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【小説】連理の契りを君と知る episode6「静雪が包む夜に」

←episode5「花の過去」

≪あらすじ≫
開国から半世紀ほど経ち、この国にもすっかり西洋の文化が染み渡り始めた頃のお話。

他劇場から交換でやってきた看板役者・天崎が見初めたことにより、椿月は初のヒロイン役を務めることになった。

椿月に惹かれる天崎は二人の気持ちに気づき、彼女を誠一郎に会わせないよう画策する。

互いに会いたい気持ちを募らせた誠一郎と椿月は、雪の降る日に二人きりの逢瀬を果たす。
だが、降りやまない雪に、椿月は誠一郎宅から帰れなくなってしまって――



「本当の君とでないと、私は演(や)らない」

 繁華街の往来のど真ん中で、周りの視線も気にせず、椿月のたおやかな手を両手で握り、男が言う。

 まっすぐ見つめる意思の強い黒々した瞳。目鼻立ちのはっきりした、舞台映えしそうな顔。男らしく浅黒い肌。凛とした太い眉。

 まるで物語の世界のような美男美女の一場面を、周囲は思わずぽうっと見つめてしまう。

 その沢山の視線の中には、ある一人の青年のものも含まれていた。

 彼の名は深沢誠一郎。目の前の男が手を握る女性へ思いを寄せる、駆け出しの小説家だった。

 今、椿月の在籍している劇場では、ある他都市の劇場との看板俳優を交換しての公演が行われていた。互いの劇場の宣伝にもなるし、新しい客を呼び込むこともできるという利点があり、前々から予定されていたものだった。

 こちらからは、まだ若手に分類されるものの女性からの圧倒的人気と知名度を誇る美形俳優の神矢が行った。こちらの劇場をたった一人で代表して行くようなものなので相当な重責を担うわけだが、彼ならきっと立派に務めを果たし、一回り成長できるだろうと館長は思ったのだ。

 入れ替わりでこちらに来た俳優は、神矢よりも背が高く、体格も引き締まった筋肉質で、しっかりとした雄々しい存在感のある男性。神矢が優男的な線の細い美形なら、対する彼は落ち着いた大人の男。男性性を象徴するような力強い男らしさが彼の魅力だった。

 その男の名は、天崎 忍(アマサキ シノブ)。

 濡れたような艶のある黒髪を整髪油で後ろに撫でつけ、長身を白いスーツに包んでいる。派手な色のスーツも彼自身の存在感が見事に御し、嫌みなく着こなしていた。

 この劇場にやってきた彼は、いつも愛用している白い山高帽を外すと、まっすぐな背骨を想像できるくらい姿勢のいい背中を曲げて、「短い間ですが、よろしくお願いいたします」と渋みのある低い声で、紳士然として、劇場一同の前で深く頭を下げた。自然と拍手が沸き起こるほど、完璧なふるまいだった。

 この主演交換の舞台にいつものように得意の悪女役で出演する予定だった椿月は、いつもの短い栗色のカツラと、大人の色香漂う化粧とドレスで彼を迎えた。

 今回の劇はラブロマンスで、天崎演じる青年実業家と、純朴な女学生の身分差恋愛をえがくのだが、その恋路を邪魔して二人を引き裂くのが彼女の役目である。青年を色気で誘惑し、女学生を虐げ、互いを誤解させる。

 稽古が始まって数日。存在感のある天崎が魅せる演技力や熱量に圧倒されながら、こちらの劇場も負けてはいられないと、いつもより熱のこもった稽古が続く。

 天崎の滞在日程の兼ね合いもあり、稽古の予定は連日朝から晩までかなりみっちりと組まれていた。

 そんなある日のこと。めったにない午後の休みを利用して、椿月と誠一郎は会う機会を設けていた。

 誠一郎も最近は、連載など仕事量が急に増えたことにより、以前のようにはなかなか自由な時間を作れなくなっていた。

 しかしそれでも、椿月に会うためとなったら話は別だ。何を削ってでも会いに行く。

 二人はいつものように街中で待ち合わせた。

 久々に会えた喜びに、遠慮がちに歩み寄る二人。今日はこれから日没までずっと一緒にいられるのだと思うと、そのことを口に出して共有せずとも、胸が弾んだ。

 ただこの二人、ここまで同じ思いを心の中で寄せ合いながら、未だきちんと気持ちを伝えあってはおらず、いわゆる正式な交際には至っていない。

 誠一郎も一時はそれを焦ったこともあったが、互いに近くにいられる今の状況をまずは大切にしていこうと、思い直すようになっていた。

 舞台上では話に刺激を与える悪女の役として、妖艶な化粧と派手なドレスで着飾る椿月だが、普段の姿はそれとはまったく異なる。長い下ろし髪に可愛らしい桃色のリボンを結い、花柄の着物に合わせた紫紺の袴姿に、編み上げ靴。年相応の娘として彼との時間を過ごす。

 そしてその顔は普通の娘と言うにはあまりに整った可憐なもので、すれ違う人たちの視線をたびたび集めるのだった。

 誠一郎もまた、舞台の時の彼女も変わらず同じ彼女と思い接しがらも、わずかな人しか知らない彼女の素顔と過ごせる時間を貴重なものとしていた。

 ただ誠一郎は、彼自身も十分に自覚していることではあるが、率直に言って容貌が冴えている方ではない。身なりだって金がかかったり洗練されているわけではない。彼女が集めた周囲の視線がそのまま隣の彼に向き、彼女の隣を歩くのがなぜこの男なのかと不思議がって終わることもしばしばある。

 季節は冬の真っ只中。和服姿の二人は厚手の羽織を外套代わりに、首には襟巻。椿月は手袋まではめて、お出かけの準備は万全だ。頬がほのかに朱に染まっているのは、寒さのためだけではない。

 そんな二人が、待ち合わせたあと歩き出してすぐのことだった。

 椿月は視界の端にある人物の姿を認めた。それは一人颯爽と街を歩く天崎だった。長身に加え、派手な白スーツと、同色の山高帽を着用していて目を引くのだ。

 その時。たまたま天崎が鞄を持ち替えて、その拍子に小銭入れを落とした。

 それを見ていた椿月は、誠一郎に「ちょっと待ってて」と告げると、天崎の許へ駆ける。

 大事な落とし物を拾って追いかけるも、脚の長い天崎の歩みは速く、追いつけそうもない。

「天崎さん」

 だからとっさに、呼び止めようとしてうっかり名前を口にしてしまった。

 いつも劇場で天崎と接している彼女は、今の姿の椿月ではないのに。

 自分の名前を呼ばれて振り返った天崎は、目の前の見知らぬ娘に不思議そうに驚く。親しげな口ぶりは、ただファンが声をかけた時のそれとは違うと分かる。ましてやここはいつもの自分の本拠地とは離れた土地。そう顔をさされることもないはず。

 怪訝な面持ちで、

「どうして私の名を?」

 と、その低い声で問う。

「あ……ええと……」

 天崎の射るような視線をまっすぐ向けらられて、思わずたじろぐ。どう弁明しようか悩む。

 だが次の瞬間には、天崎は彼女の漏らした声ですぐにその正体を察していた。

「その声は、まさか……君は椿月くんか?」

 そう自分で言いながらも信じられないのか、天崎は目を見開いていた。

 それも仕方のないことで、椿月は演じている役と素の姿の間にあまりに隔たりがある。もちろんそれは見た目の切り替えだけでなく、彼女の演技力があってこそ成せる業なのだが。

 ばれてしまっては仕様がない。やむを得ず、椿月はそれを認めるうなずきを返した。

「劇場の皆さんにはあまりお話していないことなので、どうかご内密に……」

 天崎はそんな椿月の言葉のさえぎって、彼女の手を取る。まっすぐ視界の中心に彼女をとらえて、

「君に僕の相手役をやってほしい」

 と、力強く訴えた。

 突然のことに認識が追い付かず、まばたきを繰り返すしかない椿月。

 ざわめく周囲にお構いなく、天崎は彼女にぐいと迫った。

「本当の君とでないと、私は演らない」

 彼の本気の言葉に圧倒されている椿月の背後には、誠一郎が追い付いていた。状況を見守りながらも、どうしたら良いか分からず、動けない。

 どうやら役者の知り合いだろうということは、会話内容以前にその優れた見た目で分かった。役者同士の話なのであれば、自分が邪魔してはいけないだろうとは思うのだが。

「今から館長に話しに行こう。君がその姿を隠して悪女の役だけをしているのは、どう考えてもおかしい」

 天崎はそのまま椿月の手を引いて行こうとする。たしかにここから劇場は遠くない。ましてや、他劇場からわざわざ来てくれている看板俳優に、強いことが言えるはずもなく。

 どうしよう、と振り返った椿月の瞳に写る、とまどう誠一郎。

 その躊躇を察した天崎が、椿月が後ろ髪を引かれている男の姿に気がつくと、

「ん? 君の付き人か?」

 と、何の疑いもなくそう尋ねた。

 パッと見てそう判断されるのは、誠一郎自身も致し方ないと思う。二人で会うことが今日の互いの外出の目的だったなんて思われないほど、容姿の程度に差があることは自分でも分かっている。

「えっ。あ、いえ、彼は、その……」

 椿月はどう説明しようか迷っていた。誠一郎は常々、駆け出しの小説家であることは周りには黙っていてほしいと言っているし、ただの“ファン”と言い切ってしまうのも何か違う気がする。もちろん、契り合った恋人などではないし。

 口ごもる椿月の困惑も意に介さず、天崎は誠一郎に言い放つ。

「用が済んだら私が彼女の家まで送ろう。君はもう帰りたまえ」

 それは付き人や使用人に対してなら当然のように掛けられる言葉で。きっと天崎には悪意などわずかもないのだろう。

 それを言い残すと、天崎は椿月を本当に連れて行ってしまった。

 手を引かれながら何度も後ろを振り返る椿月を、辻待ちしていた自動車に乗せ、二人は劇場方面に見えなくなっていく。

 一人取り残された誠一郎。

 逢瀬の相手を引き留めることもできず、他の男に連れて行かれてしまった間抜けな男は、一体どんな表情を浮かべたらいいのだろう。

 でも、何を考えてもどうすることもできなくて。もやもやした気持ちを抱えたままここを立ち去るしかなかった。彼女の劇場関連のことなら仕方ないと、自分に言い訳するように言い聞かせて。

 先ほどまで浮かれていた自分が、昨日無理して多めに仕事を終えておいた自分が、馬鹿みたいに思えて情けなかった。


 結論から言うと、天崎の熱心な直談判の結果、彼の希望通り椿月が相手役を務めることになった。稽古が始まってから配役を変えるのはめったにないことだが、主役を張る俳優がどうしてもと言うのなら仕方がない。しかもその人は、他劇場の看板俳優という大事な客人なのだ。

 もちろん、椿月の意志も確認した。天崎に席を外してもらい、館長と椿月の二人できちんと話した。

 椿月としても、館長が天崎に対して断りにくい立場だということは分かっている。だから、これも自分を成長させる良い機会だと前向きに受け入れた。前々から、いずれ転機が必要だとは思っていたのだ。これからのことを考えたら、いつまでも悪女の役だけをやっているわけにはいかない。

 そういう経緯で、椿月は素の姿で初めて稽古に参加した。

 以前に一度、自分の好きなように脚本・演出させてもらった劇があったが、あれはその時限りの無名役者として特別に出演させてもらっただけ。

 あの悪女役でおなじみの彼女が本当はこのような姿をしていて、女優“椿月”としてヒロイン役を務めるのは初めてのことだった。

 椿月は身支度の姿を他の者にほとんど見せることがなく、彼女の正体を知る者は、誠一郎以外だと、親代わりの館長と、同期の神矢、あとはほんのわずかな劇場関係者くらいしかいない。

 当然、周囲は驚きを隠せなかった。

 しかし、それよりももっと彼女が周囲を驚かせたのは、その演技の幅だった。

 これまで悪女役ばかりやっていたとは思えないほど、素の姿に近い娘役が、その見た目も相まって非常に様になっていた。そういう意味では、たしかに天崎の見る目に間違いはなかったのだろう。

 周りは、「どうして今までああいう役だけをやっていたの?」と、休憩時間など事あるごとに尋ねていた。椿月からすると、それはこれまでの流れでなんとなくそうなっていた、としか言いようがないのだが。

 結果として、彼女が新たな段階に踏み出すにはちょうど良い時期だったのだろう。

 相手役に強く推薦した天崎も、稽古の度に自分の判断の正しさを肌で感じ、満足していた。自分もまた、彼女という相手役を得て、いつも以上の力を発揮できていることを実感している。

 けれど。天崎には唯一、不満なことがあった。

 稽古の合間の短い休憩中に、椿月にたびたび会いに来る地味な男。お洒落とは対極にある垢抜けない丸眼鏡に、古臭い着物。平均的な男性より勝(まさ)っているところといえば、多少人より上背があるくらい。

 そのくらいのぼんやりとした認識だったが、天崎は彼に良い印象をいだいていなかった。はじめはその不快感が何なのか、天崎本人にもよく分かっていなかった。

 周りの人間に聞くと、どうやら彼は椿月の付き人や使用人などではないらしい。ひょんなことからこの劇場に関わりを持ち、それから定期的に彼女に会いに来ているそうだ。

 地元劇場の看板を務めるような人気役者である天崎。今まであんな男を視界に入れ、疎ましく思ったことなどなかったのだが、彼の心の中に説明のつかない不愉快さが確かにある。

 そんな気持ちを抱えていた折。天崎が百貨店に一人、仕立てたスーツを受け取りに行った時のこと。

 ふと目にした、陳列棚に展示されていたゴールドのネックレス。宝石があしらわれたそれは豪華で美しく、きっと椿月に似合うだろうなと思い、気づいたら「それも包んでくれ」と言っていた。

 後日、劇場の稽古で会ったときに、天崎はそれを椿月に渡した。

「私の大事な相手役だから。これからよろしく頼む」

 と、それらしい言葉を添えて。

 しかし、予想に反し、椿月は喜ぶわけでもなくただ焦っていた。

「こ、こんな高価なものいただけません……!」

 天崎からすると、派手な役者業界の中で彼女の考えはとても慎ましやかなようだった。普段も目立つ装飾品といえば古風なかんざしを一つ挿しているくらい。

 次第に天崎は、どうしたら彼女が純粋に喜んで受け取ってくれるかを考えるようになっていた。

 装飾品がだめならば、洋服はどうだろう。置物や調度品はどうだろう。高価な洋菓子はどうだろう。

 次から次へと贈られる高価な品物。椿月は困っていたが、彼女以外の周りの人間には感付くものがあった。そしてその積極的なアプローチをおかしいと思われないくらい、今の素の姿の椿月は女性として成熟する手前の瑞々しい魅力を持ち合わせていた。まだ誰の手にも落ちることのない、木に生った赤い果実。

 だが、天崎は次第に気づいていく。自分の感じる不愉快さの正体に。

 椿月があの男と話している時の表情が、どうしようもなく嫌なのだ。

 時折頬を赤らめ、困ったように眉を下げてみせたり。かと思えば可愛らしく唇をとがらせたり。無上のほほえみを浴びせたり。彼女は彼といるとき特に饒舌で。隠そうとしても出てしまう少女の無垢さと、純真なときめき。出ていることにも気づいていない、女の色香と巧みさ。

 その眼差しが自分に向けられない理由に気づいた天崎は、自分の嫉妬に気づかないまま、さも常識知らずをたしなめるかのように、いつものように劇場を訪れた誠一郎を捉まえてこう告げた。

「君。椿月くんは今、新しい役に挑戦しようとしている。悪女の役を演じるのとは訳が違うんだ。君が何度も会いに来ていては、役者として気持ちの切り替えが大変なんだよ。彼女は今、私だけに恋をしなければならないのだから」

 誠一郎は演劇のことなどまったくの門外漢だ。いつもと変わらない表情の変化に乏しい顔の下で、気づいていなかった自分の至らぬ点の指摘に衝撃を受けつつ、最後の一言には少し引っ掛かりを覚えた。

「今、彼女は心から私の恋人になる必要がある。他の男がたびたび会いに来ていては、彼女の役作りを妨げるとは思わないかね?」

 いかにももっともらしい理由。同業者が聞いたら苦笑いしそうな理論だったが、役者業界に無知な誠一郎に付け込むには十分なものだった。

 最後に天崎は、確認するように問いかける。

「別に、彼女の恋人などではないのだろう?」

「……はい」

 誠一郎はそれを認める返事をするしかない。

 まったくもって天崎の言う通りなのだ。

 定期的に会う約束はするし、間接的にだが贈り物もした。勇気を振り絞って手を握ったこともあるし、彼女をつい腕の中に抱きしめてしまったこともある。でも、別に何を契ったわけでもない。

 この劇場の大事な客人である他劇場の看板役者に、見栄えの良くない駆け出しの無名作家が何を言えるだろうか。こうして目の前に立たされているだけで、そのあまりの差に惨めな気持ちがするくらいなのに。

 普段ならこういうことは神矢に相談するのだが、あいにく彼は天崎と入れ替わりで他劇場に行っていて不在。

 だから、誠一郎は自分だけの判断で、椿月に会いに劇場へ行くことをやめた。それも何もかも、彼女のため、彼女の舞台の成功のためと思って。

 何の事前連絡もなく、突然パタリと会いに来なくなった誠一郎のことを、椿月はもどかしく思っていた。以前なら、長く会いに来られないときは「しばらく会いに来られません」などと予め言ってくれていたのに。

 また体調不良で寝込んでいるのではないかと不安に駆られたが、館長から「深沢くんはきっと原稿で忙しいんだろう」と聞かされた。

 実と言うと館長は察するところがあったのだが、天崎の手前、自分の勝手な憶測を吹聴するのははばかられた。自分の娘の胸にある誠一郎への想いには、以前から何となく気づいてはいたのだけれど。

 椿月は誠一郎の家に行ったことがあるし、場所は分かっているのだけれど、連日の稽古で訪ねる時間はとても作れそうにない。前に二人で出かけようと街中で待ち合わせた時は、本当に貴重な半日休みだったのだ。それも結局は、二人のものではなくなってしまったのだが。

 せめて誰かに相談したり不安な気持ちを話したりしたいものなのだが、いつもなんだかんだ言いながらその役を担ってくれていた神矢は、他劇場に出張中。

 だから椿月はここ最近の稽古の合間はもっぱら、ため息をつき、ぼうっとして、窓辺で憂いの表情を浮かべていることが多くなった。それはまさしく恋煩いの典型のような姿だった。

 天崎はそんな椿月を見かねて、彼女をディナーに誘った。

 劇場や館長の手前、断れるわけもなく。椿月はドレスで着飾り、天崎の寄越した迎えの車に乗って高級レストランへ向かった。

 洋館をそのまま店として使っている、洒落た店内。夜だけ営業するため、大人のための瀟洒(しょうしゃ)な趣に特化している。

 敷き詰められた厚みのある赤絨毯。テーブルには炎が揺らめくロウソク。明るすぎない落ち着いた店内。少人数楽団の前に出すぎない演奏が、食事を楽しむ人々の雰囲気を静かに盛り上げる。

 スラックスが映える長い脚で、椿月を座席にエスコートする天崎。

 対する椿月も、タイトな赤いドレスが普段の着物姿を忘れさせるくらいとてもよく似合っている。金のバレッタで髪をまとめ上げてすっきりした首筋が、外套を脱いで露出された両肩にかけて、柔らかい曲線をえがく。悪女役の時とはまた違う美しさがあった。

 周りの人々が思わずちらりと視界にとらえてしまうほど、絵になる二人だった。

 向い合って座った二人は、グラスを目の高さに上げて乾杯した。

 堅苦しいテーブルマナーも天崎は優雅に行う。椿月も一応教養として一通り覚えてはいるので問題はないのだが、肩が凝るような感覚がする。

 天崎は食前酒のシャンパーニュを楽しみ、後にワインに切り替えた。見た目も華やかなつき出しと前菜で、テーブルが彩られていく。

 十分に雰囲気が作られてきたところで、天崎は椿月に言った。

「君はそのままの姿が一番美しい」

 整った唇から白い歯をこぼし、まっすぐに彼女を見据えて。

 見つめる先の椿月の姿をとらえて、天崎は思う。彼女にもっとドレスや宝石を贈りたい。街中を見ていると、彼女はきっとこれが似合うだろうと考えることが多い。自分の白いスーツと並んで映える洋服を、選んでやりたいと思う。

 椿月は「ありがとうございます」とだけ答えた。

 その顔に一瞬にじんだ困ったような表情と、事務的で無感動な言葉の響きから、天崎は自分の言葉が彼女の心の奥にまでは届いていないことが分かる。

 だから、それらしい言葉で彼女の心を開こうとする。

「……椿月くん。君は最近、どこか上の空なことが多いと周囲から聞く。稽古の時は集中できているから構わないとは思うのだが、普段の自己管理も役者の仕事だ。悩んでいることがあるなら、一人で抱え込まずに近くの人間を頼るのも大事だ。違うかね?」

「あ……はい」

 椿月の返事が一瞬遅れたのは、不意に天崎が手を伸ばして、テーブルの上の自分の手に、覆うようにして彼の手を重ねてきたからだ。

 大きくて男らしい手。

 でも、ときめかない。手に触れられている時でさえ、別の人の手のことを考えている。これがまさに恋煩いなのだろうけれど、まだ年若い彼女にはそれがよく分かってはいなかった。

 椿月は重ねられた手に向けていた視線を持ち上げると、気になっていたことを口にする。

「あの、天崎さん……。どうして私をお食事に誘ってくださったんですか?」

 周囲からは一目瞭然な事実も、当事者となると途端に勘が鈍くなるらしい。

 答えを求める澄んだ瞳に、天崎は言った。

「二人の時は忍と呼んでくれないか」

 言葉を求める熱い眼差しに抗えず、椿月はぎこちなくその名をなぞった。

「し……忍、さん」

 きっとこれは、普通の女性にとっては夢のような時間なのだろう。雰囲気のある高級なレストランで、誰もが惹かれる男にエスコートを受け、見つめ合う。

 でも椿月は天崎を目の前に、彼の名前を呼びながら、意識はどうしても違うところに行ってしまっていた。

 誠一郎さん、今頃どうしてるのかな。おうちで一人でご飯を食べてるのかな。具合を悪くしてたりしないかな。

 その後も何度か天崎に食事に誘われたが、椿月は館長に頼んで夜に発声などの個人指導を入れてもらうことで理由を作って断っていた。

 すると今度は、劇場内に併設されている専用食堂でのお茶にしょっちゅう誘われるようになってしまった。

 稽古の都合上、二人の休憩時間が一緒になることがほとんどなので、必然的に頻度も多くなる。

 椿月としては、こう何度も同席していては天崎に変な噂が立って誤解されてしまうかもしれないと懸念していた。周りは天崎の気持ちなどとっくに察していたので、それは椿月の杞憂に過ぎなかったのだが。

 だから最近は、誘いをかわすために部屋の扉をたたく音に気づいていないふりをすることも増えた。

 もともと各部屋の作りがしっかりているので、廊下の物音も聞こえにくい。本読みに集中していて気がつかなかったなどというのはよくあることだった。

 今日も椿月は、短い休憩時間に自分にあてがわれた部屋にこもっていた。

 窓から外をのぞくと、曇天の下、すっかり葉がカサカサになった木や裸になった枝が見える。道を行く厚着の人々の息は白く、打ち付ける乾燥した冷たい風に身を縮こまらせ、否が応でもその歩みを速めさせられている。

 誠一郎は今日も会いに来ない。もうどのくらい顔を見ていないだろう。

 往来を行き交う人の中に、自然とその姿を探してしまう。

 館長はきっと仕事が忙しいんだろうと言っていたけれど、本当にそうなのだろうか。また病気で寝込んでいたりして。そうしたらまた、家事の上手な見知らぬ女の子が看病していたりしないだろうか。

 もしかして、自分のことはもう気にならなくなってしまったのか。会いに来るという優先順位が下がったから姿を見せなくなってしまったのか。それはもちろん、自分たちは交際しているわけでも何でもないのだから、彼を責める資格などないとは分かっているのだけれど。

 何となく息が苦しくて椅子に座ったけれど、その苦しさはまだ変わらない。胸がきゅっと痛い。

 様子を見に行きたいけれど、夜まで稽古が入っていて、誠一郎の家を往復する時間は取れそうにない。

 お手紙でも書こうかしら、とぼんやり考え始めた時だった。

 コンコンと、小さなノックの音がした。

 いつものように、申し訳ないとは思いつつ無視しようと思ったのだが。

 扉越しでくぐもった、まさかの声が聞こえてきた。

「――深沢です」

 椿月は反動で椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がった。

「誠一郎さん……?!」

 だが。勢いよく扉を開いた椿月の前にいたのは天崎で、一歩部屋に踏み込むと、ドアが閉まる音と同時に強く胸に抱きすくめられていた。

 突然のことに思考と動きが止まってしまった椿月に、天崎はその低い声で耳元にささやく。

「君は、あの男を好いているのか?」

 本当ならきっと、とてもときめく場面なのだろう。天崎ほどの男に抱きしめられるなんて。

 でも。

「離してください……。お願いします」

 驚いたのはもちろんだけれど、それ以上に落胆した気持ちがあって。椿月は先ほどまでの胸の高鳴りが醒めていくのを感じていた。

「こんなところを見られたら、皆さんびっくりしてしまいますから……」

 表現を選んで、彼の行動を遠回しにたしなめる。

 他の男性に抱きしめられている時にさえ、考えていることは一つだけ。

 椿月は一番会いたい人に会えない心の切なさが決壊したのが分かった。


 一方、その頃の誠一郎はというと。

 劇場を訪ねられない時期が長くなるにつれ、なんとか一目だけでも会えないかと、手紙でも書こうかと便箋を引っ張り出していた。

『――お変わりありませんか。寒さの厳しい日が続きますが、お風邪を召されてはいませんか』

『もし許されるならば、一目貴女にお会いしたく……』

 そこまで書いて、いや、やはり迷惑だろうかと、ため息とともに書いた文を消した。

 同業のプロがああ言っていたのだから。彼女の大事な“椿月”名義としての、初めての素の姿の舞台を邪魔してはならない。

 会いたい人に会えない苦しさで、胸が痛い。こんな種類の痛みがあるなんて、誠一郎は初めて知った。

 だから、ただ筆を執る。

 彼女も舞台のために稽古を頑張っているのだから。彼女はいつも自分のことを、「頑張って」と笑って応援してくれているのだから。この辛い気持ちも全部作品にぶつけよう。

 便箋を探していたときに、夏の盛りに書いた手紙を見つけた。今はあの時とは違うのだ。別に心が致命的に離れてしまっているわけではない。彼女に拒絶されたわけでも、永遠に会えなくなったわけでもない。彼女の今の舞台が落ち着いたら、きっとまた二人でゆっくり会える日がくる。それを心の支えに。

 でも。もし彼女が素の姿で売れっ子の女優になったら、以前のように何度も会いに行ったり、堂々と二人で歩いたりすることは出来なくなってしまうのだろうか。

 それどころか、今回のような舞台が連続して続くとなったら、会いに行くことはこれからもずっと難しくなってしまうのだろうか。今のような会えない状態がずっと続いてしまうのだろうか。そして自分のことなど忘れてしまうのではないだろうか。

 彼女が好きな演劇の世界で、女優として活躍することはとても喜ばしいことのはずなのに。それを素直に喜べないでいる自己中心的な自分の考えが垣間見えたことにも気が滅入った。

 誠一郎は気分転換に文机を離れると、貴重品入れとして使っている戸棚からあるものを取り出した。

 それは、自分の手を心配して椿月が贈ってくれたクリーム。婦女子が好みそうな可愛らしい装飾の箱に入っている。

 あれ以来もったいなくて一度も使っていなかったのだが、無聊の慰みに初めて自分で蓋を開けてみる。

 不慣れなためか、はたまた自分では上手く出来ないからなのか。自分で塗ってみても椿月がしてくれた時のようにはならない。あの時は手全体が温かくなり、清楚で爽やかでありながら芳醇な花の香りに、胸が満たされたのに。

 正直、通常の心持ちであれば自分でこんなことはしなかっただろう。でも、血迷うくらいには、心にぽっかりと穴が開いたようだった。

 会いたい。少し声を聞くだけでもいいから。

 それから。ただの何でもない自分が、これからも堂々と彼女に会いに行けるのか。その未来を確かめることも不安だった。

 心にわだかまりを抱えた、ある日の朝のこと。

 朝というには遅すぎる時間に起床した誠一郎が、障子越しに差し込む光がまぶしいと思って、寝巻に羽織を肩にかけ廊下に出てみると、外にははらはらと雪が舞っていた。

 地面に目をやると、うっすらとだがすでに積もり始めているようだ。

 ついに今年の初雪が来たか、と曇り空を仰ぐ。時期としてはそろそろ降雪があってもおかしくはないと思っていたが。

 雪が音を吸い込むのか、いつにも増して静かだと思った。キンと冷えた空気を味わいながら換気をする。

 一段と手足が冷える。炭を熱し、火桶を文机の傍に置いた。

 殺風景な庭を彩る雪景色を横目に、原稿に取り組んで、詰まったら少し休憩。

 朝から変わらぬ勢いで降り続く雪に、この初雪は大層積もるだろうと他人事のように思う。仕事柄、長く家に引きこもることができる人間の強みだった。

 椿月に会えない日々は見てくれもなおいっそう気にかけないので、ぼさぼさの髪を時折がしがしと掻きながら、一文一文と格闘するいつも通りの静かな時間が過ぎる。

 気づけば夕刻も近づきつつあり、日が沈むだろうかという頃。空に敷き詰められた灰色の雲は夕暮れの橙色すら見せず、時間の経過を錯覚させる。

 誠一郎は休憩がてら、雪景色を楽しみながら縁側で煙管を吸ってぼうっとしていた。雪は朝よりも密度を増して降り続き、地面に厚く積もっている。明朝の雪かきは免れないな、などと考えていた時。

 戸を開けるカラカラという音と共に、聞こえてくるはずのない声が聞こえてきた。

「ごめんください」

 まさかの声に慌てて立ち上がり、急いで声の元へ行こうとして、出していた煙草盆の角に思いきり足の小指をぶつけた。全身の力が抜けるほどの痛みにぐっと耐えてから、器用に片足だけに体重を乗せながら玄関へ向かう。

 そこにいたのは、やはり。

「椿月さん……?!」

 幻でも何でもなく、椿月本人がそこにいた。薄い桃色の着物姿で、しっかり防寒具を身に着けて。

 一瞬夢かとも思ったが、夢だとしたらこんなに足の指がジンジン痛むはずがない。

「あの……急に来ちゃってごめんなさい。上がらせてもらっても大丈夫かしら?」

 遠慮がちにあごを引いてまばたきをする椿月。長い下ろし髪がさらりと肩をすべる。

 こんな雪の日に、椿月は約束もなく誠一郎の家を訪れた。それもこれも、稽古の合間を縫うとなるとこの日の夕刻以降しか空き時間がなかったからだ。

 ふと視線を下に落とした誠一郎が、椿月の着物の膝から下についた雪と土に目をに留める。

 その視線に気づいた椿月が、

「あ、何度か雪に足を取られて転んじゃって……」

 と、恥ずかしそうに弁明する。

 誠一郎は急いで室内へ促した。

 すぐに火桶のそばに彼女を招く。

 雪の水分と寒さで真っ赤になった彼女の細い指先が、一生懸命すり合わされている。

 火桶で暖を取りながら、しばらくすると。椿月がいたずらっ子のように拗ねた顔を見せた。

「会いたくて、来ちゃった。誠一郎さん、最近全然会いに来てくれないんだもの。そんなに忙しいの? 具合悪くしたりしてない?」

 そう尋ねる彼女に、誠一郎は自分の考えていたことを説明するのだが。

「あ……その。実は、椿月さんの役作りの邪魔になってはいけないと思いまして……自分なりに考えていたんですが……」

 椿月はきょとんとした顔で小首をかしげている。

 そのピンときていない表情を見ていると、自分は見当違いな気遣いをしていたのだろうかと不安になってくる。

 誠一郎が渡した手拭で、椿月は雪で湿った髪を拭う。

 久々にそばで感じる互いの香り。本当は久しぶりに会えた喜びと会えなかった恋しさで抱き着きたいくらいだったけれど、衝動のままにそんなことをしてはいけないとぐっと我慢していた。双方共に。

「最近は毎日、朝から晩まで一日中何かしらの稽古がみっちり入ってるの。でも今日の夕方以降は珍しく空いてたから」

 そう理由を話しながら身だしなみを整え終えた椿月が、誠一郎の目を見てほほえむ。

 久しぶりに見る彼女は、そんなに長い間が空いた訳でもないのになんだか大人びて見える。もしや自分が知る彼女から変わってしまったのではないかと不安に思うくらい。

 でも、その緊張は彼女も同じように感じていることで。

 探り合うような、差し障りのない会話から始まって、いつもの感覚を取り戻していこうとする。

「朝からすごい雪よね」

 彼女の言葉に外に目をやるが、雪景色が見えるはずのガラス張りの窓は手垢で曇っている。普段からきれいにしておけばよかった、と誠一郎が後悔すると同時に、椿月が窓ににじり寄ってはぁっと息を吹きかける。借りていた手拭で拭いてくれて、雪の庭が見えた。椿月が「見て」とでも言うようにほほえみかける。見事に真っ白だ。

 誠一郎は一瞬、まるで二人で暮らしているみたいだ、などと邪念が頭に降ってきたので、さりげない咳払いで思考を振り払う。

 二人はすぐに、会えなかった時間を埋めあうように色んなお喋りを重ねた。そのほとんどが、椿月が話し、誠一郎が聞く、椿月が質問し、誠一郎が答える、といったものだったのだが。それでも二人はこの時間を何物にも代えがたい幸せなものだと感じていた。

 不意に誠一郎がくもったレンズを拭こうと眼鏡を外した時、椿月が首をひねりながら尋ねた。

「あら……? 誠一郎さん、誰かに似てるって言われたことない?」

 そんなことは一度も言われたことがないので、胸中では困惑しながらも「いえ、特には」と答える。

 考え続けていた椿月も、誰に似ている気がしたのかよく思い出せなかったようで、気のせいかもしれないと思い直した。

 するとその時、椿月は机の上にあるものを見つけた。

「あっ。使ってくれてるのね。嬉しい」

 そう笑顔で取り上げたのは、あれから出しっぱなしにしていたクリームの小瓶だった。もったいなくてほとんど使えず、会えない間に一度手にしたくらいだったのだが。

 こんな機会でもなければ言えなかっただろう。誠一郎は勇気を出してこう口にした。

「これを……また塗っていただけませんか?」

 椿月は少し恥ずかしそうにしながらも、「いいわよ」とうなずいてくれた。

 たおやかな所作で、指先を滑らせるようにクリームを取ると、手になじませる。

 彼女の両の手が、彼の手に触れる。

 彼女の滑らかな手に包まれると、幸福感が全身を充たす。のばしたクリームをさするように馴染ませてくれる動作、触れる指先が心地よく、ずっとこうしていてもらうにはどう言い訳したら良いだろうかなどと真剣に考えてしまう。

 すると椿月が、思わぬことを言ってきた。恥ずかしそうに、上目遣いに。

「……誠一郎さんも、私に塗って?」

 誠一郎は驚いて答える。

「椿月さんのように上手には出来ません」

「こんなことに、上手い下手なんてないわ」

 椿月はおかしなことだと笑うけれど、誠一郎としては上手い下手は大いにあると思う。

 自分もクリームを手に取って伸ばし、彼女の手を握ってみた。

 椿月の手は思っていた以上に小さく、細くて薄い。その白魚のような手指は、柔らかく繊細すぎて、力の入れ具合がよく分からない。

 椿月はたまらず言う。

「そんな、ほんの少しだけ触れるような触り方、くすぐったいわ」

「す、すみません」

 そう言われて、しっかりと手を握る。こうしてちゃんと、女性の手をベタベタと触ることなど人生で初めてのことで。白くて柔らかいそれが同じ人間のものとは思えず、改めて彼女が自分とは違う性別の人間なのだということを感じた。


 日が暮れ、電気を頼るようになった頃。

 誠一郎が外の様子を見に行くが、近年稀に見る大雪はいまだ止む気配すら見せない。

 暗くなっているため帰りは送るつもりだったが、家の前の通りからなんとか先に出てみるも、積雪がひどく視界も悪く、何度も雪に足を取られそうになる。住宅街から大通りに出るだけでも、男の足でも一苦労。椿月を連れて無事に家まで送り届けるのは、難しいと言わざるを得ない。

 外から戻ってきた誠一郎は、髪や服に積もった雪をはたいて落とし、玄関で出迎えてくれた椿月にこう訊いた。

「うちに来ていることは、館長はご存じですか?」

「あ……誰にも言って来てないの。どうしましょう……」

 椿月としては黙って抜け出してこっそり戻るつもりだった。雪がここまでひどくなると思っていなかった。

 彼女の父親代わりである館長も、きっと心配しているだろう。

 誠一郎は少し思案して、彼女に提案した。

「……大家の方のお宅がすぐ近所にあるので、そこで電話を借りてきます。とりあえず、椿月さんが今は無事でうちにいることを館長に伝えます」

「なら私も一緒に」

 そう言い出した彼女の言葉をさえぎって、誠一郎は言う。

「あ、いえ……。椿月さんは家で待っていてください」

 普段彼女の申し出を断ることなどめったにない彼が、なぜかそこは譲らなかった。

 すごい大雪であるし、心配をしてくれているのかしらと思い、椿月はそれを了承した。

 戻ってきた足でそのまま出ていく誠一郎を、

「行ってらっしゃい、気をつけてね」

 と、玄関で見送る。

 まるで夫婦のようだ、と心の中でむずがゆく思ったのは、誠一郎だけではなかった。

 しばらくして戻ってきた誠一郎は、荷物を持ってすぐに大家宅と自宅を二往復した。

 最初は客用布団と女物の寝巻。次は膳。

「まあ、どうしたの?」

 ずっと玄関で待っていた椿月は、彼が雪の中持ってきた大荷物に瞳をパチパチとさせる。

 誠一郎は少し言いにくそうに、それでも努めて事実だけを伝えるように言う。

「館長とは電話で話せました。今この天候で無理に帰すのは危ないので、出来たら一晩置いてやってくれないかと言われて……。その話をしたら、大家夫妻が色々と貸してくれました。いつも食事をよく分けていただくんですが、今夜も二人分くらいならと快くいただけました」

 まさかの事態に少々赤面して驚きつつ、椿月は道理のようにこう申し出る。

「そ、そうなの……。あっ、私もご夫妻にお礼を言いに行きたいわ」

「……僕がちゃんと伝えましたので、お気になさらないでください」

 至極当然の希望も、誠一郎は柔らかい口調ながら頑なに同行させることを拒否する。

 椿月は不思議に思ったけれど、玄関で大荷物を抱えている誠一郎をこのままにはしておけず、とりあえず二人で室内へ向かった。

 客用布団を貸してもらったのは大正解で、誠一郎は自分の布団以外まともに用意をしていないし、押し入れに押し込みっぱなしの布団はもうどのくらい日を浴びていないか分からず、出すことすら恐ろしい。

 誠一郎は椿月に自分の寝室を譲った。

 もちろん彼女は遠慮したが、他の部屋は広すぎたり、外に近すぎたり、ちゃんと全ての戸を閉めることができなかったり、あまりに掃除が行き届いていないため、ここくらいしか彼女に使ってもらえそうな部屋はなかったのだ。もちろんここも、お世辞にも掃除が行き届いているとは言えないのだが。何分急なことなので致し方ない。誠一郎は居間でもどこでも寝られるので、横になれさえすれば適当な場所で構わなかった。

 また、女物の寝巻も押し付けられるように渡されたのだが、それも今となっては正解だったと誠一郎は思う。

 使っていない、洗濯された自分の男物の寝巻を使ってもらえばいいかと思っていた。しかしよく考えてみたら身長や体格が違いすぎて、椿月にはとても着られそうにない。着崩れどころでは済まないと思う。

 女性を家に泊めるということでものすごく驚かれ、それなりに恥ずかしい思いもしたのだが、結果的に相談して良かったと思う。

 寝床を整えたあと、分けてもらった夕飯を二人で食べた。

「ちゃんとお膳まで用意してくださるなんて、とても親切な方々なのね……」

 思わぬ厚遇に驚く椿月に、「たしかにそうですね」と誠一郎も認める。普段恵んでもらう時のほとんどは丼でご馳走になるのだが、ご婦人がいるのならと張り切られて特別な気遣いをされたのは黙っておいた。

 椿月は食事を共にしながら、誠一郎が男性にしてはきれいな食べ方をしていることに気がついた。考えてみれば、二人できちんとした食事をするのはこれが初めて。神矢とは何度か劇場の食堂などで同席したことはあるが、あの神矢でもかきこむように早食いすることもままあるので、男の人というのは皆そういうものなのかと思っていた。

「誠一郎さん、お箸が上手ね」

 普段はめったに人に感心してもらえることなどない誠一郎だったが、まさか椿月に箸使いを褒められるとは思ってもいなかった。

 いつもと変わらない表情づくりの苦手な顔に、出来る限りの苦笑をにじませる。

「こんなことばかり器用で」

 そう言って椀の中の小さな豆を、流れるような動作で一発でつかんでみせる。

 椿月は「すごいわ」と目を丸くして感嘆していた。

 こんなたわいないことを話しているだけで、椿月は自分の心がじんわり幸福を覚えているのを感じていた。あの高級レストランとは、場所も環境も、食べているものだって全然違うのに。あの夜とはまったく違う。心の底から素直に楽しいと思っているし、今の時間がずっと続けばいいのにな、と思う。

 食事を終えると、大したお礼にもならないけれどと思いつつ、椿月が食器をきれいに洗った。

 実を言うと、彼女は家事の類があまり得意ではない。幼少の頃から演劇のことばかりで、料理などは自信がないことが多く、見栄も大いに込めてなんとか人並みと言えるくらい。

 だが、彼女にも演劇に触れる前の人生がある。捨て子だった彼女は物心ついた頃にはもう拾ってもらった奉公先にいて、そのお屋敷の使用人のそのまたお手伝いのようなことを、住み込みでさせてもらっていた。一人前の使用人として扱われていなかったのは、まだ幼かったため難しい仕事が出来なかったからだろう。

 今改めて考えてみると、大した労働力にもならないそんな小さな子供を、よく家に置いてくれていたものだと椿月は思う。

 そんな幼い彼女が任されていたのは、誰にでもできる簡単で単純な仕事。食器洗いだけは昔からよくやっていたのだ。汚れが残らないようにピカピカに磨き上げる。漆塗りの重箱は指をこすると音が鳴るくらい、と子供にも分かりやすいように教えられたのは今でも覚えている。

 でも、そこまで思い出してから、意識的に考えるのをやめた。

 そう、この記憶の糸をたどれば、行きつくのはあの辛い思い出。思い出さないように努めて、こうやって何とか記憶に蓋をしてきたのだから。

 いつか、そんなこともあったな、と笑って振り返れるまで。辛い記憶は封印しておくのだ。

 食器洗いを終えると、譲ってもらった寝室で寝巻に着替えてみた。大家夫妻の奥さんの昔の寝巻だというが、椿月の体にぴったりだった。

 居間に戻ると、電灯の一つの明かりが夜の薄闇を散らしていた。

 しばらくして、家中の雨戸を閉め終えた誠一郎が戻ってきた。椿月に寝巻が合ったことにほっとしつつ、あまりじろじろと見るのは失礼かと思い、視線を逸らす。

 それから、

「寒くありませんか?」

 と気づいて、自分の着ていた羽織を脱いで勧めた。

 お礼を言って遠慮なく椿月が羽織ると、布地に彼の体温が残っていてほんのり温かい。袖を通すとぶかぶか過ぎたので、肩にかけて指先で支えた。

 椿月は寝巻に着替える際に、いつも下ろし髪に結っているリボンを解いていた。見慣れぬその下ろしただけの長い髪に、誠一郎は彼女がいつもよりも無防備な姿をさらしているように感じられる。

 眠ってしまうのがもったいなくて、というよりすぐには眠れそうになくて、二人はそこに腰を落ち着けて、いろんなおしゃべりをした。

 大した話ではないけれど、夜の時間を二人でのんびり過ごせるなんてめったにないことだから。こんなに長くいられる貴重な時間。今までや、これまでの分ももっと話していたい、と思った。

 いつも話す時とは違う明るさ、時間帯、服装、場所、静けさ。

 はじめは緊張を悟られないように、少しドキドキしながら話していたけれど。次第にいつもの調子になれる。

「……大家さん、いつもご飯のこと気にかけてくださるなんて良い方ね」

 椿月はそう言って誠一郎にほほえみかける。

「そうですね。僕の祖父母に昔世話になったというご縁があったそうで、ご厚意で安く家を借りさせてもらっているんですが、僕のこともいろいろと子供のように気にかけてくれているんです」

 だからこそ、女性が泊まることになったなどという話になったときは結構な騒ぎだったのだが。

「あ。小説の調子はどうなの?」

「頑張っています。……でも、椿月さんに読んでもらうのはまだ少し待っていただけますか」

 そう言われて、椿月は仕方なさそうに苦笑する。

 誠一郎は以前から、椿月にはまだ自分の作品を読まないでほしいと伝えてある。自分の書く小説が、自分の心や哲学を反映したものであるがゆえに、どうにも気恥ずかしさが拭えなかった。その抵抗を払拭できるくらい読んでほしいと思える作品を書き上げることが出来たら、とは思ってはいるのだが。

「いいわ。待ってるから、ずっと」

 椿月はそう、笑うように言う。

 ずっと、というのがいつまでなのか。誠一郎の胸に永遠を意識する言葉が広がる。

「そういえば、神矢さんはまだしばらくは劇場にいないんですか?」

 ふと思い出したことを尋ねる誠一郎。神矢がいないとなんだかんだ相談役に困るのは、二人とも一緒だ。

「ええ。期間中はあちらにずっとお世話になっているから、戻らないようなの。すごく重責を感じていると思うわ……。でもきっと、辰巳なら大丈夫よ。それに、自信家だからこのくらいの重圧がちょうどいいかもしれないわ」

 と、冗談っぽく言って笑ってみせる。

 誠一郎もつられて自分の口元がゆるむのを感じた。

「私の今の役ね……。そのままの姿での演技って本当に久しぶりなの。誠一郎さんが最初に見に来てくれた時以来かな。あれもかなり珍しいことだったのよ。あの時はよそから来た無名役者っていう扱いだったんだけど」

 椿月が過去を思い出しながら語る。

 そういえばあの時は、椿月の誘いを一度断っていたのだ。今の誠一郎が考えると信じられないことなのだが。でもあの時は、こんなに苦しいくらい彼女に惹かれてしまうことになるなんて思いもしなかったのだ。

「私も頑張るからね……」

 寒いから、を理由に自然と二人の距離が近づく。椿月は彼の腕の傍らに身を寄せて、ぎゅっと袖をつかんだ。

 誠一郎はドキッとしたが、平然としたふりをして、「はい」とだけ答えた。

 距離が近くなって、椿月が顔を見上げて話すようになる。誠一郎もおのずと見下ろすような形になる。

 そばにいる相手が近すぎて、意識しすぎて、話している内容が遠くなる。

 今何を話しているんだろう。口から、頭の判断を待たずに言葉が出されている気がする。

 ほとんど一体と言えるような距離で、雪夜の寒さが言い訳になる。

 ふと途切れた会話のあと。二人は静かに見つめ合う。静寂を散らす言葉が出てこなくて。そのまま自然と顔が近づく。

 すんでのところで、アッとなる。

 あとほんのわずかで触れ合いそうな至近距離まで接近した二人を、誠一郎のかけていた眼鏡が当たって邪魔をしてしまった。

 その時にハッと我に返ってしまった。寸前でとどまれて良かったのかもしれない、という気持ちと、それ以上に占めるひどく残念だと、失敗したと思う気持ち。

 人と、女性と近づくときに眼鏡が邪魔になるなんて、そんなことはどこにも書いていなかったし誰にも教わっていない。きっと自分が人並みに経験を積んだ男だったなら、そんなことは自然と分かるんだろうけれど。

 椿月も同じくハッと気づき、今まさに起ころうとしていたことを意識して、恥ずかしくなり耳まで真っ赤になった顔を下に向けた。

 我に返った二人の接近はもう終わってしまったものかと思われた。

 でも。誠一郎は無粋な音をさせないように眼鏡をゆっくり外して床に置くと、うつむく彼女のあごに手を添えて、そっとこちらを見上げさせる。熱を湛えた椿月の顔が、再び誠一郎と向かい合う。

 夜の静けさと薄暗さが背中を押す。

 椿月が息もできないくらいの緊張のあまり何も言えず、何の身動きも出来ずにいると、そのまま誠一郎が自分から唇を重ねた。

 袖を通さずに肩にかけていた、彼から借りた羽織が、するりと滑り落ちる。

 初めてなのに、教わった訳でもないのに、自然とそうできた。そうすることがふさわしいとばかりに、体が動いた。

 椿月も緊張で体がこわばりながらも、初めての、互いの気持ちをたしかめ合うような、触れるだけの優しい口づけを受け入れる。

 どのくらいそうしていたのか。しばらくして誠一郎が唇をゆっくりと離す。

 椿月の唇から、小さな吐息がこぼれた。つぶっていた目をそっと開けていく。

 瞳に写る、自分を見つめる誠一郎は、火照ったみたいに、酔ったみたいに顔が赤らんでいる。椿月は、きっと自分も今同じような顔をしているんだろうなと、のぼせたような頭で思った。

「……すみません……」

 何をどう言えばいいか分からなくて、とりあえず出ただけの言葉だというのが分かる。

 愛を語り合った中でも、契り合った恋人でもなく、唇を重ねたのだから。

 でも、二人とも自然と惹かれ合って、そうしてしまった。それが道理であるかのように。

 椿月は全身が心臓になったみたいに、自分の動悸を感じる。緊張と興奮で口が乾いて、意識して唾を飲んだ。いつもはあんなにおしゃべりなはずなのに、言葉が喉からうまく出てこない。

 でも、だからこそ椿月は、恥ずかしさで視線を逸らしつつも、ぎこちないながらしっかり首を横に振った。嫌じゃない、と精一杯意思を示すために。

 すると再び彼の手が伸びてきて、また唇を奪われた。不意打ちと緊張で、「んっ……」と小さな声がもれてしまったけれど、先ほどよりも上手く受け止められたような気がする。自分の腕を力強くつかむ彼の片腕の裾を、ぎゅっと握った。

 他人の唇の感覚を自分の唇で感じたのなんて初めてで。しかもそれは、いつも自分に話しかけてくれる大事な人の唇。

 ただ唇を合わせているだけなのに、とても甘い。

 苦しいくらい、ドキドキが止まらない。切なさと気持ち良さが共存する、不思議な感覚。

 それは誠一郎も同じだった。

 椿月が首を振って示してくれた意思を理解すると、今まで感じたことのない衝動に突き動かされて、間髪入れず自分からまた唇を重ねてしまった。

 彼女の小さな唇は柔らかく、そのふにふにとした感覚をたしかめるように唇を動かすと、自然と彼女の吐息が漏れた。

 その可愛らしい声にたまらなくなって、本能のままにその柔らかさをもっと味わおうと唇を動かす。もっともっとと相手をむさぼっていくと、さらに深く奥へ追い求めた先、歯同士がカチリと当たってしまって、ハッと我に返った。

 気づけば自分の息さえもほんのり上がっていて、自分のむさぼるような口づけになんとか精一杯応えていた彼女も、同じく熱っぽい顔と湿った息をして、瞳をうるませてさえいた。

「す、すみません……」

 ようやく我に返った誠一郎が、無我夢中になり押し倒しかけてさえいた椿月から顔を離す。とっさに出た言葉は、今度こそ本当に心からの謝罪だった。

 荒くなる息を整えながら、赤面した顔で、椿月も「大丈夫……」となんとか答えた。

 互いに今したことがまだ認識として追い付いてこなくて、少し放心してしまってから、誠一郎は椿月を抱きしめた。

 こうしてしまった以上、順序はおかしいが、すべてを伝えるしかない。

「椿月さん……。少し長くかかるとは思うんですが、聞いていただけますか。僕の話を……」

 彼女の全身を後ろから抱くようにして、夜を語り明かす。初めて伝える、彼の気持ち。温かい腕の中で聞く、彼の想い。ついに伝えた、彼女の心。

 どれだけあなたが好きで、どれだけあなたに会いたくて、どれだけあなたのことを考えていて、どれだけあなたを想っているか。

 二人は気持ちを通わせ合うことが出来たあと、再び唇を重ねた。


 翌朝。

 譲ってもらった寝室で起床した椿月。外から鳥の声が聞こえていて、障子からまぶしい光が差し込んでいる。きっと雪が止んで晴れているのだろう。

 椿月は上半身を起こした後も、ぼうっとしたままでいた。

 初めてしてしまった、昨晩のあのこと。

 昨日の感覚を思い出して、指先を唇に触れさせる。

 私の見た夢ではないのよね、とたしかめるように。 

 一晩眠りを挟んでしまうと、なんだか夢の中の出来事だったような気さえしてしまう。明るく照らされる室内には、昨日の薄闇の名残の片鱗も見られない。

 椿月は寝室で簡単に身支度を整え、布団を畳んだ。出来る範囲でだが借りた部屋をきれいにして、廊下に出る。

 するとやはり外は見事に晴れていて、家を囲む築地の向こうには薄く淡い水色の空。庭の地面や植物には真っ白に積もった雪。朝の強い日差しを受けて、キラキラ輝いている。

 そんな美しい朝の景色に見とれていると、雨戸を開けて回っていた誠一郎と遭遇した。

 互いにハッとして、

「お、おはようございます」

「あっ……おはよう」

 と、気もそぞろな挨拶を交わしてしまう。

 何となく、相手の顔が見られない。

 誠一郎はたどたどしくも訊いた。

「あの……大丈夫でしたか?」

「えっ、あ、うん……」

 椿月には彼が一体何のことを指して大丈夫かと言っているのか分からなかった。

 人の家で眠れたかということなのか。部屋の寝心地は悪くなかったかということなのか。寒かったが大丈夫だったかということなのか。はたまた、気持ちを伝えあったことなのか。昨晩のあのことなのか。

 よく分からなかったが聞き返すのは恥ずかしかったので、反射的に「うん」と返してしまった。

 椿月は胸の前でぎゅっと両手を握って、自分たちが昨夜ついに恋人同士になったのだという事実を信じられない気持ちで思い出していた。

 会いたくても会えなかった、今までのことを考えると、嘘みたいで。

 交際しているということは、抱きついても許されるのかな。口づけをしても、良いはずなんだよね。恥ずかしくて自分からはとても出来ないけれど、などと、椿月の思考が忙しく飛び回る。

 色々考えてしまって、視線を逸らしたまま動きが止まってしまっていた。

 誠一郎も同じように思考に意識が行って動きが止まっていたので、お互い様ではあったのだが。

 目もろくに合わせられないままだったが、とりあえず誠一郎は椿月を洗面所に案内する。きっと女性は早く朝の身支度を済ませたいだろうと思って。

「この手拭を使ってください」

 清潔なものを取り出し、そう言って彼女に手渡した時。

 不意に指先が触れ合って、思わずはっと目を合わせて互いを直視してしまう。

 昨夜のことを思い出して、途端に顔が赤くなってしまう。自分は昨晩、この人と。

 誠一郎は自分が立ち去るしかないのだと気づき、「し、失礼します」とぎこちない身のこなしで洗面所を出て行った。ともすれば、慣れているはずの我が家で壁に正面から激突しそうになりながら。

 受け取った手拭を抱きしめたまま、赤面して固まってしまっていた椿月だったが、ようやく体の緊張が解けてくる。

 でも、気を抜くとまた色々思い出してしまいそうなので、いつもよりも気合を入れて、冷たい水で顔を洗った。

 椿月が身支度を終えて彼の元へ戻ると、外はすっかり雪が止んでいるようで、誠一郎は昨晩の食器を返すがてら朝食ももらってきてくれていた。

 椿月は今日こそお世話になったお礼を伝えに同行したいと言ったのだが、「雪が積もっていて危ないですから」とやはり頑なに断られた。どうせこれからすぐ出るのに、と不思議に思った。

 二人で食事をいただいて、椿月が食器をきれいに洗うと、もう家を出て劇場に向かわないといけない時刻だった。午前の稽古の準備をしなくてはならないし、雪道で普段よりも時間がかかるだろう。

 椿月が名残惜しそうに掛け時計を確認した眼差しをとらえると、

「お送りします」

 と言って、誠一郎も自分の外出用の羽織や防寒具を取りに自室に戻った。

 荷物をまとめて支度を終えると、椿月は玄関で振り返り、家に向かって、「お世話になりました」と頭を下げた。

 それを誠一郎が不思議そうに見ていると、「大家さんに言えない代わりに、おうちにお礼を言っておいたの」と軽く頬を膨らませて言われる。誠一郎は、「すみません……」と謝るしかない。

 一歩外に出ると、今までいた屋内とは別世界のような、深い雪の世界だった。一面真っ白でまぶしい。

 強い朝の陽ざしをもってしても厳しい刺すような冷気に包まれ、フワフワした夢見心地の気分から一気に通常の感覚に戻される。

「すごい雪ねぇ……」

「そうですね」

 こんなに積もった雪を見るのは、椿月も物心ついてから初めてではないかとすら思う。

 見慣れない真っ白な景色に、あたりを興味深く見回しながら歩く。

 すると。

「きゃっ」

 足元への注意がおろそかになっていて、滑って転倒しかける。そこをがしっと、誠一郎に片手で腕を支えられた。

「滑ります。足元お気をつけて」

 お礼を言って体勢を立て直すと、自然と手を出された。彼の意図していることが分かって、椿月はそっと手をのせ、彼の手をつかんで支えにした。

 内心で彼女が、「恋人っぽい……」とぽうっと思っていたことは言うまでもない。

 大通りに出るといくらか道は除雪されていて、滑ることに気を付けてさえいれば問題なく歩くことができた。

 椿月の案内で、館長の家の前の通りまでたどりつく。

 もうすぐというところで、「家までは大丈夫だから」と、恥じらうように言われて、誠一郎は色々と察して「はい」と了承した。

 何度も振り返って手を振ってくる彼女の去り行く姿を見送りながら、こんなに可愛い人が自分の恋人に、と信じられない気持ちでいた。こんなに美しい人と、自分は昨夜口づけを交わしたのか、と。

 現実であることを確かにするべく、いつもより強めに、一歩一歩雪を踏みしめるようにして帰路を歩いた。

 実は昨晩のあの後、誠一郎はほとんど寝られなかった。フワフワと夢の中にいるような感覚で、あれこそまさに夢見心地というものだったのかもしれない。今もまだ、寝不足のせいもあり頭がぼんやりとする。昨日の夜のことが嘘でないかたしかめるように、歩きながらさりげなく自分の唇に触れた。

 そのすぐ後の劇場での稽古にて。

 演者や劇場関係者が、昨日から今朝にかけての大雪の話題で盛り上がる中。椿月はいつものように「おはようございます」と挨拶しながら稽古場に入った。

 すると、いつもと変わらない行動のはずなのに、なんだか妙に視線を集めた。

 別に、何か特別見た目が変わったとかそういうことはない。

 だが、雰囲気が今までと違うことを多くの人が何となく感じていた。

 彼女の表情は見たことがないくらい瑞々しく、輝いている。

 勘のいい何人かの女性たちは、具体的な内容は知らないまでも、なんとなく察するところがあるようだ。

「なんだか今日の彼女、いつにも増して美人ねぇ」

「前からよ。この格好をしていなかったから、魅力が出ていなかったのよ」

「いいえ。それを差し引いても、よ。なんだかすごく表情がきれい。それに、色っぽくて可愛らしくて、目がキラキラしてるわ。肌もつやつやしてるし、笑顔が素敵。愛されてるって感じ」

「殿方かしら?」

「でしょうねぇ……。うふふ、純粋で可愛いわね~」

 最後に天崎が稽古場に現れて、すぐに今日の練習が始まる。

 天崎はすぐに彼女の変化を察知した。

 彼女の表情は自信に満ち、自分の恋人役を演じている時も、本当に恋をする切ない顔、明るい顔。一晩にして役者として急成長したかのような。

 天崎は鈍い男ではない。分かってしまった。ああ、あの男だ、と。

 会えないようにさせたって、想い合う二人の前では何の障害にもなりしないのだ。

 悔しいというよりも、ああ、してやられたな、負けたな、という感じ。

 天崎と話すときも、これまではどこか少し困ったように、遠慮がちに対応していた椿月だったが、相変わらず礼儀は正しいながら、目を見て堂々と話すようになっていた。

 椿月の心の中で大きな変革があり、自分の好きな人の恋人として、胸を張っていたいと思ったからかもしれない。

 天崎は稽古の合間に、椿月に大人の余裕をもってほほえみかける。

「何か良いことが?」

 椿月は笑顔で答えた。

「はい」

 雪道を時間をかけて自宅に戻った誠一郎は、玄関の戸に配達された郵便物が挟んであることに気がついた。

 引き抜いて差出人の名を確認すると、すぐにその場で開封し、黙って中身を読んだ。いつもの感情を表しにくい表情に、難しそうな影がかかる。

「そろそろ、きちんと話すべき時なのかもしれない……」

「静雪が包む夜に」 <終>



【作品情報】
・2019年執筆
・短編連作 全7エピソード
・本作のショートボイスドラマを制作いたしました。 リンク先にてご視聴いただけます。


⇒続き episode7(最終話)近日公開

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