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「イジーさんに連れられて」第七話
目覚めたとき、ドクサは石造りの天井を見ていた。
背中を埋める柔らかい感触に、そこがベッドの上だということを悟る。
「……ここは」
「あ、お兄ちゃん気がついた?」
にゅっと、レクシーがベッド脇からドクサの顔を覗き込んでくる。
「おわっ! び、びっくりさせんなよ」
飛び出す妹に鼓動を跳ね上げ、ドクサは上体を揺らした。
ひとまず、ゆっくり辺りを見渡すと、そこはとても豪勢な一室。
昔、一度だけ父親に連れられたことのある貴族の部屋と、だいぶ似た造りをしている。
庶民には到底理解できないような美術品が飾られており、子供のドクサでも意味が通じるものと言えば、花瓶に生けられた白い花弁のエーデルワイスぐらいだ。
「そっか……オレ、熱出したんだっけ」
次第に鮮明になる脳裏に、これまでの出来事が通り過ぎていく。
「うん。イジーさんに、この遥かなる園まで運んでもらったの。それでマザー・エリッサがお医者さんを呼んでくれたんだよ」
「マザー・エリッサ?」
聞きなれない名前に首を捻ると、レクシーが説明した。
「ここに住んでる子供たちのお母さん代わりだって、みんな言ってたよ」
「みんなって――あっ」
ハッとドクサは、部屋の入り口の扉が少しだけ開いていることに気づく。
そこからじーっと感じる視線に、ドクサはようやくここがどういう場所なのかを悟った。
「アイツ、オレたちのことちゃんと送り届けてくれたのか」
兼ねてより約束していた孤児院・遥かなる園。イジーはただの人攫いではなく、本当に自分たちに幸せを掴むチャンスをくれたのだ。
初めはまったく信用のできない人物であったが、今ならその全てを取り消せる。
「レクシー、アイツどこだよ。オレ、お礼言わないと」
「ううん、もういないよ」
短く首を横に振り、レクシーは寂しげな表情を浮かべる。
「マザー・エリッサが言ったの。ワタシたちにお別れしないで行っちゃったって」
「何だよ、それ……アイツ、何も言わないで行きやがったのかよ」
ドクサは拳を握り、それをベッドに叩き下ろした。
「オレたちのこと勝手にあの屑野郎のとこから救って、服とか食べ物とか全部やってくれて、それなのにもういないなんて……ほんとに身勝手すぎんだよ」
「うん……もう会えなくなっちゃうなんて寂しいね」
ぼそりとレクシーは呟きつつ、床に置いてあった、ある物を拾い上げる。
「これも、まだ返してなかったのに……」
「え? もしかして、それ」
ドクサはハッとして、レクシーが持っている鞄に思い当たる。
「うん、大きなお兄ちゃんの」
「ちょっと貸してくれ」
レクシーから鞄を受け取り、ドクサは中身を改める。
そこにはいくつかの紙切れや火打石。皮袋に入った硬貨などの貴重品。
そして底の方に、布で厳重に巻かれた妙なものがあった。
「何だこれ……」
ドクサはそれを取り出し、勝手に布を解いてみる。
横でこれを見ていたレクシーが、中から現れた物に対して小さく声を上げた。
「わぁ、綺麗」
「どうしてこんなの入ってるんだ?」
布に巻かれていたのは、鮮やかなブルーに塗られた靴だった。それも右の一足のみ。
以前に関わった子供の持ち物だろうか。片方だけというのは気になるが、とても大事そうにしまってあったので、ドクサは布を巻き直すとそれを再び鞄にしまった。
それよりも重要なのは、イジーの荷物が忘れられたという一点である。
「レクシー。アイツ、きっとこれ取りに来るぞ!」
「ほんとに? また、会えるの?」
「ああ、絶対にそうだ! そうに決まってる!」
「やったあ! これでちゃんとお別れ言えるね!」
二人して、小躍りするように喜びを交わし合った。
すると扉の向こうの気配たちは、その様子に驚いたようにそそくさと離れていく。
どうやら新入りの歓迎をするつもりだったようだが、取り込み中に気を遣ったのか、それはしばらくあとになりそうだった。
「あれ、でも待てよ」
と、不意に冷静さを取り戻したドクサが重大なことに気づく。
「アイツがレクシーに荷物預けてること忘れて、さっさと街を出てってたらどうしよう」
「わわっ、大変だよお兄ちゃん!」
レクシーはその場であたふたする。
「落ち着けって、レクシー。空はどうなってる?」
ドクサは妹に訊ねつつ、自分でも窓の外に目を向ける。
空は薄ぼんやりと黄昏色に染まっていた。本格的に夏の近づくこの季節は、日の入りが遅くなるため、今しばらくは明るさが保たれる。
「まだお日様が出てるね」
「オレ、どのぐらい寝てた?」
「うーん。ここに着いてから、そこまで経ってないかな。お医者さんのお薬がすごく効いたんだと思うよ」
「なら、街の外には出てないぐらいか。それに、夜になるんだからきっと宿屋に泊まるはずだと思うし、今から探せば間に合うかもしれないぞ」
こうしてはいられないと、ドクサは急ぎベッドから降りた。
「待ってお兄ちゃん。もう動いてだいじょうぶなの?」
レクシーから身を案じられるが、ドクサの身体は微塵の気怠さすら残っていない。
「ほら見てみろよ、ぜんぜん平気だ」
「そうなんだ、よかったぁ」
ほっと一息つくレクシーは、ドクサに続くように立ち上がる。
「じゃあ探しに行こ、お兄ちゃん」
「あ、ダメだ、レクシーはここに残ってろ」
「え? どうしてワタシはダメなの?」
「だって街ではぐれたら困るだろ。さすがにオレ、二人も探しきれないぞ」
妹の心配をしつつ、ドクサは続けた。
「安心しろって。アイツのこと見つけたら、ちゃんと連れて来るから」
「うん……約束だよ?」
ドクサを真っ直ぐ見つめて、レクシーはお願いする。
それを固く心に誓ったドクサは、部屋を抜けてイジーを探しに向かおうとした。
しかしその背中に、ふとしてレクシーが告げる。
「そうだ、お兄ちゃん。起きたら知らせてって、マザー・エリッサが言ってたの。お外に出る前に、ちゃんと会ってあげて」
「お、そっか。これからお世話になるし、挨拶ぐらいしとかないと」
ドクサはレクシーの言葉に従い、まずはエリッサを探すことにした。
屋敷の廊下で、ドクサは何人もの女性とすれ違った。
全員が頭に白い布をかぶり、お腹のくびれたスカートを履いたエプロン姿。
どうやらここで働いている女中らしく、手当たり次第にエリッサかと名前を訊ねる。
しかしそのどれもが外れで、ドクサが意気消沈していたところ――
「あら、新しく来た子? 可愛らしいボウヤね。マザー・エリッサなら一階の奥の部屋よ」
と、優しく頭を撫でられながら教えられた。
ドクサとしては、すでに一人前の男を自負しているので、あまり女性から子供扱いされるのは苦手である。けれど悪い気はせず、とりあえず言われた場所を目指した。
「ここか?」
そしてたどり着いた扉の前で、ドクサはドアノブに手をかける。
「――それで、どうだったのでしょうか」
だが、不意に聞こえる女の声。
「偵察に向かわせたの。すると、あらびっくり」
続いて聞こえてくる男の響きに、ドクサは扉の開閉を躊躇した。
おそらく女がエリッサなのだろう。接客中なのか、誰か男と会話をしている様子。
このまま中に入っても良かったが、ドクサはその内容に少し興味を持ち、そっと耳を扉に近づけた。すると詳細な話が聞こえてくる。
「なんと、影も形もなかったって話だったのね。たぶん、これ、少数で動いてる。だからもし乗り込んできても、何もできずに終わると思う」
「それはひと安心ですわね」
「うん。これには陛下も満足してた。思ったより、奴らも骨がないとか言って」
「ええ。けれど油断は禁物かと」
「もちろん。それについては、ボクから、進言しといた。少数とはいえ、領主の屋敷に忍び込んで、目的を果たしたんだもの。その手腕、警戒するに越したことはないよね」
「すでにこの街に潜入している可能性はいかがですか?」
「十中八九、いると思う。ま、その辺は陛下の部下が、なんとかしてるだろうし、ボクには関係ないから。というか、ボク、そもそも政治とか興味ないの。いろいろ助言するのだって、今の立場のために、実はやりたくなかったりして」
「それはさすがにお言葉が過ぎるかと……誰かに聞かれでもしたら事ですわ」
「まさか。問題ないでしょ。どうせ、ここにいるのは――」
ふっ、と男の台詞がそこでぶつ切りになる。
その瞬間、ドクサは背筋にぞわりとしたものを感じ、急いで扉から飛びのいた。
まるで何者かの視線に射竦められたようだった。
全身を駆け巡る血流の速さが、絶え間なく動悸を早めて、心音がバクバクと鳴り止まらない。
この感情を一言で表すなら、恐怖という言葉がしっくりくる。
「もし、どなたかそこにおられるのですか?」
部屋の中から女性の声が響いた。
それは今まさに会話をしていた女と同質――と、ドクサには判断が難しかった。
なぜなら流れてくる響きは、今しがたの淡泊とした、対象に敬意を払っているようなものなどではない。母性溢れた、聞く者の心を優しく包み込むものだった。
自然とドクサは心が安らぐのを感じつつ、とっさに返事をした。
「は、はい!」
「おや。もしや貴方はドクサではありませんか?」
女性は聞き覚えのない声を、ピタリとドクサと言い当てた。
彼女こそ、エリッサその人で間違いないとドクサは確信する。
「えっと、オレ……」
盗み聞きが良心を咎めて、ドクサは次の反応に逡巡する。
「目が覚めたのですわね。それは喜ばしい限りですわ」
しかしドクサが続ける前に、エリッサは足音を立てながら扉を開けた。
それに伴い室内の全貌が明らかになる。そこにはエリッサのほかに誰もいない。
一緒にあった男の姿は、影も形も見当たらなかった。
「もう起き上がってよろしいのですか? まだ熱が下がっていないのでは?」
エリッサはドクサの体調を不安に思い、目線を合わせるように膝を曲げた。
そして素早くドクサの前髪を掻き分けると、自らの額と重ね合わせる。
途端、ドクサにひんやりしたものが伝わってきた。
「……いや、その」
ドクサはどう対応すれば分からず、エリッサにされるがまま。
「どうやら本当に熱は引いたようですわね。けれど大事を取って、もうしばらく休息なさってください」
エリッサはドクサの肩に手を乗せ、廊下を回れ右させた。
「あの、オレ、ちょっと外に出たいんだけど」
危うく忘れかけた目的を、ドクサはエリッサに伝える。
けれど案の定、首を横に振られた。
「まあ、それはいけませんわ。まだ本調子ではないのですから、ちゃんとお休みになるのですわよ。外で遊ぶのは、そのあとでいくらでもできますから」
「ち、違うって。というか、そんな待ってたらアイツが――」
ドクサは意思を訴えようとしたが、エリッサは有無を言わせず背中を押した。
「さっ、ドクサ。良い子ですから部屋にお戻りなさい。夕餉の支度が済みましたら、レクシーと一緒にお呼びしますので」
「……うん」
取りつく島もない様子に、ドクサはしぶしぶ身を引く。何だか母親にわがままを諭されていた頃を思い出して、逆らう気も湧いてこなかった。
廊下を戻っていくドクサは、階段を上がるまで見送ってくれるエリッサを振り向く。
その屈託のない笑顔に、ドクサは本当に母親と向き合っているかのような感覚がして、男の声のことすら聞けず仕舞いだった。
盛んに賑わう酒場に、イジーの姿はあった。
石造りの街にしては、そこは木造の内装をしている。
酒瓶の棚が正面に見えるカウンター席に、いくつものテーブル席。夜を迎えた店内は人々で埋められ、ランプや蝋燭といった明かりに映し出されていた。
この酒場が経営されているのは繁華街ではなく、都市を取り囲む外壁に近い郊外だ。
首都オクトスと一口に言っても、内部は区画ごとに入り組んでいる。皇帝の住む城に近づくほど貴族のような有権者が暮らし、外側に派生するように身分の低い者が暮らす。
それに応じて、建物の造りもだいぶ変わってくるのだ。
中心街はどこを見渡しても、灰色の無機質な光景しか広がっていない。
視覚的な華といえば、中央広場にある花壇や噴水が関の山である。
一方、郊外は農地や森林といった自然が豊富な土地だ。
川が通っている箇所もあり、息の詰まるような街中とは段違いの光景である。
もっとも、そんな地区こそが庶民に強いられる暮らしの場であり、その大多数は農民で構成され、住む家と言えば木造の平屋。
まともな賃金もない彼らにとって、この酒屋は唯一の憩いの場。気の良い夫婦が、なるべく安く酒や食べ物を仕入れて、低価格で提供してくれている。
イジーがここを夕食の場として選んだのは、もちろん値段の関係もそうだが――
「聞いたか? また貴族の馬鹿どもが、税率を上げるとか抜かしてやがんだ」
「はっ。良いねぇ、天上のお人は。下々の気持ちが分からなくてよ」
「けどあれだろ。他所の町で、またキュクロスが一泡吹かせたって言うじゃねーか」
「あれにはおらも感激しちまった。もっとこの国をより良くして欲しいや」
食事の席で交わされるのは、国家に対する愚痴や不平不満。
わざわざ庶民の酒場まで来る物好きな貴族もいないので、好き勝手なことを言えるのがこの酒場の特徴である。加えて、たまに情勢に対する的確な意見を聞けたりするため、イジーは好んでここを利用していた。
「……これからどうするか」
カウンター席に座るイジーは、木製のコップを片手に、今後について考える。
まず手始めに、孤児院に置いてきてしまった荷物だ。
ドクサのことで手一杯で、レクシーに預けていた鞄の存在を忘れていた。エリッサからもらった謝礼のおかげで宿や飯代は何とかなるが、せっかく二人と無言で別れた手前少しだけ戻り辛かった。
鞄や財布自体はそこまで惜しくないが、あの中にはどうしても手放せない大事なものが入っている。どの面を下げていけば良いか悩ましいところだが、結局明日は遥かなる園に戻ることになりそうだ。
それはそれとして、ドクサとレクシーを送り届けたばかりなので、しばらくは次の仕事に移る気はなかった。
今日は情報屋も酒場に顔を出していないため、まともに動こうにも準備が不足していた。
孤児は闇雲に探して見つかるものではない。
大抵はどこか人目のつかない場所を住処にしており、単に会いに向かったとしても逃げてしまうのが関の山。ましてや彼らは大人を信用しないので、これを説き伏せるにはそれなりに下準備が必要なのだ。
その点、ドクサとレクシーはだいぶ事がやりやすかった。
元々あの二人は酷い雇い主の元で働いていたので、大人への態度は荒んでいたものの、その場所に留まりたいと思う気持ちは露ほどもなかった。
これが下手に縄張りを持つ子供であれば、そこから引き剥がすのも一苦労だ。
まずこちらの言葉は信じない。今までの生活に満足はしていないが、他の道があるとも思っていないので、狩猟採集や盗みのために利便なそこで暮らそうとする。
さすがに命の危険に晒されれば場所を明け渡すだろうが、もちろんイジーはそのような真似は絶対にしない。
だが孤児たちにこちらが無害だと思われた瞬間、素直に着いて来る可能性は消える。
言うなれば、ナメられて逆に金銭をせびられるのがオチだ。
そうなった場合、ドクサとレクシーのように強硬手段に訴えるしか方法はない。
否、それ以外に取れる手段などイジーは持ち合わせて――
「はは……そういえば俺、どの子供も力づくで運んでたな」
明らかな矛盾に気づいて、イジーは自嘲気味に笑った。
気持ちを落ち着けるように、コップの飲み物をあおっていたとき。
「マスター、この人と同じものをもらえるかな」
ふと、イジーの右隣の席に誰かが座った。椅子は他にも空いていたはずだが、会話を求めて見ず知らずの他人の横に着くことは珍しくもない。
「へい、お待ち」
女性店主がイジーの隣にいる人物の前に、無色の液体が注がれたコップを置く。
イジーはそれを横目にしつつも、前を向いたままだった。
話しかけられるまでは、いくら隣に座られようと意識してはいけない。中には、変な因縁をつけて絡んでくる者もいるので、決して自分から動くことはしなかった。
「ありがとう、マスター。それにしても、なかなかの美人さんだね」
「あら、お世辞が上手。けど色男さん、主人が見ている前でそういうこと言わないのよ。やきもち焼かれちゃうじゃない」
のろける店主と軽いやり取りのあと、隣の人物はコップに手をかけた。
そして、ぐいっと喉を鳴らす音が聞こえてから数瞬。
「……何だい、これ水なのか。てっきり度数の高い酒だと思って期待したのだけれど」
聞きようによっては少し失礼な物言いをする、やや高めの声色。
イジーは無視を決め込もうとしたが、どこかで聞き覚えのある調子に眉を潜め、思わずそちらを見やってしまった。
「……あんたは、確か」
「おや? 誰かと思えば」
互いに視線を交錯させながら、しばらく記憶の底を探る。
やがて拾い上げたのは、ディアバシスで見た光景。傭兵四人を相手に、見事な立ち居振る舞いを見せた美青年剣士だ。
「ああ、あのときドクサを助けてくれた」
「勇敢な男の子を連れていた、青いバンダナの君じゃないか」
どうやら青年の方も、イジーのことを覚えていたようだ。
青年は旧友にでも会ったように親しげな顔をする。頭にノーブルハットは被ったままだったが、その美顔は帽子の影に隠れても人懐っこさを醸し出していた。
「こんなところで奇遇だね。君もオクトスに用事があったのかい?」
「あー、まーそんなとこだ」
イジーは少々話をはぐらかした。
孤児院に子供を送ることが仕事とはいえ、その本質は無理やり連れ去る人攫いである。
「それで、あんたもこの街に用事なんだろうな。あの腕なら引く手あまただろう。どっかの行商人の護衛でもしてるのか?」
「うん、この剣を使う仕事という点では間違ってないかな。でも特定の個人を守るためじゃない。残念ながらね」
「へぇ。だったら賞金稼ぎとか?」
「悪党退治は共通しているかな」
青年はコップの水を飲み干しながら、おもむろに切り出した。
「実はこの辺りで、ちょっとした話を聞いてね。普段はあまりそういうことに関わり合いにはならないんだが、ある目的で情報屋の男を問い詰めたら、ついでに面白い話が聞けたのさ。是非一つ、君にも聞いてもらいたい」
「……」
イジーは気取られない程度に、青年との間を少しだけ開けた。
「知っているかい? ここ数年、この街の裏の世界に現れた男の話を。そいつは人攫いをやっているらしいんだが、狙っているのは常に子供ばかりの外道って噂なのさ」
「……それで?」
「その男がこの酒場によく出入りしている、なんて話を聞いたら居ても立ってもいられなくなってね。不埒な輩はこの剣の錆にしてくれようと、息巻いてみたんだが」
青年は外套をめくり、左腰の剣をチラとだけイジーに見せる。
「肝心の顔が分からないときたものだ。笑ってしまう話じゃないか」
「……はは、そうだな」
イジーは苦笑いを浮かべた。
青年は深く頷きながら、ある問いを投げてイジーに答えさせる。
「うん、そうだろう。それで、もし君が僕の立場だったら、これからどのようにすれば良いかな? 参考までに意見を聞かせて欲しいんだ」
「俺の考えなんか、当てにならないと思うぞ」
緊張の一瞬を間近に控えるように、イジーの額は徐々に汗ばんだ。
「悪いが、俺だったらそんなミスは犯さない。そいつの身体的な特徴とかを、あらかじめ情報屋から聞き出してる。だから、あんたの失敗談の助けにはなれないな」
「用意周到なんだね。頭もキレそうだし、非常に用心深そうだ。そんな君が困り顔を作るとすれば、きっと不測の事態が起きたときぐらい、とみた」
カウンターに置いていた左手を、青年は静かな動作で鞘にかけた。
「誰だって失敗はある。どれだけ慎重に動いても、少しの油断が命取りになるしな」
右手を椅子に当て、イジーは僅かに腰を浮かせた。
「うん、それは身に染みて思うよ。今度からは気を付けよう」
「ああ、俺も……次があれば」
周囲が酒飲みたちの喧騒に包まれる中、イジーと青年の間の空気は張り詰めていた。
ほんの些細な塵芥が触れただけでも、ピンと伸びきった緊張の糸は切れるだろう。
おそらく、次の瞬間。
酒場中がひっくり返って騒然とする。
きっと濁流の如き激しさで、それはこの場を呑み込み――
「……ふふっ」
青年は左手をゆっくりとテーブルに戻し、苦笑交じりに店主へ追加注文する。
「マスター、店で一番キツイのもらえるかな」
「あら、良いの? けっこうクルわよ」
「大丈夫、僕はこう見えても強いからね。あと、オートミールと豆のスープ。それにサラダもあればもらおうかな。この人の分も頼めるかい?」
「二人分ね。了解よ」
女性店主は愛想良く、青年の注文に取りかかる。
その呑気な様子間近で見たイジーは、ようやく姿勢を楽にして青年を向いた。
「あんたからは、俺がどう見えてる?」
「そうだね。色の趣味が良いし、なんだか赤の他人とは思えないかな」
青年はイジーの頭部を一瞥した。
イジーは眉を潜めて、青いバンダナに触れる。
「残念だが、俺はあまり好きな色じゃない。というか、あんた。俺が思ってたより、明るいだけの能天気じゃなさそうだな」
「君も匂いには敏感みたいだね。でも僕は見た通りの人間さ」
人懐っこさに影を潜めているが、この青年は掴みどころがなかった。
腹の探り合いは無駄と判断したイジーは、厨房の方を顎でしゃくる。
「あれ、あんたの奢りか?」
料理の盛りつけをしている店主夫婦を見やると、青年は調子良さげに答えた。
「うん、そのつもりだよ。僕も久々に羽目を外したい気分なのさ。ディアバシスで、ちょっとした大仕事をして浮かれていてね」
「へえ。そういえば、あのあと変わったことはなかったのか?」
「特には。夜道に仲間連れの狂犬――ううん。子犬たちと戯れたぐらいかな。きゃんきゃん吠えるものだから、僕もついつい遊び相手に、力んじゃったよ。でも一生分の相手はしてあげたし、彼らもお望み通りの結果を迎えられて満足じゃないかな」
「そいつは、ご愁傷様」
イジーはその子犬たちに、微塵も同情はしていなかった。それどころか、返ってこの美青年にも泥臭い一面があることに好印象を持つ。
「ちっ、どうせ今日は仕事納めだ。あんたに付き合ってやるよ」
「すまない、恩に着るよ」
青年は穏やかな笑みから、フレンドリーに会話を弾ませる。
「ここには何人かの仲間と来てるんだけど、みんな多忙なものでね。寂しく一人酒をしようと思ってたところに、君がいてくれたのは本当に助かったよ」
「適当な奴でもひっかけないのか? その顔なら、断る奴も少なそうだが」
「僕はナンパ師じゃないよ。ところで君、酒はどの程度を嗜むのかな?」
「悪い。俺はそういうのやらないことにしてる」
「酒場でシラフって正気かい? 嫌なことを忘れたいときだってあるだろうに」
「溺れて破滅した奴を何人も見てきた。俺はまっぴらごめんだよ」
「それは残念だね。君となら飲み比べも面白そうだと思ったんだけど」
「勘弁してくれ」
運ばれて来る料理を前に、イジーはしばらく青年と席を同伴する。
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