
「……ジェスタのせいで、父さんと母さんは……」
「それが真実とは限らないが、どの道ジェスタ・ジェスタは死神みたいな男だ。関わった人間に死をもたらす、狂気の道化師」
イジーはそう前置きをして、今度はこちらからドクサに訊いた。
「その上で、お前はレクシーを救いに行くのか? 正直、俺は奴が――いや、その後ろに控えてる帝国が怖くて仕方ない」
最初ドクサに手を貸すことを拒んだイジーの本心。
それは幼少の頃に植え付けられたトラウマ。兜と鎧を纏う不気味な姿から、大好きだったサーカスの仲間たちを容赦なく斬り殺した、螺旋の蛇の紋章を御旗に掲げる悪魔たちが恐ろしい。彼らと対峙したとき、イジーは己が平静を保てる自身がなかった。
「ドクサ。今ならまだ、お前一人だけなら逃げられる」
イジーは一つの道として、ドクサに残酷な選択を提示した。
「どこか別の場所で、平穏に暮らせる可能性は十分にあるはずだ。レクシーのことは残念だが、それがお前の命を守るためにも繋がる」
「……イジー」
そのとき、ドクサは悠然とイジーを見上げた。
そこにあったのは、ジェスタや帝国に対する恐怖でも、非道な選択を強いるイジーへの怒りでもない。
ドクサの眼差しには、達観を決めた男の決意が灯っていた。
「オレの家族を、何度もあいつに奪わせて堪るか」
「ドクサ……」
「レクシーのいない生活なんて、きっとオレには耐えられねぇ。だってイジーが、そんな悲しそうな顔してんだ。大切な家族がいなくなって、たった一人で生きてくなんて、オレには想像もできねぇよ。オレはそんなの絶対に嫌なんだよ」
あまりにも世間知らずな幼稚の発想。
だが、それを心から言い切ることができるのもまた、子供の特権だ。
「なあイジー、オマエはオレにそんな風に生きて欲しくないんだろ? 幸せになって欲しいって、そう言ってくれたじゃねぇかよ」
「ああ……たしかに、そうだ」
人攫いの身でありながら、望むものは出過ぎた幸福。
「そこには、ぜってぇレクシーも必要だ。じゃなきゃ、そんなの幸せなんて言わねぇ。一人で、ずっと悲しい顔してるなんて、クソったれに決まってんだ!」
ドクサはすっと立ち上がり、イジーを振り返りながら宣言する。
「だからさ。イジーが怖いんなら、もうお願いなんてしない。オレだってイジーが幸せになれないなんて、そんなの嫌だ。レクシーのことは一人で何とかするから、イジ―はそこでオレたちが幸せになれるよう、お願いしていてくれよ。……なっ?」
にかっ、とはにかんだ笑みはドクサの純粋さだった。
たった一人でも困難に立ち向かう。それは自ら幸せを勝ち取るために、乗り請わなければならない障害への挑戦。たとえ失敗に終わることを理解しながらも、そこから背を向けた瞬間に、幸せが永遠に掴めないことを知っているのだ。
もう大人を頼らず、一人前を目指した少年はこの場を去ろうとする。
ランプ片手に部屋を出て、孤独の戦いを始めんとするその背中に――
「待てよ。たしかに俺は何の力にもなれないが……」
首の青いバンダナを、頭部に巻きつけながら青年は告げる。
「お前を連れて行ってやることはできる。それが俺の役目だからな」
「……イ、ジー」
今にも感情が溢れそうに、震える声を必死に振り絞って少年は応える。
「ああ!」
連れて行く者と、連れて行かれる者。
相反する両者の関係は、今ここに堅く結ばれた。
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