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子供は「おしまい」の寂しさを知った、屋上遊園地の物語

デパートで買い物、なんて言葉さえもレトロに感じてしまう。
これは、在りし日の話。

5、6歳くらいのことだったろうか。
休日に、両親や祖父母がデパートへ連れて行ってくれた。
郊外。よく晴れた日。
祖母はいつも、苺と生クリームのサンドイッチをおやつに買ってくれた。それは私にとって、特別な一日の始まりだった。

買い物よりも遊びのほうが楽しくて仕方ない。そんな子供の私が、屋上へ向かうときのワクワクする気持ちは今もよく思い出せる。

町の公園にはない、大きくてカラフルなアスレチックや遊具。
そこは小さな遊園地。
ボールプールにトランポリン、100円玉を入れると動くキャラクターの乗り物。「きかんしゃトーマス」のおもちゃが本物になって、コトコトとレールの上を進んでいた。
緑色の地面を背丈1メートルと少しくらいの子供たちが走り回り、歓声を上げる。雲ひとつない青空。父や母やおじいちゃんおばあちゃんが、幸せそうに眺めている光景。

楽しい時間は、永くは続かない。

夕暮れの空の下、アナウンスが流れる。
「みんな、今日は遊びに来てくれて、ありがとう! この遊園地はもう、おしまいだよ。」
時計が夕刻を指し、色鮮やかな遊具は落陽のもとで赤く焼けたような、くすんで褪せた寂しい色に見えた。

おしまい。
おさない私は、ちいさな絶望感を知った。

閉園、と言ってくれたなら。
今日はもう閉まるけれど、明日にはまた迎え入れてくれる。まだ希望があった。
それでも、「閉園」や「終了時刻」なんてわからないだろうと、きっと親切で子供思いの心から、大人は「おしまい」という言葉を選んだのかもしれない。

絶体絶命の危機に「もう、おしまいだ!」なんて叫ぶアニメを見ていたのかな。
おしまい、の瞬間にすべてがほの暗くなる気がした。あのときの心が忘れられない。

あれからもう、何年経つだろう。

背丈1メートルと少しくらいだった子供たちは、きっと今はどこかで大人として生きていて、もしかしたらそのデパートで働いているかもしれないし、小さな子供の手を引いて休日の買い物に来ているのかもしれない。

屋上の遊園地はめっきり減った。
思い出のあの遊園地も、今はもうきっと、ない。

取り壊される前、こう言ったのだろうか。

「みんな、今まで遊びに来てくれて、ありがとう。



この遊園地はもう、おしまいだよ。」


* * *

▷2020年11月5日
本稿は、としまえん追想同人誌『しゅうまつモノローグ』にご掲載いただきました。
※配布、販売は現在終了しています。

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