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「イジーさんに連れられて」第八話

 食堂の中心には細長い食卓が置かれ、刺繍のほどこされたテーブルカバーがかかっている。奥の暖炉は使われていないが、燭台の灯りだけでも辺りの様子は見て取れた。
 ざっと十人ほどの子供が椅子に座り、下は六、七歳から最年長は十五。
 真ん中の席で子供に挟まれるエリッサが、飲み物の入った透明グラスを持ち上げた。

「この度は、遥かなる園に新たなる仲間が加わったことに際し、祝福の意を込めてささやかながら歓迎の宴を催したいと思いますわ」

 音頭を取るエリッサに伴い、子供たちもグラスを天に掲げる。
 ドクサとレクシーも、それに倣って同じ所作をした。

「それでは神と全ての命に感謝を――乾杯」

『乾杯!』

 全員でそれを復唱すると、子供たちは一斉にグラスに注がれたものを飲む。
 中身を知らないので、ドクサとレクシーは少々躊躇いがちに、まずは匂いを嗅いだ。
 途端、果実の甘い香りが鼻孔で膨らむ。先にドクサから味見をすると、口の中に広がるブドウの味に思わず目を見張った。

「うまい。レクシーも飲んでみろよ」

 兄の勧めに、恐る恐るレクシーも口をつける。すぐに、その表情は綻んでいった。

「ふわぁ、おいしい」

「それはジュースって言うんだよ、新入り」

 と、二人の横の席にいた最年長の少年が、面倒を見るように教えてくれる。

「新鮮な果物の出来立てだ。酒やエールみたく長持ちしないから、外じゃほとんど見なかったろ?」

「馬鹿にすんな。オレたちだって、父さんや母さんといた頃に、別の果物のやつ飲んだことあるぞ。でもオマエって、けっこう物知りなんだな」

 ドクサが素直な反応を示すと、少年は得意げに言った。

「ふふん、この遥かなる園の古株だからな。頭良いのは当然のことよ」

「ずーっといるくせに、なかなか迎えが来ないけどな!」

 少し離れた席の子供が茶化し込む。それに少年は顔を赤くさせた。

「う、うるせいや! おれがいなくなったら、誰がお前らの面倒見んだよ。それに大工のおっちゃんから、いつでも来ないかって誘われてるんだぞ!」

「でもマザー・エリッサに甘えたいから、まだまだ離れたくないんでしょ?」

「一番おっきいのに、お子様だーい」

「お前ら、新入りの前でいい加減にしろーっ!」

 わーわーと騒ぎ出す子供たち。それを穏やかな微笑みで見守るエリッサが言った。

「みなさん、お話も良いですけど、そろそろ料理が運ばれてきますわよ」

 エリッサが言うと、食堂には次々と女中が入ってくる。
 両手でお盆を持ち、その上の盛りつけてある皿をどんどん食卓へと置いた。湯気立ち上る油の乗った牛肉に魚の蒸し焼き。野菜のスープにふわふわのパンと、食事の席は美味しそうな匂いに包まれていった。

「すごい……これ、全部食べていいの?」

 レクシーが目を輝かせて呟くと、ドクサは最年長の少年に目を向ける。

「い,良いのかこれ?」

「もちろん。マザー・エリッサの計らいだ。今日はお前らが来たっていう特別な日だから、いつもより奮発してくれたんだぞ? マザー・エリッサに感謝して、好きなだけ腹いっぱい食べて良いからな――って、お前ら新入りより先に食ってんじゃねーっ!」

 血気盛んな勢いで、もう料理を食べ始めた他の子供たちに指摘を入れるまとめ役。

 その和気あいあいとした様子に、ドクサもレクシーも自ずと頬が緩む。
 この場にいる誰もが、さまざまな理由で親を失った孤児だ。保護者がおらず、世間から見捨てられながらも、行きついたこの場所であんなに幸せそうな笑顔を浮かべている。

「なあ、レクシー。ここに来られて良かったか?」

 ドクサは子供ながらに感慨を抱き、妹の胸中を窺った。

「うん。でもお兄ちゃんといっしょなら、どこにいてもワタシは幸せだよ」

 健気な答えをするレクシーに、ドクサは思わずその頭を撫でる。

「お、お兄ちゃん、くすぐったいよぅ」

「オマエだけは、オレが絶対に幸せにする。だけど今は、そうなるためにも、ここでいろいろと学ばないとな。イジーも、そう言ってたし」

 決して自らは幸福をもたらす者ではないと、イジーの残した言葉を思い出す。
 だが、イジーは十分な働きをしてくれた。ならば、それに応えることこそが、この遥かなる園に送り届けてもらったドクサの役割。

 レクシーのためにも、強くあらねばならないのだ。

「イジーさん、お荷物取りに戻ってきてくれるかな?」

「きっと来るさ。それよりレクシー、早く食べようぜ、お腹空いてるだろ。ほら、オレが皿によそってやるから」

 ドクサは新天地での覚悟を決めつつ、目の前の料理に手をつけ始めた。
 
         
 
「――うー、ひっく……ほりゃほりゃ、コップが寂しがってるぞー?」

「だから、勝手に俺のに注ごうとしないでくれよ」

 イジーはコップに手をかぶせながら、酔っ払いの相手をしていた。

 カウンターに置かれた料理皿は全て空になっているが、ボトルの中身はまだまだ半分も残っている。酒に強いと豪語していた割には、青年の顔は真っ赤に染まっているのだ。

 変な奴と関わり合いになってしまったと、イジーは静かに嘆息する。

「にゃにをう? 君、僕のものが飲めないってのきゃ?」

「俺は飲まない。最初にそう言っただろ」

「むー。ちょーっとぐらい良いじゃないかぁ。しぇめてエールぐらい飲んだらどなのぅ? そんな調子じゃ、つまんにゃー人生送っちゃうぞぅ」

「余計なお世話だ。それより、ぜんぜん呂律が回ってないぞ。少しは控えたらどうだ?」

 親切と迷惑を半々にイジーは忠告する。

「しょんな寂しーこと言わにゃいのん」

 と、悪酔いするように、青年は椅子をずらしてイジーと肩を組んだ。

 そのとき予想以上に細い体格にイジーは驚く。
 しなやかな筋肉は盛り上がっておらず、あまりにも華奢な体躯が妙に壊れモノを想起させた。
 ともあれ、イジーは絡み酒をする厄介者を突き離そうとする。

「こういう真似したいなら、そういう店の女と遊んでくれ」

「えー、だって僕、女性とか興味ないしー」

 酔った勢いだろうが、思いがけない暴露にイジーは内心ひやりとする。
 確かにこの青年の美貌は、イジーから見ても見目麗しい。かといって、そのような趣味は持ち合わせていなかった。

「……店主。こいつの頭に水かけてやってくれないか?」

「あら、せっかく面白い展開になりそうだったのに」

 端からニヤニヤこちらの様子を伺っていた女性店主は、イジーの前に水を置く。

「ほら飲め。それでさっさと酔いを覚ませ」

「えー。やだ」

 駄々っ子のように、青年は首を横に振った。イジーは軽くイラっとする。

「あんたの仲間が忙しいのって、その酒癖のせいじゃないか?」

「しょんなことないもーん。僕、お酒には強いって言ったじゃないきゃー」

 どの口が言うのか知らないが、不意に青年は意気揚々とイジーから離れた。そして言っていることと正反対に、水を受け取って一気に飲み干していく。

「ぷはー、生き返る!」

「俺は老けるよ」

 どっと疲れが押し寄せてくるイジー。
 そこに青年は、カウンターに肘を乗せながら、少しだけ纏う空気を変えて話し始める。

「酔いもほどほどにして、真面目な話でもしようか。君はこのスピラ帝国のことをどう思っているのかな?」

 これまでの酔いが演技ではないかと疑うほど、まともな口ぶりをする青年。

「……まじか」

束の間イジーは呆然とするが、すぐに気を取り直して聞き返した。

「どう、の意味が分からないが?」

「だからほら、この時勢をどう考えているんだい? 一部の権力者が農民たちを弾圧し、贅の限りを尽くしている状況だよ。仮に、彼らが民衆を同等に扱いさえすれば、無法者といった悪党も減少すると僕は思うのだけれど」

「そんなことしたら、働く人間がいなくなって国は滅ぶだろ。俺は別に、上の奴らのやることが全て間違ってるとも思わないな。……店主、また水くれ」

 イジーは水を追加注文しながら、青年の思想に自分なりの考えを伝えた。

「けれど、現に虐げられている者たちは多い。それを救うために行動することまで、君は間違いだとは言わないだろうね? 例えばそう、キュクロス、とか」

 ふとして反乱軍の名を挙げる青年。そこにイジーは続ける。

「あー、そうだな。あいつらの活動は俺も良いと思う。困っている人間を救うって考えは共感できるよ。けど、それっていつか皇帝に反旗を翻すってことだよな。俺はそこまでするのは、ちょっとどうかとは思ってる」

「ほう、それはなぜ?」

 興味深そうに、青年はイジーを注視した。
 剣にこそ手は置いていなかったが、下手なことを口走れば射抜かれそうな視線。
 イジーは間を開けながら言葉を選んだ。

「……二年ぐらい前に休戦したが、未だに隣のアルク共和国とは睨み合ってるような状態だ。それなのにキュクロスが皇帝と争えば内乱に発展し、これに乗じて好機と攻め入られるかもしれない。そのせいでどれほどの被害が及ぶかは想像がつくだろ」

「無論それは理解しているはずだよ、キュクロスもね。しかし、だからと言ってこの政治が続けば、自ずと抑圧され続けた民たちの怒りは弾ける。そしてこれを鎮静するために、帝国兵は全てを容赦なく殺す。奴らはそういう人種さ。そうなるぐらいなら、統率を取って奴らの寝首を掻いた方が、よほど有意義だとは思わないかい?」

 まるでキュクロスの代弁者のように、青年はスラスラと理屈を並べた。

「今が変われば、未来が救われるってわけでもないだろ」

 そのイジーの一言は、青年に一石を投じる。

「つまり……どういうことだい?」

 要領を得ないと青年が首を捻ると、イジーは面白くもなく言った。

「確かに皇帝を倒せば、一時的な理想は得られるだろうな。でも皇帝を失ったとき民衆を纏めるのは誰だ? キュクロスのリーダーか? 誰がなろうと帝国兵側にも家族はいるだろうし、流れた血の数だけ憎悪も生まれる。いくら頭を挿げ替えても、全てがそいつに従うはずもないだろ。俺には復讐が連鎖していく未来しか見えないよ」

「それはそうかもしれないが、では君は人々が搾取され続ける様を、指を咥えて見ていることが正しいとでも言うつもりなのかい?」

 真剣味を帯びた青年の命題。
 イジーは喉を潤してから、結論を告げた。

「いや、やれることがあるならやれば良い。でもそれに巻き込まれて、不幸に遭う人間がいることも忘れないで欲しいってだけだ。例えば、この街に住む子供とかな」

 イジーは脳裏にドクサとレクシーの顔を思い浮かべ、すぐにそれを振り払った。

「まー、そこから目を背けてる俺が、偉そうに言えた義理じゃないんだけどさ」

 あくまでもイジーは、子供を救うフリをした偽善者だ。
 孤児院に送り届けたあとは他人任せ。自らの行いを美化するでもなく、成り行きに預けることしかできない小悪党のようなものだ。
 だからこそ、他者の平和を願いこそすれ、そこに理想を並べられる資格はなかった。

「……君って奴は」

 青年は短くかぶりを振ると、まだ半分ほど残っていたボトルをぐっと掴んだ。
 それを再びグラスに注ぐのかと思ったイジーは、思いがけず制止を図った。

「お、おい何する気だ――」

 慌てて手を伸ばすが、青年の動きはもう止まらない。
 ボトルに直接口をつけると、青年はみるみる内にそれを飲み干していく。

「ん、んっ……ふぅ」

「ちょ、あんた。そんなの一気飲みしたらぶっ倒れるぞ」

「良いんだ、気にしないでくれ。僕は今、猛烈に酔いたい気分なのさ」

「いやもう十分すぎるほど酔ってるだろうに」

 イジーの心配をよそに、青年は饒舌に語る。

「実はディアバシスで君を見たときから、僕はピンとくるものを感じていたのさ。だって今どき、キョクゲイを使える人間なんて滅多にいない。十年前、帝国が大規模な旅団の禁止令を掲げて以来、大道芸人たちは一線を退いてしまったからね。けれどそれは皇帝が恐れていたからさ。彼の〝サーカス〟によって自らの命が脅かされた純然たる事実を――」

「待て待て、酔い過ぎだ」

 イジーは慌てて、目の前のコップの水を青年の口に流し込んだ。

「うぷっ」

 青年がえずいたので、イジーはその背中を叩いてやる。
 少々強引だったが、この場でその対応は正解だ。いくら郊外の酒場であろうと、危険な話題は存在する。
 
 現に、その言葉が青年の口から飛び出した瞬間、それが耳に入った客の一部が血相を変えてこちらの様子を窺っていた。

「……サーカスの噂なんて吟遊詩人の吹聴だ。大道芸人風情が、皇帝の暗殺なんかできるわけないだろうが」

 イジーは呆れたようにぼやく。

「……これ、君の水じゃ……」

 青年はぶつぶつ呟きつつも、呼吸を整えてイジーにある証言を迫った。

「そ、それならどうして君はキョクゲイを使えるんだい? どこかで経験を積まない限りあれほど熟練した技は身に着くはずがないよ」

「知り合いに習っただけだ。あんたの想像するようなことは何もない」

「仮にそれが真実だとしよう。では、君にキョクゲイを教えたのは誰なんだい? もしかしてその人はサーカスの生き残り――ううん、そもそも君自身が、かつてサーカスにいたってこと……は……」

 そのとき、青年に異変が起きた。

「……きゅぅ……」

「ちっ、手間のかかる」

 イジーは青年の目が据わっていたことに気付き、とっさに腕を出した。
 途端、全身が弛緩したように青年はイジーの方に倒れ込んでくる。その体重の軽さに驚きを得ながら、深々と嘆息した。

「あのな、十年前じゃ俺はまだガキだっての」

「……違、う……君は……」

吐息交じりに、耳元で囁かれる言葉に意識をやった。

「名前……僕は……」

「あ? 名前が何だって?」

「アン、ド……ゆぅ、揺らさないで、おくれ……」

「俺は揺らしてないし、あんたアンドリューか?」

 イジーは不機嫌を募らせ、とうとう酔い潰れた青年・アンドリューに肩を貸す。

「あーらら。お兄さん、お願いだからその色男さん、ここに置いていかないでね」

 そして事態に気づいた女性店主が、他人事のように言い放った。
 アンドリューの身柄は、なぜかイジーに一任されてしまったらしい。

「それとお会計も、お兄さんが支払ってね?」

 しっかりと料金の催促まで喰らってしまう。

「何で俺が、いい大人の面倒まで見なきゃなんないんだか」

 愚痴を零しながらも、最後まで青年の面倒は見るイジーであった。
 
       
 
 壁燭台の薄明かりに照らされる祭壇。
 まるで教会の礼拝堂のようだと、長椅子に座るドクサは感じていた。

 夕食のあと、遥かなる園の仲間たちと風呂をともにし、ようやく一日が終わりを迎えようとしていたとき。レクシーとは男女別の寝室で、同室の子供から話を聞いていると、そこに入ってきたエリッサから着いてくるように言われた。
 特にドクサだけというわけでもなく、他の部屋からもぞろぞろと移動を開始。

 やがて連れて来られたのは、屋敷の地下に作られたその場所だった。

 少し湿気があり、肌寒さを覚える。あらかじめ用意された毛布に包まっているので、耐えきれないほどではない。離れた位置にいるレクシーも、辛そうな様子は見られなかったためドクサは安心した。

 全員が席に着くと、祭壇の前に立つエリッサがこちらを振り返る。
 それに合わせるように、ふと後ろから入ってくるのは屋敷の女中たち。エリッサのように修道服を着て、室内の左右に別れていく。

 そして最後に姿を現したのは、大人にしては背の低い男だった。

 大きく肩の膨らんだ服装。おそらく身分が高いことを表しているのだろうが、あまり着慣れていないのか動きはどこかぎこちない。
 真っ直ぐ中央を抜けて、男はエリッサの隣に並ぶ。
 明かりに浮かぶ顔は思ったよりも老けており、四十は優に超えているだろうか。
 それを見たドクサは隣の子供に耳打ちする。

「……アイツ、何者だ?」

「ジェスタ・ジェスタ様だよ。この屋敷の持ち主」

「貴族なのか?」

「分かんない。いつも家にいないし、マザー・エリッサとしかほとんど話さないから。でもお城で働いてるみたいだよ」

「城にいるってことは、それなりにすごい奴なのか?」

「うーん、どうかな。それより、もうすぐ始まるから静かにしよ」

 口元の前で一本指を立てられたので、ドクサはそれに従う。けれどあのジェスタという男からは、妙に目を離すことができなかった。

「みなさん、静粛に」

 エリッサは両手を広げると、それを胸の前で組む。
 ジェスタや女中、それに子供たちもそれを真似するのでドクサも倣った。 
 
 聖導師騎士団だった父の影響で、教会の祈りについて多少の心得がある。 
 しかし集会は主に日の出ている内に行われた記憶があったので、寝る前に大勢で祈祷するのは変な気分がした。

『……』

 祈りの最中は、誰もが沈黙を守る。
 シンと静まり返った講堂内は、夜間ということもあり不気味なほど静かだった。

 そんな中、ドクサは不意に脳裏を過ぎったものがある。以前、父から聞かされた言葉だ。

 世の中には、それぞれが信じる神がいる。同じ信仰という目的を持っていたとしても、これを捧げる対象が違うのだ。
 無論、そのこと自体は何の問題もない。神を慕う心に、決して過ちなどないのだから。
 しかし一つだけ厄介なものがあった。

 悪魔信仰である。

 人目をはばかるように行われるそれは、神と正反対のものを崇め、もたらすものと言えば際限のない破滅。彼らは狂信者となり、時に罪もない人々を供物として殺す。聖導師騎士団は、そういった異端者を神の敵として討ってきた。
 そして彼らは、死の直前まで自らの間違いに気づけないのである。

 なぜ今、そんなことを思い出してしまったのか、ドクサには分からない。
 聖堂が地下に作られており、夜中に祈りを捧げたせいだろうか。けれどあの慈愛の塊のようなエリッサが、そんな恐ろしいものを信仰しているとは到底思えないが――

「……ういっいっい」

 不意に、ドクサの耳に届いた奇怪な響き。
 それはあのジェスタという男の口から漏れた笑い声だった。

「……アイツ、何でこんなときに」

 ドクサはその耳に残る笑いの意味が掴めないまま、祈りの時間は終わりを迎える。

 そうして女中や子供たちが各々の部屋に戻っていく中、エリッサはしばらくジェスタと話し込んでいた。ドクサはそれが妙に気にかかった。

「お兄ちゃん、お部屋に戻らないの?」

 けれどレクシーから心配する声をかけられたので、ドクサはかぶりを振った。

「ああ、戻るよ。行こう、レクシー」

 ドクサはレクシーを連れ、地下室の階段を上がっていく。
 それでも後ろ髪を引かれるように、エリッサたちに釈然としない蟠りを覚えるのだった。
 
         
 
 階段を上り、部屋に着くとすぐにベッドに寝かせる。

「――すぅ、すぅ」

 気持ち良さそうに寝息を立てるアンドリューを見て、イジーは深々と嘆息した。

 そこはオクトスの繁華街にある宿屋。肩を貸して街を渡り歩く中、アンドリューが辛うじて宿泊している場所を教えてくれたのだ。もし何も言わずに寝てしまっていたら、無駄に宿を借りてそこに放り込まなければならなかっただろう。

 いっそゴミ捨て場に放り捨てようかと頭を過ぎったが、それを実行したらただの外道。人攫いの身の上とはいえ、イジーはそこまで人間性を捨ててはいなかった。

「……寝格好ぐらい整えてやるか」

 イジーはアンドリューの外套を脱がせるとポールハンガーにかけ、剣をベッドの脇の壁に立てかけてやる。しかし酒に酔っているとはいえ、武芸者が見ず知らずの相手にここまで無防備を晒して良いものかと、余分な心配が募ってきた。

「俺が極悪非道の盗人だったら、どうしてたんだか」

 毛布をかけてやりながら、イジーは最後にノーブルハットに手を伸ばす。
 窓辺にあるベッドは月明りが直に差し込み、アンドリューの全身を映し出していた。雲一つ出ていないためか、明かりは点けていないのにその寝姿がよく見える。

「まったく、呑気なもんだ」

 そうして帽子を外した瞬間――ふわっ、と飛び出してくるものがあった。

「……え?」

 思わずイジーは目を見張った。

 月光に照らし出された、星の光を弾く金色。」
 一本に結ばれた後ろ髪は流麗に、端正な美顔とあいまった姿はまさに美の象徴だった。

「こいつ……」

 その目を奪われる美貌に、イジーはしばし見入ってしまう。
 激しく高鳴る心臓は、誰か別の人間のものに変わったかのような錯覚すら起こした。

「な、何考えてるんだ俺は……酒の匂いにやられたか」

 ずっとアンドリューから発せられていた酒気に参ったのだと、イジーは自分に言い聞かせながら顔を背ける。

「早いところ出るか」

 イジーは逃げるように、部屋を立ち去った。
 しかし向かう先は隣の部屋である。実はまだ宿を決めていなかったので、アンドリューを送るついで予約を取っておいたのだ。そして何の因果か、唯一空いていたのがその横。

 手間は省けるのだが、今しがたの変な気持ちを考えると、この場所を宿にしたのは間違いだったかもしれないと思ってしまう。

「……ったく。鞄のことといい、災難続きだな」

 イジーはベッドに入ると、どっと疲れが押し寄せた。

 滅入る気持ちは、どんどん重くなっていき、こんなときこそ酒で忘れられればどれだけ楽になれるだろうか考える。しかし酒は人を良くも悪くも大きく変える。酔っ払いによって、暴力を振るわれた子供を、これまで何度も見てきたのだ。
 それを考えればイジーは、決して酒を飲みたいとは思えなかった。
 特にアンドリューのように酔い潰れる姿を見てしまっては、絶対に手を出さないだろうと心に固く誓いながら。

 


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