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ゴーヤーの実がはじけたら [短編小説]

 どこかで目覚まし時計が鳴っていた。美鈴が眠っている枕元で鳴っているのではない。どこで鳴っているのか気になりだしたら、急速に意識が覚醒し始める。隣の部屋から聞こえてくる音だと気づいた時には、もうすっかり目が覚めてしまっていた。窓の外はまだうす暗いと思っていたが、腕時計を見ると八時を過ぎていた。
 築三十年の安アパートは壁が薄い。とはいえ、これまで隣の住人が鳴らす目覚まし時計で目覚めたことは一度もなかった。久しぶりの休暇だから昼過ぎまで寝ていようと思っていたのに、何ということだろう。そう思いながらも、日頃から寝起きが良い美鈴は、もう眠れないだろうと悟って起きる覚悟を決めた。
 カーテンを開けると、珍しく小雨模様の天気だ。窓が細く開いたままになっているのに気づき、またやってしまったと思う。女一人の暮らしなのだから、もっと注意しなければいけないのに、都内の高層マンション暮らしだった頃の癖が抜けない。
 小田急線の、それも各駅停車しか停まらない駅が最寄の住宅街とはいえ、最近は近所でも物騒な事件が起きている。こんな不用心なことではいけないと改めて美鈴は胸に刻んだ。
「おはようございます。こんな時間に部屋にいるなんて珍しいじゃない」
 急に窓の外から声をかけられ、美鈴は驚いた。声の方向に目を向けると、右隣の部屋の住人が朝顔の鉢に水をやっている。榊原というシングルマザーで、小学生の子どもを二人育てていた。上の娘は小学校六年生で、下の息子は小学校一年生だ。朝顔の鉢は、きっと下の息子が学校から持ち帰った夏休みの宿題なのだろう。青い花が雫で光って見えた。
「雨なのに、水やりですか?」
 窓を開けて簡単な挨拶を交わした後、美鈴は榊原にそう訊いた。空を覆う雲は分厚い。そのまま放っておいても雨が鉢の土を湿らせそうなのにと思ったからだ。
「雨がかかる所までずらしておこうかとも思ったんだけど、邪魔になりそうだから」
 榊原はそう笑いながら答えた。目線の先を辿ると、左隣の部屋の軒先を見ている。軒先には、乱雑に脱ぎ散らかされた何足もの靴があった。
「新城さん、窓から出入りしてるのよ。こっちの方が通りに近いからですって」
 榊原は半ば呆れている表情でそう教えてくれた。新城という左隣の部屋の住人はミュージシャンをやっているそうで、普段から部屋にいるのかいないのかわからない。窓の左半分は斜めに掛けられたネットに伸びたゴーヤーで緑のカーテンになっている。たくさん咲いている黄色い花に混じって、でこぼこした形の実が幾つか見えた。
「窓からって、鍵はどうしてるんですか?」
「知らないけど、鍵はかけてないんじゃない? 物騒よね」
 思わず眉間にしわを寄せた榊原の顔を見ながら、美鈴は幾分恥ずかしさを覚えた。自分も癖になっているとはとても話せない。
「今日は仕事お休みなの?」
 物騒という言葉に同意するのも気が引けると口ごもっていた所で、榊原の方から話題を変えてくれた。
 榊原には時々手作りの料理をお裾分けしてもらったりしている。ケアマネージャーというのがどういう仕事かは詳しく知らないが、高齢者を相手にしているのは知っていた。元来の性格も面倒見が良いのだろう。美鈴はこのアパートに引っ越して来た初日からあれこれと世話を焼いてくれた様子を思い出していた。
「ちゃんと休むのは一ヶ月ぶりかなぁ」
「身体壊さないようにしないと」
 丈夫なだけが取り柄だからと軽口で返そうかと思ったが、榊原があまりにも心配気に見つめるものだから、美鈴は素直に礼を述べた。
「今日は美味しい物でも作って、のんびり過ごします」
「そうね、ちゃんと休んで」
 榊原も今日はお休みらしい。子どもたちのために短いが夏休みを取ったのだという。この後、ブルーベリー狩りに行くそうだ。美鈴にも一緒に行くかと聞いてくれたが、正直身体が悲鳴をあげている。簡単な料理でも作りながら、一日だらだらと過ごしたかった。
「じゃあ、後で差し入れ持って行かせるわ」
 榊原はそう言うと部屋に入っていった。やがて子どもたちを呼ぶ声が聞こえてくる。夏休みなのを良いことに子どもたちはまだ眠っていたのかもしれない。そんな何でもない家族のやり取りを感じながら、美鈴は無意識にため息をついた。失くしてしまったものへの懐かしさが、こうしてふっと襲ってくる瞬間がある。

 八年前、美鈴はまだ高校生だった。東北の港町で家族と普通に暮らしていたのだ。だが、そんな日常生活はあの大震災によって一瞬で消えてしまった。卒業式まであと三日という時だ。その後、たった一人残っていた叔母を頼りに東京へ来たものの、もともと不仲だった関係性は容易に改善されることはない。結局、自立するために水商売の世界に足を踏み入れた。
 そこからの数年間はあまりにも不毛だったと美鈴は心底から悔いている。はじめは家族の墓をたてたいという思いがあった。だが、当初想像していた以上に美鈴は勤めていたキャバクラで売れっ子になってしまう。その収入は普通の金銭感覚を彼女から奪っていった。
 生活感のない美鈴のもとに、脂ぎった男たちが貢物を携えてやってくる。そして、生きる事には直接必要のないものばかりをプレゼントと称してたくさんくれた。やがて、それでも満足できなくなる。ホストにこそはまらなかったが、飾りのような男は何人かいた。
 今度は、その飾りのために金を使うようになる。高級なマンションで暮らし、湯水のように浪費した先に待っていたのは、借金地獄でしかない。それ以上先に身を落さずに済んだのは、夢に現れた家族たちが止めてくれたからだと美鈴は信じている。
 その夢の中には、もう二度と取り戻せない家族の団欒があった。高校の卒業を前に、大人になったら小さな食堂を経営するのだと意気込んで語った日の光景だ。何も語らず、ただじっと見つめる父や母の姿。その日、美鈴は泣きながら目を覚ました。
 水商売からきっぱりと足を洗い、がむしゃらに働きだしたのはそれからになる。今の働き先は老舗のレストランで、シェフは同じ郷里の人だ。亡くなった美鈴の父親とも親しい関係だった。ずっと安否を気にしてくれていたシェフが、美鈴を探し当ててきてくれたのである。美鈴が家族の夢を見た三日後のことだ。
 こうした一連の不思議な経験によって、美鈴は生き方をがらりと変えた。売れる物はすべて売り払う。足もとを見られて二束三文ではあったが、それでも多くの借金は消えた。高級マンションも引き払い、このアパートに引っ越してきた。寝に帰ってくるだけの部屋だったが、それでも生きている実感を与えてくれる住み家になったと心から思えた。
 深みにハマるギリギリの時期だったから、今は借金も何とか返し終える見込みがたっている。次に目指すのは、自分の店を持つことだ。それにはまだ10年はかかるかもしれない。だがシェフのもとで修業しながら資金を貯め、必ず実現させる。そう美鈴は心に決めていた。

 大きく開いた窓のさんから外へ足を伸ばし、ぼんやりと過去を思い返していた美鈴の頬に、その時急に強く降り出した雨の粒が当たった。少し遅れて、ザーッという音が周囲に満ちる。急に左隣の部屋の窓が開いた。顔を覗かせた男と目が合う。ミュージシャンだという新城という青年だった。
「濡れちゃうよ、そんなとこに座ってると」
 新城は挨拶のつもりかぺこりと頭を下げてから、そう美鈴に言った。言われなくてもわかっているが、変なタイミングで新城が現れたので、部屋に入るのが遅れたのだ。
「あっ、ありがとう」
 一瞬で美鈴の頬が赤くなった。馬鹿な返事をしたと思ったのか、新城があまりにも整った顔立ちだったからなのか、美鈴にもわからない。だが、このアパートに引っ越してきてから初めて見た隣の住人が妙に気になったのは確かだった。
 慌てて外に伸ばした足を引っ込め、美鈴は立膝づきでもう一度新城を見る。新城はゴーヤーの実を収穫し始めていた。
「その実、どうするの?」
 思わず訊いてしまう。美鈴の質問に、新城はきょとんとした顔を向けた。
「どうするって、食べるに決まってるじゃん」
 そう言うと、新城は手にしたゴーヤーの実のひとつを美鈴に放って寄越す。危うく受け取り損ないそうだったが、何とかキャッチできた。
「豚肉と卵と豆腐。鰹節もあれば最高だね。混ぜて炒めれば美味しいよ」
 それがゴーヤーチャンプルーの作り方なのは当然美鈴も知っている。まるでスマホでも検索するように頭の中にレシピが浮かんできた。食材は昨日の帰宅時にいろいろ買い込んでいたから、それで間に合うだろう。
 そんなことを考えているうちに、新城はさっさと窓を閉めようとしている。美鈴は礼を言わなければと焦った。
「あっ、ありがとう」
 さっきと同じ言葉の繰り返しだ。新城は一瞬笑ったようだったが、手だけで美鈴の声に答えて部屋の奥に消えていった。ネットいっぱいに蔓を伸ばしているゴーヤーが、雨に打たれて揺れていた。
 
◇ ◇ ◇ ◇◇◇ ◇
 
 午後はゴーヤーチャンプルーをつまみながら、少し酒も飲みながら過ごした。豚肉の代わりにスパム缶のランチョンミートを使っている。豆腐は木綿豆腐だ。ゴーヤーはほど良い苦みでとても美味しかった。
 新城の部屋からは時折ギターの音が聞こえてくる。食べるためにゴーヤーを収穫したと言いながら、ずっと料理をしている気配はない。壁はどこも薄いのだから、台所で何かしていれば聞こえてくるはずだった。
 美鈴は、ゴーヤーチャンプルーがあまりにも美味しく出来たので、お裾分けに行こうかどうしようか悩んだ。右隣に住んでいる榊原なら、こんな時は絶対に持ってくるだろう。今日も後で差し入れに行かせると言っていたから、きっと摘みたてのブルーベリーを娘が持ってくると思う。だから、その時に渡そうとタッパーにゴーヤーチャンプルーを取り分けていた。
 問題なのは新城に対してだ。ゴーヤーをくれたのは彼なのだから、お返しをするのは当然だろうと思う。だが、このアパートで暮らし始めて数ヶ月も経つのに、顔を合わせたのは今日が初めてだった。そして、あの初対面の動揺は一体何だったのだろう。ここしばらくなかった心の揺らぎに、美鈴は冷静さを失っていると感じていた。
 その時、突然チャイムが鳴る。美鈴は心臓が飛び出すのではないかと思うほど驚いた。深呼吸して呼吸を整えてから玄関のドアを開ける。榊原が立っていた。ボールいっぱいにブルーベリーが盛られている。
「あれ? 娘さんが持ってくるんだと思ってました」
「雨でブルーベリー畑の斜面が滑るもんだから、あの娘転んじゃったのよ」
「大丈夫なんですか?」
「うん、頭とかは打ってないし」
 あいにくの雨のせいで、結局予定していたより早く切り上げて帰ってきたらしい。お裾分けのブルーベリーも、売っていたものだという。
「ごめんね。でも、摘みたてなのは確かだからさ」
 そう言いながら、榊原はボールを差し出した。美鈴はそれを受け取り礼を言うと、代わりに用意しておいたタッパーを渡す。
「何、これ?」
「ゴーヤーチャンプルーですよ。いっぱい作ったので」
 とたんに、ふーんと言って、榊原がにやりと笑った。「もしかしてお隣さんにもらったの?」と目に詮索する色が見える。曖昧に答えたら、やっぱりという表情をした。
「ねえ、かなりのイケメンだったでしょう?」
 何と答えて良い物か迷ったが、変に意識しているように思われたくなくて、美鈴はそうですねと笑って返事をした。
「沖縄の出身なんだって。あっちの人って、美男美女が多いよね」
 訊いてもいないのに、榊原は新城についていろいろ話しだした。聞こえるのではないかと気が気ではないが、ずっとギターの音がしているから、たぶん大丈夫だろう。
「ミュージシャンって、バンドでもやってるのかなぁ?」
 美鈴がずっと気になっていたことを訊いてみると、榊原はそんなことも詳しく知っていた。
「スタジオミュージシャンらしいよ。レコーディングの時なんかに演奏してるんですって」
 美鈴には縁のない世界だが、音楽が嫌いなわけではない。がぜん興味が湧いた。結局、小一時間は立ち話をしていたことになる。今晩いただくわねと言って榊原が部屋に戻ると、夕方になっていた。大きめのフライパンには、まだゴーヤーチャンプルーが三分の一ほど残っている。
 美鈴はそれをテーブルの上にもうひとつ出しておいたタッパーに詰めると、新城の部屋のチャイムを押した。だが、何度押しても返事がない。耳をすますと、相変わらずギターの音がしている。ドアノブに手をかけた。力を込めて回すと、ドアが開く。玄関にも鍵をかけていないのだと思ったら、笑いがこみ上げてきた。思い切って玄関ドアを開く。新城は背中を向けてギターを弾いていた。耳にヘッドフォンをつけているのが見える。聞こえていないのだと美鈴は悟った。
「ごめんください」
 少し大きめの声で、新城の背中に向かって呼びかける。まるで眩しい物でも見るように目を細めながら、やっと新城が振り向いた。ヘッドホンを外しながら、あれ?という表情をするので、美鈴は右手に持ったタッパーをかかげる。
「ゴーヤーチャンプルーのお裾分けに来ました」
 とたんに、新城の表情が変わる。嬉しいのか困っているのか判断しかねる微妙な顔つきだった。余計な事をしたのだろうかと、美鈴も一瞬ひるんでしまう。沖縄の出身ということだから、味には厳しいかもしれない。
 ふと台所を見ると、調理器具はおろか、食器も食材も見当たらなかった。ただ、先程収穫したとおぼしきゴーヤーだけが、流しの中に転がっていた。とにかく自炊をしているような台所ではない。美鈴は余計な事をしたのかもしれないと後悔した。
「おっ、スパムのランチョンミートじゃん」
 いつの間にか立ち上がっていた新城が、美鈴に近づいてきてタッパーの中を覗いている。目を丸くしながら、「お姉さん、わかってるね」と今度は笑いながら言った。
「よかったら上がっていきなよ、コーヒーでも淹れるから」
 美鈴の手からタッパーをひったくり、そう言いながら新城は部屋の奥へやかんを取りにいく。その様子が男の一人暮らしっぽくて、美鈴は口元が緩んでいくのを感じた。
 
◇ ◇ ◇◇◇ ◇ ◇
 
 この日を境に、美鈴と新城の距離は縮んだ。最初はお姉さん呼ばわりされて面喰ったが、話してみると新城は美鈴より三歳も年下だった。スタジオミュージシャンと言ってもまだ駆け出しで、有名なアーティストについている訳ではない。それでも、いずれはいっぱしのミュージシャンになるのだと心に決めているのだという。美鈴は自分と同じ類の志を、新城の中に見て嬉しくなった。
 関東だと、ゴーヤーは10月初旬まで実をつける。熟れて黄色くなった実も美味しいのだと美鈴は初めて知った。熟れると種の周囲が真っ赤になり、実は破裂してその姿をさらす。熟れたゴーヤーには独特の甘みがあるのだが、たぶんそれを知っている人は関東には少ないかもしれない。一見グロテスクに見える物ほど、中身は芳醇なのだと美鈴は思った。
「ゴーヤーの実がはじけたら、必ず私の所へ持ってきてね」
「持って行くのはいいけど、どうするの?」
「種をとっておいて、来年も植えるんだよ」
 美鈴はそう言った通り、せっせとゴーヤーの種を残していく。半月程するうちに、二人は互いの恋人候補になった。すぐには確定しない所が、何となくお互いの性格を表していたけれど、本心ではすでに結ばれていたといえる。来年も再来年も一緒にいたい。美鈴がゴーヤーの種を残している事には、そんな思いが秘められていた。
「美鈴が料理人だと知ってたら、もっと早くにゴーヤーを渡したのになぁ」
 当然、美鈴の気持は伝わっているから、新城も事あるごとにそんなことを言った。それ程、最初に美鈴が作ったゴーヤーチャンプルーは美味しかったし、すぐに他の沖縄料理もマスターした。生前の母親から、「男は胃袋をつかまえるのが一番さ」と言われたのを美鈴は思い出していたからだ。
 ちゃんと捕まえられるまで、何個のゴーヤーを調理すれば良いのだろう? いっそ、出す店は沖縄料理の専門店にしようか。そんな風に思うほど、新城は美鈴にとって大事な存在になっていった。
 
 ところが、二人の物語は本格的な秋の訪れを前に、思いもしなかった悲劇で終わってしまう。護送されていた窃盗犯が近所の公道を移送中に逃亡し、こともあろうに美鈴と新城が暮らしていたアパートに逃げ込んだのである。留守にする時も窓や玄関に鍵をかけていなかった新城の部屋を、窃盗犯はそれまでの経験で察知したのかもしれない。
 間の悪いことに、新城の部屋に逃亡犯が隠れているとは気づかないまま上がり込んだ美鈴は、追いつめられて狂暴化していた犯人に背後から首を絞められ殺害されてしまったのだった。
「新城泰光さんですね」
 翌日、レコーディングが終わった新城のもとに刑事が訪ねてきた。彼が美鈴の死を知ったのはその時だ。はじめは何を言われているのかさっぱり分からない程、予想もしていない出来事だった。あまりの驚きで涙も出ない。
 刑事から事情聴取を受け、美鈴の検視の結果を詳しく聞かされても、まだ現実味が湧いてこなかった。こともあろうに自分の部屋で、大切に思い始めていた人が殺されたのだ。悪い夢を見ているとしか思えない。むしろ夢であって欲しいと新城は願った。
 美鈴の遺体は、仲の悪かった叔母の家にではなく、彼女のアパートに運ばれることになった。勤め先のシェフが責任を持つということで大家が了解したからだという。そこで通夜が行われた。
 その時になっても涙はまだ戻ってこない。殺人の現場になった自分の部屋には戻れないまま、何度か訪れていた美鈴の部屋にいる。けれど、その部屋を暖めていた本人はすでにこの世にいないのだということを新城は嫌でも突きつけられた。
 居たたまれない思いを抱きながら窓から外を眺めると、隣の自分の部屋の窓辺に茂っていたゴーヤーは、現場検証などの際に踏みにじられ無残な姿になっている。そこには、大きくなることを美鈴が楽しみにしていた実がまだ幾つもあった。
 こと切れる前、美鈴は何を思っただろう。背後から首を絞められたというなら、犯人の顔も姿も見ていないかもしれない。もしかしたら美鈴は、自分に殺されるのだと思っていなかっただろうか。そう想像するだけで、新城はやり切れない思いに襲われた。
 通夜には、隣の部屋に住む榊原と、シェフをはじめ美鈴の勤め先の数人しか来ていない。途中で大家が様子を見に来たが、形ばかりの焼香を済ませただけで帰って行った。そんなことで恨むのは筋違いだと分かっていても悔しさがこみ上げてくる。やがてその悔しさは新城自身へと向けられていった。
 何より、日頃から鍵もかけずに暮らしていた自分が悪いのだ。美鈴は自分の犠牲になった。そんな後悔だけが繰り返し襲ってきた。それでも涙は出ない。もう涙は永遠に消えてしまったのだろうと新城は思った。

 やがて深夜になると、この数日間ろくに眠る事が出来なかった新城に急な睡魔が訪れる。泣く心さえも失ったのに眠くなるなんて。自分は人でなしだと責める気持ちが、すっと眠りの中に溶けていく。
 短い夢を見た。美鈴がゴーヤーの実を取っている。その実は黄色く熟し、破裂して中の赤い種を見せていた。それを新城に見せながら、美鈴は笑っている。悲しみに押しつぶされそうになりながらも、新城はかすかな温もりを感じていた。
 美鈴の周囲には、知らない人たちがたくさん立っている。皆、柔和な目をしていた。その人たちは美鈴を迎えに来たように思える。ふと眠っているはずの意識の中に、大震災で亡くなった親類縁者なのではないかという思いが浮かんだ。現実の世界の通夜には訪れる人がいなくても、美鈴にはたくさんの魂の繋がりがあったのかもしれない。
 目覚めた時、新城は泣いていた。雨に打たれたのではないかという程の涙だった。
「やっと涙が戻ってきたよ」
 美鈴の遺影に向かって、そうつぶやいた。新城には、すべてを知ったうえで美鈴は夢の中に現れてくれたのだと思えた。
 窓辺に佇んだ時、ふと美鈴の声を聞いた気がして上を見上げる。その視線の先に、夏の星座がきらめいていた。
 
◇◇◇ ◇ ◇ ◇◇
 
「さあ、行こうか」
 隣に立っている父親がそう言って美鈴を促した。こちら側の世界では、すでに時間も距離も関係ない。自分が行くと決めたら、きっと見えている世界は一変するのだろう。誰かから教えてもらわなくても、美鈴にはそれがわかった。失くしていた記憶を取り戻したという方が正しいかもしれない。
 魂というものが本当にあるとは信じていたが、やはり自ら体験するまで確証はなかった。それが今は、確かな感覚としてある。
「あなたは現世の夢を叶えてね」
 じっと自分の遺影を見つめている新城に向かって、美鈴はそうつぶやいた。彼が旅立つ時は必ず迎えに来ようと思っている。
 ゴーヤーの実を見せたのは、何とかその思いを報せたかったからだ。生まれては死に、死んではまた生まれ変わる。次に生まれてくる時のために、互いを結びつける何かを了解し合いたいという気持ちもあった。だが、それはまだずっとずっと先で良い。
「しばらくは上から見てるから」
 浮遊感が高まる中で美鈴は届かない声を新城に送った。感覚だけでなく、実際に魂が高みを目指していくのがわかる。その時、新城の視線が追いかけてきた。見えていないのはわかるが、何かの存在を感じてはいるのだろう。
「あっという間さ」
 また父親が美鈴にそう言った。周囲に漂う光の粒が、皆そう言っているように感じられる。かつて同じ場所で、同じ時間を過ごした存在たち。今、自分はその中に溶け込もうとしているのだと美鈴は思う。行こうと思う前に、もう一度だけ新城を見た。
 その目に光る涙のような光の粒が、夜空に輝く星のように感じられた。


※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。日常の中に突然訪れる別れ。でも、それは一時の事であってほしいと願っている自分がいます。
 

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