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太陽がまぶしくて [短編小説]

 千代さんが死んだ。水曜日の朝に救急車で運び込まれた病院の集中治療室で、結局一度も意識が戻らないまま逝ってしまった。
 それでも千代さんは四日間も持ちこたえたのだ。たぶん八十歳前後なのだが、正確な年齢までは知らない。千代さんの萎びて小さくなってしまった身体のどこに、そんな生命力が残っていたのだろう。そう思わずにはいられないほど、短いようでいて長い四日間だった。 

 目の前で、担当の医師が死亡確認をしていく。最後に腕時計を見ながら「15時31分、ご臨終です」と重苦しい声で告げた。いつもなら重ねて何か別の言葉も語るのかもしれない。だが、この疲れ切った表情で佇む中年の医師は、私たちが何者であるかを知っている。すでに手の届かない所へ召された患者について、必要最低限のことを伝えればよいと思ったのだろう。
 彼は千代さんの亡骸と私たちに頭を下げると、他の患者のもとへと去っていった。その後姿を、私は少しの間だけ目で追いかけてみる。この医師とも他生の縁があったのだろうか。千代さんがよく話してくれた生まれ変わりのことが、少しだけ頭をよぎっていた。
「これから処理をするので、しばらくお待ちください」
 その場に残った看護師が、そう言ってベッドサイドのカーテンを閉めた。医療の現場には感傷にひたっている時間はない。もはや聞き慣れたはずのレールの音が、不思議なほど硬質に響く。カーテンによって急に視界が狭められた分、人一人の死の場面に立ち会う者の少なさが一層際立った気がした。
処理という言葉がザラっとした感覚を残して通り過ぎていく。この瞬間から、もう千代さんは人ではなく物になったのかもしれない。

 千代さんには身寄りがいない。それは本人からも聞いていた。だから病院へ運び込まれた日の夜、医師から今後の相談をしたいと言われた際もすぐに承諾した。心のどこかで、こんな日が来ることを予感していた気もした。
 本来なら赤の他人が見るはずもないレントゲン写真やCTスキャンの結果を前にしながら、もう千代さんは助からないのだという医師からの宣告を淡々と受けとめていく。脳が受けたダメージは致命的で、すでに手術という選択肢はなく、ただ心臓が動いている間だけが千代さんに残された生の時間だった。
「やっぱり、遺体は警察で保管されるそうです」
 急に隣にいる渡辺が口を開いた。まだこの男と言葉をかわす気になれず、私は黙っていた。空気が一段と重くなっていく。それなのに渡辺はなおも話し続ける。
「ずっと、本当に身寄りがいないのかを調べていたそうで…」
 その辺りから、もう彼の声は何も聞こえなくなった。そんな話は事情聴取に来た刑事から、すでに聞いている。もし本当に身寄りがいないと分かれば、千代さんは無縁仏としてどこかの寺の納骨堂に埋葬されるのだ。それがどこの寺になるかだけを、最後に刑事から訊けばいいと私は思っていた。

 結局、千代さんの最期を看取ったのは、同じアパートの住人である私と渡辺の二人だけだった。お互いに家族以外の最期を看取るのも初めての経験だ。見舞いに来た者は他に誰もいない。アパートの大家でさえ一度も病院に姿を見せなかった。
 千代さんの死因は、転倒によって頭部を激しく打ちつけたことによる脳内出血である。こんなに持ちこたえられているのは生まれつき心臓が強かったからだと、昨夜医師が話していた。だとしても、さすがに明後日まではもたないだろうとつけ足した言葉の通り、今日の夕方になって容体が急変したのだ。ちょうど運び込まれてきた交通事故の怪我人に、医師がかかりきりになっていたタイミングだった。
 命が尽きる時の心電図というものをはじめて見た。モニターに映る光の波形が、死の直前から急にいびつになる。間隔も見た目にわかるほど不規則になっていた。そのまま波はどんどん小さくなっていき、最後にさざ波のような細かな波形を僅かな間だけ残して、とうとう一本の直線になった。検査機器の電子音が鳴り響いている騒がしい部屋の中で、その死はあまりにも静かであっけなく感じた。
 もう二度と千代さんと話すことは出来ない。あの、ちょっとひねくれた口調の憎まれ口を聞くこともない。突然、そんな感傷的な気持ちが湧きおこってきた。美味しい梅干しの漬け方を教えてもらう約束も、一緒に歌舞伎を観に行こうと話していたことも、叶えられることはないのだ。
 永遠に失われてしまった未来の一コマ一コマが、心に虫食いのような無数の小さな穴を空けていく気がする。
 だが、矛盾するとは思いながらも、心のどこかは妙に醒めてもいた。どんなに仲が良かったとは言っても、やはり千代さんはたまたまアパートで隣人になった老人の一人にすぎない。生活をともにしていたわけではないから、一週間以上も顔を合わせない日だってざらにあった。だから、その死を目の当たりにしたにも関わらず、いまひとつ現実味が感じられない。
 その証拠に、さっき臨終を告げる医師の言葉を聞いていた間中、頭の中に浮かんでいたのは「きょう、ママンが死んだ」というアルベール・カミュの『異邦人』の書き出しだった。映画のような場面として浮かんだのではない。それは言葉だった。タイポグラフィのように文字が並んだイメージ。
 千代さんの肉体が刻一刻と死へ近づいている四日間に、私はこの短編小説を購入し、最後まで読み終えていた。
 有名な作品でありながら、これまで読みたいとは一度も思わなかったこの物語を、なぜこんなタイミングで読む気になったのだろう。私は閉ざされたカーテンを見つめながら、もしもその理由を訊かれたら、どう答えようかと考えていた。主人公のムルソーと同様に「太陽がまぶしかったから」と言えばいいのだろうか。そんな思いに至ってはじめて、私は傍らにいる渡辺の顔を見た。
 彼は下を向いたまま、じっと自分の足もとを見つめている。出版社に勤めているというこの男が明らかにきっかけだ。彼が、新訳の書籍では「異邦人」が「よそもの」という言葉で訳されていたという話をした。なぜ『異邦人』の話題になったのかは、すでに覚えていない。その時はまだ、同じアパートで隣人として暮らしながら、全く互いのことを知らなかった驚きの方が大きかった。きっとその欠落を埋めるために、当たり障りのない情報を語り合った中のひとつだったのだろう。
 だが、もちろんそれだけで購入した訳でもない。あの日救急車で運ばれる千代さんに付き添った自分が、この救急病院に一歩足を踏み入れた時の奇妙な感覚。あの身の置き所のない感じが、「よそもの」という言葉の響きと妙にしっくり合っていた。
 渡辺によれば新訳は平易な言葉づかいになっているそうだ。ママンが母さんと訳されているらしい。話を聞きながら、「きょう、母さんが死んだ」と、声に出して言ってみた。自分をこの小説から遠ざけていた何かが決定的に欠けている気がした。 
 次に、「きょう、千代さんが死んだ」とつぶやいてみる。ふいにそれまで想像した事もなかったママンの顔が千代さんと重なった。だから、あの水曜日の夜、病院からの帰り道に、夜遅くまで開いていた駅前の書店で、はじめてカミュの文庫本を買った。まずは従来の翻訳で読んでみたかったのだ。 
 新訳はアマゾンで買えばよいと思ったまま、優先順位を下げ続けている。
 どんな小説を読むかという選択に、おそらく場所や置かれている環境は関係ないはずだ。時の洗礼を受けた物語の普遍的なテーマからは、どんな状況にも合った答えを見つけられるものだと信じている。だが、本を読んでいる姿を傍から見た人たちは、物語によって読者とは異なる印象を抱くらしい。
実際、千代さんのベッドサイドで『異邦人』を読んでいた私に、医師や看護師たちは何度か訝し気な視線を送ってきた。きっとみんな、この小説のタイトルを見ただけで書き出しのフレーズが浮かんでくるのだろう。
 「きょう、ママンが死んだ」。死がすぐ近くにある医療現場で、死を一番遠ざけたいと願っている人たちにとって、『異邦人』は病室には持ち込みたくない本だったのかもしれない。新訳の書籍を読むまでもなく、集中治療室の中の私は、明らかに「よそもの」だった。

「お待たせしました」
 処理を終えた看護師がおもむろにカーテンを開けた。千代さんの身体から全ての検査器具がはずされている。光の直線だけを描いていたモニターも消されていた。
「しばらくしたら霊安室に移しますので、こちらでお別れを」
 私たちが身内ではないことを知っている看護師は、やんわりとこれ以上の付き添いがいらないことを匂わせたようだ。
 器具がはずされた千代さんは、やっといつも見慣れた寝顔になった。とりとめもなく迷子になっていた感情が、やっと目の前の千代さんに向けられた気がする。私は痩せて皺だらけの、そのうえ無数の擦り傷と青痣がついてしまった千代さんの冷たい手を握りながら、その時初めて、声を押し殺して泣いた。
 本当は大声をあげて泣きたかったが、それはできない。まだ懸命に生きようとしている他の患者がいる。「よそもの」であったかもしれないが、それでも四日間という時間は、他の患者やその家族たちと顔見知りになるには十分な時間だった。
 ふいに、渡辺の手が私の肩に置かれた。言葉はない。そして、涙も流してはいない。一瞬、どうしようか迷ったが、無理に拒むほどの事ではないとも思えた。千代さんの手とは対照的に、熱をもったような熱い手のひらだ。
 周囲が悲しみに包まれていても泣けない男。彼との縁も、千代さんの思い出のひとつなのだと思うことにした。明日からは、またただの隣人に過ぎない。所詮、私たちは「よそもの」同士なのだから。
 私は唇を真一文字に押しつぶしながら、ただただ静かに泣き続けた。

◇◇ ◇◇◇ ◇◇

 深夜から雨が降っていた。暖冬のせいで、雪にはならないらしい。昨日まで千代さんの件で有休を取っていたから、曜日の感覚がおかしくなっている。日曜日の朝なのに、早く目覚めてしまった。閉め忘れたカーテンの向こうに、厚く曇った空が見えていた。風で窓ガラスに打ちつけられた水滴が何本か筋を作って流れ落ちている。目覚めたばかりなのに、昨日涙を流した後の疲労感がまた蘇ってきていた。
 千代さんの遺体は、どこにあるのだろう。まだ病院の霊安室か、それともすでに警察署に運ばれてしまっただろうか。火葬にだけでも立ち会えないものなのか。そんな懸念や思いだけが心に浮かぶ。
 あの水曜日の朝、最初に千代さんを発見したのは私だ。彼女はアパートの外階段の下で倒れていた。空き缶をいっぱい詰めこんだスーパーのビニール袋を右手に握りしめたまま、胎児のように丸まっていた。寒い朝だった。
 いつも通り会社へ向かおうとしていた私は、階段を降りようとして目に飛び込んできたその光景の意味を、一瞬では理解できなかった。雨上がりの空はとても青くて、それこそ太陽がまぶしかった。
 水曜日は資源ゴミの回収日だったから、彼女が所定の回収場所に空き缶を出そうとしていたのは間違いない。雨は深夜まで降っていた。濡れた階段は足腰の丈夫な者でも滑りやすくて危険だ。もしかしたら凍っていたのかもしれない。
 いつも起き出すのが早い千代さんは、早朝に階段を降りようとして、誤って足を滑らせた。きっと片手がふさがれていたのもまずかったのだろう。とっさに身体を支えられず、転がり落ちて頭をコンクリートの地面に激しく打ちつけてしまった。それが、病院まで事情聴取に来た刑事が話してくれた事の顛末だ。
 現場検証からも事件性は全くなく、本人による事故として処理されるらしい。刑事が私に話したのは、第一発見者であり、倒れていた時の姿を見たことで、おそらく動顛しただろうと心配してくれたからのようだ。私は刑事に対して、素直に礼を述べた。
 実際その通りで、私はかなり動顛していたと思う。千代さんを見つけた時、手の甲や顔には無数の擦り傷や打撲の痣があった。最初は殴られたのかとさえ思ったのだ。事故と事件の可能性が半分ぐらいずつ頭の中を駆け巡っていた。
 だが、もっと動顛したのはその後だ。自分でも初めてではないかと思うほど大声をあげて助けを求めたが、結局八つもあるアパートの部屋から出てきたのは、私の右隣の部屋に住んでいる渡辺だけだった。
 彼とは以前、千代さんに紹介されて挨拶を交わしたことがある。その後も何度か短い立ち話をしたことはあった。だから、確かに彼が現れて欲しいと思ったのは事実だ。だが、まさか彼だけだとは思ってもいなかった。
 住んでいるのが独身ばかりなのは入居時に聞いている。だが、平日の朝七時に他の部屋の住人が全員留守だったとはとても思えない。私は更に助けを呼ぼうとさんざん金切り声をあげた末に、急に喉が詰まってしまった。同じアパートで暮らす住人の名を千代さん以外は誰も知らないことに気づいたからだ。
 結局、渡辺が携帯から119番通報をして救急車を呼び、私は同乗して病院まで付き添うことになった。彼は残ってアパートの大家や不動産会社に状況を伝えるという。その段になって初めて、彼の名が渡辺であることを知ったのである。
 私と渡辺がお互いの持つ情報を交換し合えたのは、さらに15時間以上も経った、その日の夜になってからだ。出版社に勤めている彼は、ちょうど締め切りに追われていたらしい。それでも、大家はもちろん警察にまで連絡してくれていた。
 私はといえば、アパートの隣人が理由では難しいと考え、急に祖母が入院したと会社に嘘をついて病院で一日を過ごしていた。渡辺とは違って特に会社が忙しい時期ではない。かなり残っていた有休を千代さんのために使うのに躊躇いはなかった。
「お婆さんの容態はどうですか?」
 その夜、遅い時間になってから病院に来た渡辺は、よほど気にしていたのか、挨拶もそこそこに質問してきた。初めて見たスーツ姿のせいか仕事が出来る大人の雰囲気がして、ちょっと意外な気がした。
「ずっと変わりありませんでした。良い意味じゃなく、悪い意味で」
「手術はしていないんですね」
「もう、その段階ではないそうです」
「そうですか。じゃあ、すでに脳死の状態なんでしょうね」
 渡辺の言葉は、私へというより、なぜだか生と死を司る何者かに向けられているような口調に聞こえた。そのせいで、しばらく沈黙の時間が過ぎる。
「診断の結果は詳しく聞きましたか?」
「はい」
 そこからは私が、担当の医師から聞いたことを出来るだけ変えないように注意しながら彼に伝えた。それでも所どころ言葉が足りなかったようで、二人の会話は上手く噛みあわない。
 ただ、流暢でないやり取りを交わしたおかげで、むしろ彼の人柄を掴まえることが出来た気がした。人の話をいい加減には聞き流さない。間違って理解していないかを、途中で何度か確認しながら話を進めていく。そんな彼の態度には、好感が持てた。
 一方、彼からの情報は、夕方来た刑事から聞いていたものとほとんど同じ内容だった。大家が、今度の事でアパート全体が事故物件のように吹聴されるのを恐れているという情報だけが目新しかった。
 その後、これからのことも相談し、千代さんにはこのまま私が付き添い、他のことは窓口になった彼が引き続き連絡を取っていくことに決めた。家族でもない私たちが朝まで病院にいるわけにもいかないので、二十分ほどの道のりを歩いてアパートへ帰ることにした。
 千代さんに紹介された時でさえ省いてしまった互いの自己紹介をし合ったのは、その道のりでのことだ。あの時、ぐっと距離が近づいたことを互いに感じただろう。
 渡辺は自費出版の本を担当していると言った。それがどんな内容の仕事で、社員としてどの程度の位置づけにあるのか、私にはわからない。さほど興味もわかなかった。年齢は私の三つ上で三十五歳。男としては働き盛りだ。身なりもだらしなくはない。実家は札幌だと言うから、どうせ一人暮らしするなら、なぜ会社の近くにしなかったのかと訊ねたら、この街が好きだからと答えた。その言葉が、まんざら嘘でもないのだと思わせるはにかんだ顔が印象に残った。
 これも意外だったのだが、彼は千代さんとよく話していたらしい。千代さんの手料理を一緒に食べる機会もあったらしく、さと芋の煮っころがしを伝授されたと言っていた。私も食べさせてもらったことがある千代さんの得意料理だ。本当に伝授されたのなら、ぜひ一度食べてみたいと言ったら、彼は快く承諾した。きっと自信があるのだろう。私には教えてくれなかったのにと、ちょっとだけ悔しい気がした。

 ふいにお腹が鳴る。考えてみたら、昨夜は何も食べていなかった。千代さんの料理が頭に浮かんだ途端、お腹が反応したらしい。でも、それで起きるのも面倒なぐらい疲労感は去っていなかった。
 仕方なく、枕元に置いてある本に手を伸ばす。『異邦人』だった。また渡辺の顔が浮かんだ。『異邦人』の話をしたのもその時だったと、はっきり記憶がよみがえった。 
 彼が初めてこの小説を読んだのは大学生の頃だったという。少し茶化して「文学青年だったんですね」と言ったら、半ばむきになったように否定された。聞けば、主人公のムルソーが、なぜあんな血迷ったようなことを言ったのかがわからなくて、長い間心のしこりになっていたという。自分自身、母親が亡くなって埋葬されたとき涙を流さなかったからだと彼は付け足した。
「ずっと、自分には何か大事なものが欠落しているんじゃないかと悩んできました」
「本当に欠落している人は、そんなことで悩まないんじゃないかしら」
 そう言ってはみたものの、私に確信はない。
「母親が死んでも、腹がすけば飯を食べている。眠ければ寝てしまう。そのうえ、涙も出てこない。まともな人間とは思えません」
 渡辺はそう言ったまま、ずっと黙っていた。考えすぎのようでもありながら確かに否定もできない。私自身にも思い当たることがあったからだ。
 三十二歳になる今まで、本気でつき合った男性はいない。少しでも束縛や干渉をされるのが大嫌いだった。それは父や母に対しても同じだ。
 一度見合いの話を持ちかけられた時、そんな話をしたら二度と実家には戻らないと宣言したのを覚えている。以来、親子の会話に縁談の話は出なくなった。かといって交際や結婚を避けている訳ではない。自分が望むような形で、いつの間にか深い交流が出来ていくことを望んでいたのである。
 ただ、三十歳を過ぎて得体の知れない不安が込みあげ始めてもいた。自分には何か大事なものが欠落している。そんな渡辺とのやり取りがあったから、あの夜のうちに私は『異邦人』を買ったのだ。
 「よそもの」については、むしろ本を読み進むうちに感じたことだったかもしれない。脳は記憶を勝手に塗り替えていく。千代さんの死から一夜が明けて、その都度なんとなくやり過ごしていた記憶が、きっと心の中で整理され始めてきたのだろう。
 木曜日も金曜日も、渡辺は夜遅い時間になってから病院へ来た。千代さんの傍にいられる時間はせいぜい10分程度だが、必ず手を握っていく。特に申し合わせたわけではないが、いつまでたっても冷たい千代さんの手に、私たちは少しでも温もりを伝えたいと考えていた。そういう阿吽の行動も私の理想に近かった。
 それから私たちは20分の道のりを歩いてアパートへ帰る。だが真っ直ぐに帰ったのは最初の水曜日だけだ。彼はいつも夕食を食べていなかったので、次の日は通り道のファミレスに寄った。
 結局、何時間も話し込んでしまい、帰宅したのは二時過ぎになった。まるで大学生の頃に戻ったような気がした。そして金曜日の夜、いつもより遅くまで人通りが多い駅前の居酒屋に立ち寄ってしまった私たちは、少し酔った勢いで、見晴らしが良い丘の上の公園まで足をのばしたのだ。
 夜景が綺麗だった。闇の中に敷き詰められたような光の粒の中に、見知らぬ人の営みがある。そんなことを何気なく語る渡辺に心魅かれた。もしかしたら、彼は千代さんが最後にくれたプレゼントなのかもしれない。そんな思いが胸の中をしめて、深夜を過ぎてもその場を去る気がしなかった。
「この夜景を見て、ずっとこの街に住もうと決めたんです」
 そう言って渡辺は、またはにかんだ。
「私も、この街が好きですよ」
 本気でそう思った。こんな形の出会いもあるのだと、不思議な縁を感じていた。
「ずっとこの街に残って良かった」
「どうしてですか?」
「茉莉さんに会えたから」
 胸の中が甘い空気で満たされていく。渡辺は夜景を見ながらさり気なくつぶやいた。二十代の頃のような力みのない言葉が耳に心地よい。
「千代さんがいたから出会えたんですよね」
 素直な気持ちがこぼれていた。千代さんの死を見届けたら、ちゃんと渡辺に気持ちを伝えて交際を始めよう。そう思った矢先に、彼に抱き寄せられ、キスをされていた。彼の口から、ほのかなミントの香りがする。次の瞬間、私は反射的に彼の頬を叩いていた。それまでの胸の内とは裏腹に、準備されていたようなその香りを許せない気持ちがあふれだしてくる。つい今しがたまでの甘い感覚は、水をかけられたように台無しになっていた。
 どの道を通ったのか思い出せない。とにかく、そのまま私は走ってアパートに戻った。彼は追いかけて来なかった。一度だけ振り向いた時、私を見つめている彼と視線があった気がしたのだが、その目がどんな感情を語っているのかは分からなかった。
 葬儀の翌日には女性との情事に耽り、それから日を置かず灼熱のアルジェリアの海岸でアラビア人を銃で殺害する。そんな文章が頭の中に蘇ってくる。渡辺と『異邦人』のムルソーがダブっていた。もしかすると、彼は自分で言っていた通り、決定的に何かが欠落しているのではないかと憤った。自分自身のことは棚に上げたままで。

 渡辺はもう目覚めているのだろうか。ふとそう思い、寝返りをうって部屋の右側の壁に意識を集中してみたが物音ひとつしない。天井を見ながら、今、彼が何を考えているのか想像してみる。何も浮かんでこないので途中で無理だと諦めた。たかだか四日間で人の心が分かるはずなどないのだ。時計を見たら、それでも7時になろうとしている。それこそいつもなら身支度を終えている時間だ。忘れようとしても空腹感は去らない。もう布団の中であれこれ考えるのも限界なのだろう。
 仕方なく起き上がろうかと思ったその時、突然、左側の壁の向こうから大きな物音がした。千代さんが暮らしていた部屋だ。昨日亡くなった人の、それも身寄りのない人の部屋から、なぜこんな音が聞こえるのだろう。ベランダから様子を見ようかと思いながらも、身体は動かなくなった。驚いたことに、暴れまわっていた空腹感さえ消えている。その間にも、今度は壁際の何かを動かしているような音がした。
 いつだったか、千代さんがふざけて死んだふりをした日のことを急に思い出した。その演技があまりにも真に迫っていたので、私は心臓が止まるほど驚いて取り乱したのだ。いつの間にか薄目を開けて観察していた千代さんが、はっきりと目を見開いて「うけけっ」と笑う。死者を冒涜するわけではないが、まるで猿のような顔だった。
 味をしめたのか、その後も似たようなドッキリは何度かやられている。引っ掛けられた時は頭にくるが、皺くちゃの笑顔を向けられると何となく許せてしまう。だから、いつも集中治療室に入る度に、「うけけっ」と笑う顔を見ることが出来るのではないかと淡い期待を抱いていた。
 しかし、ベッドの上には、いつもの寝顔とも全く違う、まるで石に掘られたような顔で横たわっている千代さんしかいない。夜の訪れとともに、私は病院にいるのが怖くなって、明るいナースセンターの近くのソファーに避難していた。そして、避難してしばらくすると渡辺が現れるのだ。
 今、そんなことを思い出しても仕方ないのだが、きっと心の中で怖がらないための仕組みが働くのだろう。動かなかった身体が、少し力を取り戻していた。私は思い切って玄関から外に出てみることにした。ベランダより、そちらの方が逃げ場があると踏んだからだ。
 パジャマの上から厚手の褞袍を羽織り、私は玄関のロックを外して一気に外へ出た。どう考えても、こっそり覗き見る方が怖い。勢いよくドアを開けたら、開け放たれた隣の部屋のドアとぶつかって、ひと際大きな音がした。
私は一目散に階段の方へと走り、逃走経路を確認した上で振り向いた。そこには、トレーナーの上に何枚も防寒用の服を着こんだ渡辺と、アパートの大家が立っていた。
「こんな朝から何してるんですか?」
 露骨に批難する私の口ぶりに大家が慌てて謝った。
「ごめんなさいね。起こしちゃったかな」
「荷物の処分ですか?」
 この状況を見れば、二人が千代さんの荷物を片付けているのはわかる。
「こんなに早く処分する必要があるんですか」
「いや、渡辺さんがどうしてもってきかないから」
 私は耳を疑った。渡辺が大家に催促して、千代さんの思い出を無くそうとしている。そのうえ渡辺は私と大家のやり取りを聞いているくせに、履物を段ボールにしまい続けていて私を見ようともしない。
「人でなしだって思われますよ」
 私は最大限の悪意を込めて大家の背後にいる渡辺をなじった。
「渡辺さんがね、自分で葬式をやるって言うんだよ。協力しないと、ここが事故物件だってネットで言いふらすって脅されたのさ」
 なかば冗談ぽくではありながら、大家の口調には明らかに困惑と恐怖の影があった。
「どういうことなの?」
 私は矛先を変えて、渡辺の顔を真っ直ぐに見た。やっと彼が顔を向ける。彼は深呼吸すると、狭いこの場には不似合いなほど大きな声で話しだした。
「ぼくはお婆さんが階段から落ちた時、誰も気づかなかったとは思っていない」
 渡辺の表情には、いつの間にかはっきりと怒りがにじんでいた。
「このアパートの階段は、二階の住人だけではなく、一階に住む人たちにとっても通り道になっている。あのお婆さんが何時に階段から転がり落ちたのかはわからない。でも、今この物音が聞こえている人には、何かしら異変を感じていた人もいたはずだ」
 千代さんを名前ではなくお婆さんと言っているのは、誰が聞いてもあの日のことだと分かるようにだろう。出来るだけ声を広く遠くまで飛ばそうと、ゆっくり首を左右に動かしていた彼が、改めて私を真っ直ぐに見た。
「ぼくはちゃんとお婆さんを見送りたい。斎場ではなく、この部屋で通夜と葬儀をやろうと思っている」
 そうはっきりと言った彼は、再び片付け作業に戻っていった。苦虫をかみつぶした後で、慌ててシロップを飲みこんだような表情の大家と目が合った。アパート中が静まりかえる中で、渡辺だけが全ての音の源になっている。私はそれ以上何も言わず部屋に戻った。
 千代さんの葬式を出す。そんなことは正直なところ思いもしなかった。渡辺はいつそんなことを思いついたのだろう。昨日、千代さんの最期を看取った時だろうか。少なくとも大家に相談したり、何らかの手続きをする必要があるのではないのか。
 だが、彼の考えを否定するものは何もない。むしろそう思わなかった自分の薄情さに胸が痛かった。大家や他の住人たちを非難しながら、私も千代さんの死を傍観していたにすぎなかったのだと気づかされたからだ。
 私はパジャマからトレーナーに着替え、日曜日の朝に似合わない騒音を遠慮なくまき散らし始めた隣の部屋へと向かった。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 結局、週明けの三日間も続けて有休を取った。あの水曜日から八日間も出勤しないことになる。だが、電話口の上司は多少嫌味を含みながらも、私が休むことを了解した。これまで会社を休む時に身内を殺さないで来た成果だろう。
 部屋の片づけは日曜日の昼過ぎには終わったが、月曜日は友引だったので、通夜を先負である火曜日の夜に、告別式と火葬を仏滅の水曜日に行うことにした。
 結局、費用の大部分は大家が出したらしい。「今のご時世、敷金礼金なんか戻さないんだよ」と愚痴をこぼしていたが、最後には抜け目ない損得勘定が働いたのだろう。身寄りのない高齢者のために葬儀を出した大家として地元新聞で紹介されるらしい。千代さんが暮らしていた空き部屋にも、早速高齢者の入居希望があったそうだ。
 通夜や告別式には、アパートの住人のほぼ全員が顔を揃えた。渡辺の声は、日曜日の朝にもかかわらず、いや、むしろ日曜日の朝だったからこそ、全員の耳に届いていたようだ。通常よりは少ないが香典も集まった。渡辺は住人たちに相談し、その金で階段の滑り止めと掲示板をつけることにした。何の交流もなかった「よそもの」たちのアパートが、小さなコミュニティになったのだ。
 葬儀が滞りなく終わった水曜日の夜、いまや千代さんの骨壺だけになった部屋で、私は渡辺と向き合っていた。心から彼の行動をねぎらい、続けてあの金曜日の夜以降の非礼を侘びようとした。だが、渡辺は私の言葉が終わる前に、畳に手をついて深々と頭を下げた。
「あの場で堀尾さんに叩かれていなければ、ぼくは大事な事に何も気づけなかった」
 そう言って、渡辺は一冊のノートを私の前に差し出した。スーパーのセールでまとめ売りされているような大学ノートだった。ページを開くと、カタカナと平仮名ばかりの文字が並んでいる。千代さんの字だとすぐにわかった。ページの何ヶ所にも付箋が貼られている。まず、適当に開いたページの付箋の箇所を見た。

―ワタシがすきなふたりを、やっとあわせられた。ふたりとも人みしりがはげしい。もっと仲よくなれるのに。それでもふたりはほんとうにイイ子だ。仏さまのごカゴをいのる。

 文章の上に数字が並んでいて、それが日付だという事にやっと気づいた。これは千代さんの日記なのだ。
「この部屋の片づけをしていて見つけたんです。付箋はぼくが貼りました。ぼくか君の事が書いてある場所です」
 最初の付箋から順を追ってみた。何か言わなければいけないと思いながらも、読み進むのがやっとで言葉が出てこない。うけけっと笑う千代さんの憎めない笑顔が心の中に蘇っていた。

―ふたりとも、ほんとに気だてがイイ。こんなババのはなしにイヤなかおをしない。何もあげられないからセンソウ中のはなしをしたが、いいたいことがつたわらなかった。しあわせに生きてほしい。とにかく、仏さまのごカゴをいのる。

 確かに、何度か戦争中の話を聞いた覚えがある。そして、千代さんが書いている通り、私には大事な事は何も伝わっていなかった。
 ノートには千代さんのはがゆい気持ちとひたすらな祈りが書き連ねられている。身寄りのない彼女にとって、私たち二人が孫のような存在になっていたことを痛感した。そして、そんな二人は千代さんが死の淵に瀕してもなお、ちゃんと交流できなかったのだ。湧きあがる悲しみと切なさは、ノートの最後のページを見た時にピークを迎えた。

―さいきんは、ずっとお天道さまがまぶしい。ふっとタマシイがぬけていく気がする。でも、お天道さまはあたたかい。あのふたりとおなじだ。わたしがしんでも、ずっとふたりをてらしてほしいなあ。

 日付は、あの水曜日の二日前だった。前日は具合が悪かったのかもしれない。それでも律義に空き缶を出そうとした千代さんは、階段の上で立ち眩みを起こした。文面から、そんな光景が頭に浮かんだ。
「ぼくは、人の思いが本当に分かっていませんでした」
 渡辺の声がひびの入った心の壁を壊した。千代さんは、何も言わず、ただ祈ってくれていた。どんな型にもはめようとはせず、無理強いもせず、ただ信じて祈る心だけで接してくれていたのだ。その時はじめて、私は大きな何かを失ったのだと気づいた。
「同じです、私も…」
 涙が止まらなくなった私の前で、母親の埋葬でも泣けなかったと言った渡辺が涙を流していた。お互いに、もう涙に意味があるのではないとわかっている。その奥にあるものが大事なのだ。
 この世界は、自分を中心に回っているわけではない。それが頭ではわかっていても、心は勝手に自分の気持ちや状況を優先していく。知り得ない人の思いや見えない何かの力が、とても小さな存在である自分を生かしてくれていることを忘れてしまう。
 今この時に『異邦人』と出会ったことにも、きっと意味があるのだろう。
ムルソーは、検事や陪審員の根拠のない決めつけで死刑になった。母親が亡くなったのに涙を流さないような非情な人間が、太陽のせいだと言って殺人まで犯したのだからと、躊躇なく死刑を求刑される。
 だが、きっとムルソーは本当に太陽がまぶしかったのだ。母が存在してくれていた時間の全てを失ったムルソーにとって、語る言葉は心情ではなく事柄でしかなかったのだろう。いっさいの飾りを排除した真実。人がはじめて痛みさえも心に届かないほどの喪失を経験した時、涙の有無など意味がないことを、今ならわかる。
 だが、涙を流せなかったと打ち明けてくれた渡辺を、私はムルソーを裁いた人たちと同じものさしで計っていた。自分の思う通りではないからといって、その人の言葉や行為の一部だけをすくい取って悪人にすることなど簡単だ。千代さんは最後にその愚かさを教えてくれた気がした。
 ひとつ救いがあるのは、まだ私には生きる時間が残されていることだろう。それさえも確かな事ではないが、千代さんが最期の四日間を生ききった姿は私にとっての希望だ。人は亡くなる寸前まで、そして亡くなってからも、何かを残すことができるのだと教えてもらったのだから。
 この先、私と渡辺の関係がどうなるかは分からない。友人として終わるかもしれないし、生涯を共にしないとも言い切れない。とにかく一度結ばれた縁を切る事だけはしないと誓う気持ちは、言葉にしなくても互いに伝わっていた。
 私たち二人は手のひらでそっと千代さんの骨壺を包み込むようにして持ち上げてみた。骨の欠片が壺の中で動く。カシャカシャというその音が、まるで「うけけっ」と笑ったように聞こえた。


※看取りのある日常ではないのですが、『寄り添う人たち』シリーズの最初の一作に入れたいと思いました。この物語は私が実際に経験した看取りに至る出来事を元にしています。書く仕事とは別に、それまでのキャリアとは全く無縁だった高齢者介護の仕事をやってみようと思ったきっかけのひとつでもありました。
14000字に近い短編小説ですが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

いただけたサポートは全て執筆に必要な活動に使わせていただきます。ぜひ、よろしくお願いいたします。