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「イジーさんに連れられて」第十一話

 遥かなる園に来て二日目の夜。
 真っ暗な室内には、カーテンの隙間から月明かりが漏れている。
 三つ並んだベッドの窓際。ドクサはここ数日で慣れてきた天井の見える夜に、妙に寝つけないままうっすらと瞼を開いていた。

 隣では同室の子が安らかな寝息を立てている。
 彼らも元は、様々な理由で両親のいない子供たちだ。
 辛い過去を経験しているはずなのに、この遥かなる園にいる間はみんな笑顔でいる。

 それだけここは、幸せという形に近い場所なのだ。
 醜い大人に虐げられることもなく、お腹を空かせることもない。文字や知識などの勉強もさせてくれて、夢のような場所であることはドクサも疑う余地はなかった。

 だが、この胸の落ち着かなさに、ドクサは不快なものを感じていた。
 あの糞ったれな農村には微塵も未練はないが、やはり住む環境が一変すると、どこか不安を覚えてしまう。
 この生活は現実なのか、いつまで続くのか、呆気なく崩壊してしまうのではないか。

 それともここは、牛小屋の中で見ている夢なのか?

 イジーという青年はドクサの心が作り出した幻。
 今もクズ野郎の下で残飯の施しを得ている自分たちこそ真実で、ここは現実逃避を果たしたい己の弱さが生み出した嘘っぱちの世界――

 ドクサはそんな想像をして、軽い吐き気を催してきた。
 暗がりに視界が慣れて、天井の染みが数えられそうだと何とはなしに思いながら、毛布を頭からかぶろうとしたとき。

『――ッ!』

 不意にドクサは物音を聞いた。
 一瞬、寝ている誰かがベッドを軋ませたのかと思ったが、音は廊下から聞こえてくる。

 それも断続的に、ピタ、ピタ、と気を遣うように何かが静止する音。
 他の子供がトイレに起きたにしては、足音の一つも響かないのは不自然な気がした。

「……なんだろ?」

 気になったドクサは、そっとベッドを抜け出す。

 周りを起こさないように細心の注意を払い、静かに扉を開いた。
 夜中に催して寝所を抜ける子供のため、廊下にはランプの灯りが点在している。ドクサが辺りを見渡すと、ちょうど一階へ続く階段で何者かの人影を見た。

 真っ先に思い浮かぶのは不審者である。昼間、表に警備を呼んでいたこともあり、悪人が押し入って来たのではないかとドクサは考えた。

 向こうはこちらに気付いておらず、騒ぎを起こす様子もない。
 このまま見過ごせば、少なくとも危険が及ぶことはないはずだ。
 しかしドクサの正義感は、それを決して許さなかった。
 聖導師騎士団だった父の名に恥じぬためにも、ドクサは悪を放ってはおけないのだ。

 とはいえ、以前イジーに窘められたことは教訓になっている。寝室で眠るレクシーや他の子供たちを危険に巻き込まないためにも、もう啖呵を切って飛び出す真似はしない。
 せめてその動向を探り、あとでエリッサたち大人に知らせる。

 そんな正義感に従って、ドクサは慎重にあとを追った。

『――っ』

 と、不意に聞こえたのは木の軋み。
 石造りの屋敷で、それが指し示すのは扉だけだ。
 こっそりと階段を下りて、ドクサは踊り場の手すりの影から顔を覗かせる。
 すると、燭代の明かりに浮かぶ玄関ホールから、今まさに何者かが外に出て行くところだった。数は二人組で、玄関扉と比較した身長はおそらく大人の男たち。

 遠目でよく見えなかったが、片方の腕には何かが抱えられていた。
 まるで、そう、子供一人分ぐらいの大きさの影。

「まさか……」

 何か焦燥のようなものが、ドクサの心を駆り立てた。
 足は自ずと玄関の扉に向かう。早まる鼓動が、ドアノブに手を置かせた。

「……ふぅ」

 ドクサは一度だけ深呼吸をした。
 この扉の先に、何かが待ち受けている。それも虫の知らせとでもいうべきか、全身から警鐘染みた鼓動が鳴り響いた。

 向こう側に足を踏み出せば、もうあとに引くことはできない。今ならまだ、何も見ないで済むのだと、ドクサの直感が絶えず訴えかけてくる。

 けれど、ドクサは今ここで目を背けたら一生後悔する、そんな予感に囚われた。
 だからドアノブを回し、ドクサはその扉の先の景色を目の当たりにする。
 
 遥かなる園の中庭の中心には、台車が置かれていた。
 人力で引く二輪の車。おそらく、両隣に立っている男――今朝から、正門の前で衛兵をしていた二人が運んできたのだろう。

 そして衛兵の一人が、抱えていた〝誰か〟を台車に寝かせた。

 初めは辺りの薄暗さに、ドクサの眼はその正体を掴み損ねる。
 空には闇夜を深くする暗雲が立ち込めていた。
 ちょうど雲の切れ間から顔を覗かせる月光。
 これが映し出したのは、ドクサにとってかけがえのないものであり、必ず守り通さなければならない大切な存在。

 最愛の妹レクシーが、男たちの手によって連れ出されていたのだ。

「レクシーっ!」

 ドクサは我しらず声を張り上げた。
 途端、男たちが驚いたように振り返ってくる。

「な、何だ、もう一人の方か」

「連れて来る手間が省けたが、少々面倒なことになりそうだ」

「オ、オマエら、いったいレクシーに何を――」

 衛兵たちを問いただそうとしたとき。

「ん、んーっ!」

 ドクサは背後から何者かに口を塞がれた。
 とっさに抵抗をするが、不意に耳元に囁かれる穏やかな声音。

「いけませんよ、ドクサ。他の子供たちが起きてしまいます」

「……っ」

 それを聞いたドクサは、全身が凍りついたように感じられた。同時に、胸中を渦巻いていくものは失意と悲哀。

 決してこのような場所で聞きたくなかったその声は、紛れもなく――

「マザー・エリッサ」

 口を解放されたドクサは、ゆっくりと振り返りながら彼女を見上げた。

「何で、こんなとこに……嘘だって、言ってくれよ」

「申し訳ありません。ですが、これも全ては貴方たちの未来のためです」

「幸せって何だよ。あんなの、どう見ても人攫いじゃねぇかよ」

「それは……」

 エリッサは躊躇いがちに口籠る。
 ドクサはその一瞬をついて、エリッサの手から逃れようとするが、そこに届けられた響きに静止を余儀なくされた。

「ういっいっい! 実に賢い小僧だね、ヲマエ」

 耳に突く奇怪な笑い。
 エリッサの背後からドクサの前に歩み出て、その姿を月夜に晒す。

「ジェスタ・ジェスタ」

 ドクサの眼前に現れたのは、ただの小柄な男ではなかった。
 頭に乗せた奇妙な帽子。一枚布の如き服は真っ赤に染まり、靴のつま先は尖っている。
 そして、その邪悪な笑みを塗り固めている真っ白な化粧。
 俗に道化師を模した小男として、ジェスタはその本性を現す。

「参ったね。困ったね。しくじったね」

 ジェスタはその場で軽やかなステップを踊り、おどけた調子でドクサに迫る。

「ヲマエがキュクロスの回し者でも、明日からは残念、元の生活には戻れないよ。そこの妹と一緒に終わるの。今の人生をね」

「どういうことだよ、それ!」

「なに、貴族に献上されてくれれば、良いだけ。給仕にされたり、妾にされたり、用途は知らないけど、上手くいけば、出世できるチャンスかもね」

「ちくしょう! そんなの、奴隷とどう違うんだよ!」

「もちろん、違うよ。貴族は、ヲマエたちに、食事も給金も弾む。でも奴隷は、使役されて、ボロ雑巾にされて、そのまんま使い捨て。ほら、ぜんぜん、違うでしょ?」

「他人に使われてる時点で、おんなじだろうが!」

 ドクサは近づいてきたジェスタに、大きく拳を振りかざした。

「おっとっと。危ないね。そういうの、やめて」

 ジェスタはゆらりと身体を後ろに引き、殴りかかるドクサをかわす。
 それに合わせて、衛兵たちが主人の危機とばかりに走り寄って、あっという間に両脇からドクサを抑え込んだ。
 大人二人分の腕力に、ドクサは成す術もなかった。

「離せ! レクシーを返せ!」

「ドクサ、抵抗してはいけません。なにも危害を加えようというわけではないのです」

「ウソつけ! エリッサは……コイツと、他の子供たちを騙してるんだろ!」

「いいえ、違いますわ。たしかにこの遥かなる園は、真っ当な孤児院とは異なる場所。しかし子供たちに、裕福な暮らしを送ってもらいたい。その気持ちだけは本物です」

 信仰心を頼るように、エリッサは胸のロザリオを固く握り締める。

「まだドクサには理解が及ばないかもしれません。けれどジェスタ様の行動は、全て主の御心のままなのですわ」

「主って……もしかして、神様のことじゃねぇだろうな?」

 ピクリと、ドクサの眉が揺れた。
 エリッサはそれに気づかないまま、それを正論とばかりに振りかざす。

「ええ。貴方たちはきっと、今生を不幸に終えてしまう。残念ながら、神ですら平等を与えることは不可能なのです。しかしそれは主の望む形ではありません。だからこそこの地上には代行者が必要となる。ジェスタ様はその体現者。少し歪なものとはなってしまわれますけれど、ドクサとレクシーに今生の幸を与えるお方なのですよ」

「ふざ、けんなよ……」

 ドクサは堪忍袋の緒が切れた。

「神様を逃げ道に使ってんじゃねぇよ!」

 エリッサの歪んだ慈悲を、ドクサは真っ向から否定した。

 どのような理由があろうと、神は悪党に手を貸すことを許したりしない。 父のいた聖導師騎士団は悪の手によって失われてしまったが、いつかは天罰が下るとドクサは信じていた。
 だからこそ、ドクサは悪党が神を語ることを認められない。
 それがたとえエリッサでも、決して口にして欲しくなかった。

「ドクサ……私は、ただ」
 
 一瞬、何かが揺らいだようにエリッサは俯く。
 まくし立てようとするドクサだったが、それを遮るようにジェスタが笑った。

「ういっい。口だけ、達者な、小僧だね。でもそれでおしまい。ヲマエも妹も、ボクの大切な貢ぎ物なの。どれ、ヲマエら。この二人、城まで運んどいて」

『はっ!』

 ドクサを捕らえる衛兵は、従順に荷台へと運んでいく。
 このとき、もう駄目かとドクサは諦めかけた。
 大人の力に自分が敵うはずもなく、このままレクシーを助けられずに連れて行かれるのだと感じ始める。

「……レクシー?」

 不意に、ドクサは妹の寝姿を見やった。
 着ているものは寝間着。遥かなる園で用意された布地の薄い肌着である。 
 しかし問題はそこではない。その小さな手が、固く握っているものには見覚えがあった。

 あれはそう、ある青年が忘れていった鞄。

 寝ているときまでレクシーが大事に抱えている理由は、きっと持ち主に返すまで絶対に失くさないという決意の表れ。
 人攫いを自称しながら、最後まで二人の幸せを願ったイジーへの強い想いだ。
 期せずして、イジーとの思い出がドクサに気力を蘇らせる。

「アイツなら、きっと……」

「大人しくしていろ」

 衛兵の一人が台車に積んでいた縄を取るため、いったんドクサから離れていく。
 現在ドクサを拘束しているのは一人。少し顔を動かせば、すぐそこに手の甲がある。

「……っでぇっっ!」

 ドクサを抑えていた衛兵が絶叫した。
 ドクサが男の手に思い切り歯を立てたのである。血が滲むほどの噛みつきによって、堪らず束縛が解けた。そこからは死に物狂いで、この場から逃げ出すことに全力を注ぐ。

「なな、何してるの! ヲマエら、早く小僧、捕まえて!」

 ジェスタが慌てた声を出すが、ドクサはすでに正門を抜けている。
 とっさにドクサを追いかける衛兵だったが、そのすばしっこさは脱兎顔負けだ。

 子供とはいえ体力だけは自信のある少年に、剣や甲冑を身に着けた大人では敵うはずがなかった。あっという間に距離が開いていく。
 ドクサはわき目も振らず、ただただ逃げることに必死だった。

 どの道を行き、いくつの曲がり角を抜けたかなど数えていない。今はひたすらに、ジェスタからの追っ手を巻くことだけを考えていた。

「ハァ、ハァ……」

 やがて息を切らせながら、ドクサは遠くに明るい場所を見つける。
 幼いドクサにはよく分からないが、それは歓楽街の一部の建物に掲げられた松明。
 どこからともなくやって来た、一組の男女がその中に入っていく。
 酒場すら明かりを消すこんな夜更けに、まだ営業している店があることに驚きつつ、ドクサは光に誘われた虫のように、ふらふらとそちらに近づいていく。
 脳裏にはもっとも頼れる大人、イジーの顔を思い浮かべながら――

「――そっちに行くには、君はまだ早すぎるかな」

 不意にかけられる声。ビクッとしながらドクサは逃げ出そうとするが、すでに襟首を掴まれている。それにもう、逃走を行うだけの体力は残っていなかった。

「そう警戒しないでくれ。僕は君の味方だよ」

「え……」

 振り返ったドクサの前には、いつか見覚えのある姿。
 ドクサの中で、もう一人だけ頼っても良いと思える正義の大人。

「もしかして、あのときの兄ちゃんなのか?」

「ふふ、覚えていてくれたのかい? 何か大変なことに巻き込まれているようだが、まずは君の探している人物の元に送ってあげるよ」

 そこにいたアンドリューは、先導しながらドクサをある場所に連れて行った。


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