見出し画像

夢想と憂鬱

※ちまちま牛どころか蝸牛の歩みでのろのろ進めてる殺人鬼サイコオカルトホラーコメディノベルゲームの幕間に入る予定のおまけ小話の1つです。元の作品知らなくても多分読める。(そもそも元の作品が無い)
 サイコヤンデレヤブ医者に拉致監禁されて残り少ない寿命で訳のわからない話を聞かされる話。ヤンデレといってもこの話の中だとサイコ要素が強いです。あと、そんなに殺人鬼してない。他と比べると結構優しい。(人を殺さないとは言っていないし、優しい人は人を殺さない)
 詳しく記していませんが、グロテスクな描写があります。15000字程



──夢の話をしようか。
 
 私の口に食事を運び終えてから、決まって彼はこう言います。私に向かって話しかけるというよりは独りごちるように、夢見る少女の美しい瞳で遠くを眺めて滔々と語り始めます。
 どうぞ、先生。
 私の許可など彼は必要としていませんが、形式を保つ為か私はそう言って黙って聞き手に徹します。
 話し手の落葉先生はお医者様と思わしき人です。お医者様だと言い切れないのは偏に私が彼の素性をよく知らない為です。
 先生と出逢ったのは1ヶ月前のことでした。とある平日。私はいつものように学校で授業を受け、それが終われば電車に乗って家に帰る予定でした。いつも通りだったのはそれまでです。
 学校から駅まで。徒歩数十分の長いようで短い距離を歩いている時にふと、背後にいた何者かに口を塞がれました。意識が落ちる前に感じたのは甘い香りと柔い布の感触。そして閉じゆく瞼の合間から覗いた彼の、その美しい二色の双眸でした。あの一瞬の内に映った蒼と茶は今でも焼き付いて離れてくれません。
 だってあれを見た日から私の人生は終わってしまったも同然ですから。
 あの日人としての私は死んで、今は……
 そうですね。蛇のお腹の中でただ消化を待つだけの身としましょうか。それが一等適切です。
 
 次に目が覚めた時には、私はベッドの上にいました。白い壁に囲まれた部屋の中、同じく白いシーツのベッドが幾つも点在しています。一定の間隔を空けて、その丁度真ん中辺りにカーテンで仕切りができていました。しかし窓はどこにもありません。
 清潔感溢れる空間と強烈な薬剤の臭い。それから微かながらに鼻腔を突き刺す鉄錆の香。
 まるで病室のようでした。病室のようで、決して病室ではない別の場所でした。私以外にも数人の人がこの場所のベッドの上に寝かせられていました。眠っているのか、死んでいるのかの区別はつきませんでした。
 私が辺りの様子を把握することに夢中になっていると、何処からともなくコツコツと硬い靴音が聞こえてきました。段々大きくなっていくそれは確実にこの部屋に近づいてきています。
 何故か息を潜めて気配を無くそうと努力した私の気持ち等知りもしないで、その人は扉を開けて入ってきました。
 第一印象は綺麗、だけど少し変わっている人といったところです。
 彼は遠目から見ても美しいとわかる人でした。キラキラと人工の光を受けて淡く輝いている金色の髪。モデルのような細くて高いシルエット。そう思ったのは背が高いことが一因ではありますが、手足の華奢さが特に一役を買っていました。瞳の色は珍しいことに左右で異なっていて、右が茶色で左が青色でした。虹彩異色症というものです。
 彼、としていることから明らかですが、落葉先生は男性です。だけどあの人は真っ赤なハイヒールを履いて、真っ赤なマニキュアを爪の先の先まで塗っていました。それが違和感無く何とも様になっているのが彼の美貌の為せる技なのでしょう。
 まあそういう人間もいるのです。世の中は広いのですから。私が突然誘拐されたのだって世の中が広いせいだと思います。
 
 この私の想像が完全に間違いだと気づいたのは一体いつのことでしたっけ。最近時間の感覚が麻痺してしまって大変ですね。
 
 あまりにも場にそぐわない綺麗な人が訪れたので、私の思考は一瞬途切れました。予想外の出来事が続きすぎると考えることが億劫になります。
 その人は周りを見渡してから、まず私の方へ歩いてきました。
 
 「おはよう、そしてこんにちは。僕の名前は落葉ヒロ。好きなものは人形とかとにかく可愛いものと……後は甘いものかな。今日からよろしくね」
 
 まるで新学期の始めにする自己紹介のようなことを落葉と名乗った青年はしました。柔らかい笑顔と声に包み込まれて、何故だか高鳴っていた心臓の鼓動がゆったりとした速さに戻ります。
 少し意外でした。見た目から受ける印象と違ったと言いますか。ロシアンブルーの猫みたいに気まぐれで高潔で冷たいイメージを勝手に彼に思い描いていたので。
 口を開いた途端に私の浅慮な理想絵図はぐにゃりと蕩けて消えていきました。代わりに頭に浮かんだのは朗らかで人懐っこい犬のイメージです。そんなことを思い、目の前の異常事態を少し忘れ、うっかりよろしくお願いしますと口走りそうになる位には彼は気さくで優しい声をしていました。見た目とは乖離しているとすら言えます。
 
 その安心は束の間のことでしたが。
 
 「おっと君の紹介は良いよ。既に調べはついてるから」
 
 そう言ってから彼は数枚の紙を懐から取り出して、確かめるように私の名前、年齢、性別、生年月日、住所、家族構成、通っている学校名、身長、体重、血液型、視力、通院履歴を読み上げました。先程と変わらない声の調子でした。
 
 「合ってる?」
 
 最後に私に短い言葉で尋ねてきた時でさえ彼の周りだけは平常そのものでした。
 ふと、私は気づきます。薬品の、鉄錆のツンと突き刺すような香りが一番強いのは、すぐ近くにいるこの男だってことを。
 
 飲み込めない現状を、信じ難い考察を何とか胃に収めようとして、できなくて、それを何度も繰り返して。数時間にも感じた数秒の後に私はただ頷きました。彼の話した内容は一つたりとも間違いがありませんでした。全て正解です。
 
 「良かった! じゃあ問題ないね!」
 
 じゃあ、と手を降って彼はベッド付近から去ろうとします。
 待ってくれ、せめて納得のいく説明だけでもしてくれ。そういった意思を込めて手を動かそうとして、腕が上がらないことにようやく私は思い当たります。
 
 「あっ、拘束させてもらったから動けないよ。あんまり暴れないでね〜 君の力じゃ絶対外れないし。大声も出さない方が良いかな。ここ防音だから何言っても無駄。なにより他の患者様のご迷惑になります。君も腕とか喉とか痛めたくないだろ?」
 
 右手の人差し指を唇に軽く押し当て、お静かにのポーズをとってから今度こそ彼は私の近くから去って、別のベッドへと向かっていきました。
 
 こうして非日常は始まったのです。
 
 それからの生活は実に簡素でつまらないことの繰り返しでした。朝昼晩、落葉先生に食事をもらう。注射を打たれる。健康状態を調べられる。私はカニ・エビアレルギーなのですが、そんなことは把握済みだと言わんばかりに一度も食事にそれらが混入したことがありません。排泄は管を通して、入浴は頭髪と皮膚の洗浄を先生が夜中にしてくれます。見知らぬ人間に身体を触られるのは酷いストレスを感じますが、彼の手を煩わせると明らかに不味いと悟ったので黙って受け入れています。
 そうしている間以外は只管ベッドで彼が訪れるのを待つだけです。
 眠る。思考する。隣のベッドの人間と会話する。手元のナースコールを押して彼を呼ぶ。できることはその四択。
 こうも退屈になってくると元凶である彼との邂逅すら待ち遠しくなってきます。
 落葉先生は一応フレンドリーで会話に応じてくれるので、彼から情報を得ることは容易でした。
 
 
 ──あなたの目的はなんですか? 私はこれからどうなりますか?
 
 ──まず第一に人を殺すこと。これは人からのお願いであって、僕の望むところではないかな。生命はかけがえのない大切なものだから無駄なく利用しなければならない。いたずらに消費するのではなく、できるだけ世界に貢献できるように、何かの役に立つことで還元するように。
 
 ──つまり私は貴方に殺されるんですね?
 
 ──シンプルに言うとそうなるね。今君に投与している薬はまだ認可の取れていないもので…… まあ、殺害する前に貴重な人体で治験しようって魂胆だよ。良い感じのデータが取れたら毒薬を流し込むから、それで殺すけど…… 
 でもそんなに心配しなくて良いよ! 痛くも苦しくもない、眠るように死ねる薬だ。今まで投与した中で苦悶の表情を浮かべた人は一人たりともいないから。
 
 ──そういう問題では無いと思います。 
 
 ──もっと生きたかったという気持ちを汲めないことは無いけど、こればっかりは運が悪いと諦めてね。来世に期待ってやつ。気休めになるかはわからないけど、君の死は無駄にはならないよ。君の犠牲によって得た知識は必ず他の誰かを救う礎になってくれるはずだ。
 
 ──人からのお願いと先程言われましたけど、断れないんですか?
 
 ──断ったら僕が殺されちゃうよ。死ぬのは怖くないけどね、一応僕がいなくなったら困る人間って沢山いるみたいだからさ。勝手にくたばる訳にはいかないんだ。
 昔から手先が器用で、自分で言うのも何だけど頭が良くて。天賦の才ってやつ? それが他よりも優れていただけの人間なんだ。勿論僕以上に凄い人は星の数よりも多い。でも、だからといって僕がこのギフト……神からの授かり物を世の為人の為に使わない理由は無いでしょう? 僕には人の命を救う力があって、僕がいないと助からない人間がいる。僕みたいな人間はね、彼らの信頼に奉仕しないといけないんだよ。
 
 ──そんなこと言ったって貴方は人殺しじゃないですか。さっさと断って死んでくださいよ。
 
 ──手厳しいなあ…… 残念だけど一度引き受けた仕事は完遂するのがモットーなの。僕の存在が唯一の希望みたいな人達を見捨てるのは心苦しいし。ああ、君を死なせるのも当然心苦しいよ? 人間の死って何度見たって胸が締め付けられるような気持ちになるんだ。僕にとって君は赤の他人でしかないけど、それでもなるべく健やかに生きてほしいよね。
 
 ──なら、これを外してください。
 
 ──外したい気持ちは山々だけど無理なものは無理。頑張って自分の力で抜け出してごらん。まあ絶対できないと思うけど、足掻くのは好きにすれば良い。ただ、他の人の迷惑にならない範囲で頼むよ? 身体に力が入らないようにする薬ならいつでも飲ませてあげられるから、その点を頭に入れといて。
 あとあと、もし万が一拘束から抜け出したとして、建物から脱出する際に上の階に行く馬鹿はいないはずだけど、マジで本当に上の階には行かない方が良い。それだけは約束して。階段降りて出口に向かって。
 
 ──え? 何でですか?
 
 ──僕より頭可笑しい奴がいるから。
 
 
 纏めるとこの男は頭が可笑しい。それは本人も自覚している。そしてこの男以外にも頭の可笑しい人間がいる。とどのつまり私は詰みに入っていました。
 落葉ヒロという男には矛盾しかありません。彼は自ら申告した通り、人を殺すことに対して消極的です。殺すこと、というよりは傷つけることに過剰なまでに拒否感を持っているようでした。死体を運搬する際のあの人の表情といったら可哀相な程青ざめていて、そこに嘘が入り込む隙間は無いように見えました。
 同時に彼は人を殺すことに慣れています。身に余る拒否感情を私に感じさせながらも、その手さばきは素早く洗練されていました。眠るように死んだ人だった物をさっさと担架に乗せて、別の部屋へと移動させるのに数分もかからない。彼の動作には躊躇いというものがありませんでした。きっとあの人にとってはルーチンでしか無い程に繰り返された出来事なのでしょう。
 
 非常に恐ろしいことに彼は普通に優しい人でした。
 
 彼に連れてこられた最初の夜、私はこれまでにない絶望に胸裡を染め上げてただただ泣きじゃくるばかりでした。薄いカーテン越しの他の患者もおそらく私と同じ心境だったのでしょう。度々啜り泣く音が慰めるように聞こえてきました。
 そんな不幸をテーマに描いた絵画みたいな病室にやって来たのが、他でもない犯人の彼でした。あの人はカーテンを潜って私のベッドの近くに辿り着くと、黙って手の拘束を外して、自由になった両手にマグカップを渡しました。
 
 「……外して良いんですか」
 
 「手だけでどう逃げるの?」
 
 ご尤もな発言です。この病室の設備は彼みたいなどう考えても正規の医者らしからぬ者が活用するには信じ難いまでにハイテクでした。私の悩みの種であった身体の拘束もただ紐を巻きつけただけのお粗末なものではなく、ベッド付近にでかでかと備え付けられたタッチパネルを操作することでようやく外せるものだと思えました。私の方からはモニター画面は見えませんが、彼の指の動きからして恐らく指紋認証のロックでもかかっているのでしょう。
 本当の自由なんて私には与えられていません。
 だからそんなに余裕なのです。憎たらしい厳重なセキュリティに守られてるから、あからさまに殺意を向けられてもヘラヘラと笑って緊張感の無い声をかけていられるのです。
 
 「今日は色々あって疲れたでしょう? 慣れない環境に置かれるとストレスが溜まって、眠れなくなるよね。でも人間にとって睡眠はとても重要で欠かせないものだから、若いからって蔑ろにしちゃ駄目だよ」
 
 「貴方何歳でしたっけ」
 
 「今年で20歳ってとこ。ようやくアルコール解禁だよ。ちなみにそれはハーブティー。毒もカフェインも入ってないから安心して」
 
 改めて手元のマグカップに目をやります。湯気だった透明な橙の液体と麗しい花の香りは、二度と拝むことのない太陽とその下で咲き誇る植物達を自ずと浮かび上がらせて。優しくて温かいそれと、隣に立っている青年の胡散臭さの無い微笑にどうにも耐えられなくなって。
 私はカップを彼に向かって投げつけました。
 カチャンと、陶器が粉々に砕け散って勿体ないことに熱々のハーブティーが床に零れ落ちます。
 
 「危ないなあ…… そっちに飛び散ってない?」
 
 彼にぶつかってはいませんでした。私ができる唯一の攻撃はあっさりかわされて、それに怒るどころかあまつさえこちらを心配してくる始末。
 やってしまったとか、申し訳ないなんて感情を抱くことはなく、非常に神経を逆撫でしてくるものがありました。
 
 「お気に召さなかったみたいだね。ココアとかの方が好きだった?」
 
 「何もいりません…… 貴方からのものは何も口にしたくありません……」
 
 「そうなの? でも毎日食事は摂らないと身体に悪いから、そこはきちんと食べてね」
 
 人の良さそうな顔で、さも善人が言いそうなことを美しい唇で紡いで、解せないことに良い人ぶってるつもりすら無く本心でそういった態度のとれる彼はその後、小言の一つも漏らさずにカップの破片とすっかり冷めたハーブティーの残骸を片付けてくれました。悲しい顔の一つくらいすれば良いのに、気に留めずに手早く終わらせた彼の一連の動作が私は口惜しくてたまりませんでした。
   
 殺人鬼なら、サイコパスならもっとそれらしく振る舞えば良いのに。
 
 あの人は異常者に違いありませんが、異常者の癖にとある角度から見ると気持ち悪い程に良く出来た人間でした。
 誰かが誕生日を迎えたら、その日は当人の好物を三食用意して、ケーキと外出以外の欲しい物をプレゼントしてくれます。前に人生最後になるだろう特別な日に家族の写真を希った方がいました。明くる日、落葉はお望みの品を数枚その人に渡したらしいです。全て隠し撮りだったようですが、切迫した状態だと些細なことにしか映らないのか素直に感涙していました。
 
 待遇は悪くない。実験動物にしては寧ろ丁重過ぎる。それ故に思い知らされる絶対に逃げられないという紛れもない事実。
 いつしか私は家族の元に帰るという目的を無理矢理忘れて、この一日一日を楽しむよう努めました。彼が何度も言い聞かせてくれた言葉に倣って、諦めることにしたのです。
 どうせ死ぬのだから。
 あの人が何度も何度も言外に含ませていた台詞です。
 
 。❅°.。゜.❆。・。❅。
 
 「流石に死ぬまで娯楽が無いこの現状は僕もいただけないと思ってて…… 自由に映画とかドラマとかアニメとかバラエティとかを観られるようそのうち設備を整えたいな。拘束した状態でも操作できるやつ。……でも、その為に上の階の奴の協力が必要なのがさぁ。あいつ……あいつか……はぁ…………あいつ頭可笑しいから関わりたくないんだよな……早く死ねばいいのに」
 
 午前一時、弱々しいながらも太陽が地を照らしているだろう冬の昼下り。私は先生と取り留めのない話をしていました。この人のことは恨んでも恨みきれませんが、彼への恨みが薄れてしまう位ここは退屈なのです。先生は話相手としては中々面白く、昼食後に語らうことが度々ありました。
 先生の口から、彼が頭が可笑しいと評した上階の住人の愚痴が飛び出すことは珍しくありません。半ば吐き捨てるように呪詛を唱え、苦虫を噛み潰したような表情で視線を上に向けるのです。
 
 「蛇蝎の如く嫌ってますね」
  
 「蛇蝎の方が可愛げがある。生きてるだけで罪は無いし。アレは生きてるだけで罪」
  
 この人にここまで言わせるなんて一体どんな人なんでしょうか。知りたいような知りたくないような心持ちです。
 
 「話は変わりますけど、貴方はどうして私をここに連れて来たんですか? その……他にも人は沢山いるじゃないですか」
 
 良い機会だったので気になっていたことを質問しました。特に理由は無いと想定しつつも、私は自らが受けた理不尽の責任の居所を知りたかったのです。
 
 「それは単純に運が悪いからだね。僕が被験者を選ぶ基準は健康な15歳から65歳までのD区の人間ってだけ。病人は治療対象だし、幼児と老人を手にかける趣味は無いよ。たまたま目に入ったのが君ってだけ。丁度一人で他に人がいなかったし」
 
 「D区限定?」
 
 引っかかった単語を返しました。一応、彼の殺人は治験のおまけみたいなものなので、健康な人間、とりわけ老若男女の老若の度を越した人間を抜くのは理解できます。しかし地域を指定しているのは釈然としません。
 D区というのは私の住んでいる町の俗称で、大寒区という正式名称があるのですが、通常の会話の殆どでD区と略されます。隣をCとE、霜夜区と煙霧区に囲まれているせいだと勝手に睨んでいます。
  
 「D区以外は他の奴の狩場なの。遅い忠告だけど間違ってもC区とかE区とかを一人で歩かない方が良いよ。ほら、特にE区とかはアレのテリトリーだから」 
 
 またもや苦虫を噛み潰したような顔で彼は上を指しました。
 
 「まあ、隣の区の担当がやって来ないとは限らないけど。大きい家の清掃員を雇う時にこいつは一階担当、二階担当って分担してるようなもんだから。蒼真もそんなに強く言ってこなかったし」
 
 「蒼真?」
 
 「えっと、僕の育ての親?はちょっと違うな…………上司? うん多分上司かな、そういう感じの人。はっきり言って彼も大概頭可笑しいし何なら一番頭のネジ緩んでるまであるけど、まあアレよりは話ができる分マシ」
 
 「上の人よりも? それはちょっと矛盾しませんか」
 
 先生よりも頭が可笑しいらしい上階の住人と、一番頭が可笑しいけれど話ができる為上の階の人間よりもマシな蒼真という上司。いまいち力関係というか、どちらがまともな人間なのかがわかりづらい。どちらもまともではなさそうなのは一先ず置いておいて。
 私が疑問を述べると少し間を挟んで、先生が説明を始めました。
  
 「虎をペットにしてる人間ってさ、命知らずでイカれてると思うじゃん? でも恐いのは人間よりも虎の方だよね。蒼真の頭のネジは外れまくってるけど、所詮は人間なんだよ。正気の沙汰とは思えないかな〜 いつか食い殺されないか心配」
 
 ケラケラ笑いながら喋るその姿に心配の色は見当たりません。彼なりの冗談でしかないようです。
 
 「貴方は食い殺さないんですね。嫌な顔して人を殺すのに。その蒼真って上司に強要されているんでしょう?」
 
 「僕もあいつに飼い慣らされてる犬の一種だけど、特に逆らう気は無いよ。彼も結構怖いし、それ以上に見捨てるのは可哀相だから。何より恩恵が大きい。あいつが僕の邪魔さえしなきゃ適当に協力してやろうかなって。目的なんて知る由もないし、知るつもりもないけど。
 ……話を戻すようで悪いけど、僕が連れ去る対象って、D区でふらふら歩いてた健康で幼すぎず老いすぎていない人間だけじゃないんだ。特別枠もいるの」
 
 はて、それはどういったご条件でしょうか? 問う前に彼はうっとりと宙に視線を彷徨わせて、先程までのフランクさを何処かに棄てて別人のように静かに喉を震わせました。
 人の目の色が変わる瞬間。まさに今がそれそのものでした。ブラウンとブルーの宝石の双眼に私は映っていないようでした。
 
 「青い目の人。青といってもただ青ければ良いって訳じゃないよ? 海よりも慈悲深く、空よりも澄み渡り、宇宙よりも大いなる色じゃなきゃ」
 
 落葉先生が夢の話をし始めたのはそれからです。
 
 。❅°.。゜.❆。・。❅。
 
 ──彼女と出会ったのはいつだったかな……
 遠い昔のことだけど今でも昨日の出来事みたいに思い出せるよ。これは僕が生まれる前の話なんだけどね。そう前世ってやつ。君は生まれ変わりを信じる? 人が死んだ後はその魂はあの世……彼岸に運ばれ、現世での行いによって地獄や極楽に行くことになる。そこで罪を償うことにより再び魂が現世に還ってくる。そんな嘘か本当かはわからないけれど、誰もが思い描いている理想絵図。僕は信じてるよ。
 ええ……? 確かに人殺しは地獄行きだろうけど、そんなことはどうでもいいんだよ。彼女さえ傍にいてくれれば僕の行き先は何だっていいんだ。
 僕は前世でも医者をしてて、彼女と出会ったのは職場だった。僕は自分のこと天才だとか何だとか言ったけど、これって前世の影響なのかな〜と思ったり思わなかったり。彼女は医者じゃないよ。患者でも看護師でもない。何かの研究者だったはず…… 
 ごめんね。出会ったきっかけはともかく、細かい前世の記憶は無いんだ。ただ僕は今と同じように医療機関に勤めて、そこにたまたま来ていた彼女に出会ったの。
 一目惚れだった。
 運命って言うのかな。とにかく身体全体を電撃で貫かれたみたいな衝撃が走って、すぐに彼女のことを好きになった。この世どころかあの世にいる誰よりもあの人は素晴らしく美しく可愛らしかった。この感動を表すのにはどんな詞も絵具もカメラも楽器も物足りない。どんなに僕が頑張って彼女の魅力を伝えようが、本物を一目見る方が確実なのさ。
 一目惚れとは言ったけど、知り合って交流していくうちにどんどん僕は惹き込まれていった。何度見たって惚れ直せるし、見た目以上に彼女は素敵な人だった。僕は彼女の純粋で透明な青い瞳が大好きだった。
 それだけは覚えてるよ。本当にそれだけは。
 だから僕はまた今世でもあの子に会えると思ってて、生まれてからずっとあの子を捜しているんだ。僕は人間に生まれてきたけど、あの子も同じように人間なのかはわからないから全ての生物、時には生きていない物まで広範囲に渡って。これは僕の勘なんだけど、彼女はまたこの世のものとは思えない程美しい青い色でその身を彩っていると考えているんだ。
 根拠? 特に無いよ。でもわかるの。なんたって僕と彼女は前世で深く愛し合った恋人同士であり、運命の切っても切れない赤い糸で固く繋がっているんだから。ね?
 人になろうが、蝶になろうが、花になろうが、空から降り落ちる雨粒の一つに生まれようが僕はこの広大な宇宙から砂粒のようなあの子を必ず見つけ出せる。そういう星の下に生まれてきたのです。
 ああ、もしかして僕がそういった存在に恋の目を向けるのに違和感があるのかな? 凄く怪訝そうな顔をしてるね。でもそんなことを一々理屈で考えるのはナンセンスだよ。恋、そして愛の前にはありとあらゆる事象は酷くつまらない、些事でしかない。年齢も性別も身分も血縁も種族も生死も実体の有無も関係無いんだ。あの子のことが好き。それさえあればそれで良い。
 新たな生を受けてからの二十年間、僕はひたすらにあの人の面影を追いかけ続けてる。その為に利用できるものには何だって縋り付いた。世界は広い。目的を達成するには蒼真の力が必要不可欠だった。最初に尋ねた君の個人情報はね、全部あいつが用意してくれたものなんだ。彼に頼めばすぐに手配してくれる。あいつはこの街の人間のことなら何でも知ってる。彼の頼みを大人しく聞いている本当の理由はそこだよ。あいつと生まれついての付き合いで良かったと心底思う。やっぱり彼との出会いも天が僕に与えてくれた運命の一つなんだろう。僕と彼女を結び合わせる為の架け橋さ。
 強力な力添えもあって次の彼女たる存在を見つけることは容易だった。僕は一頻り狂喜したものさ。
 それをだよ?
 あ゛〜今思い出しても腹が立つなぁ…………
 アレが僕の邪魔をしやがったんだ!
 あの口に出すのも穢らわしい薄汚い溝鼠の分際で! あの男だけは赦さない。必ず雁首切り落として地獄に落としてやる。
 …………ごめん、目の前で不快害虫の話なんかしちゃって。
 アレの名前は申し訳ないけど教えてあげられないな…… 口に出すと僕までクズが伝染りそうだ。
 前にもお願いしたけど、もし何かの手違いでこの部屋から抜け出せたとしても絶対に4階には上がらないで。そして二度とE区には入らないこと。
 僕や蒼真の方が死体の状態が綺麗だから。顔の判別がつく。
 ……色々とあって彼女を喪ってしまったけど、僕は次の彼女を見つけることに成功した。今度こそ麗らかな日々を過ごせるものだと思っていたんだけど……
 なんでかなあ? どこが間違っていたのかよくわからない。慣れない環境であの子を混乱させてしまったのかも。
 僕の管理地域から逃げ出そうとしたんだ。外は危険なのに。僕の領地はこの建物の3階だけ。4階はアレだし……2階は蒼真のところであいつは話が通じるけど、仕事が早いから脱走者は即処分される。
 仕方ないから僕が殺すしかなかったね。知らない男に殺されるよりは見知った仲である僕の手で死んだ方が安心できるだろうし。
 それからずっとそういうことの繰り返し。見つけて、逃げ出されて、殺して……
 できるだけ好きな人には自由に豊かに行動して欲しいから、君達みたいにギチギチに拘束したくないんだけどなあ。良い子にしてたらその内太陽の下で遊びたいのに。
 この症状が続くようなら別のアプローチを考えた方が良いのかな、と。
 僕の夢は、またあの子の傍にいること。またあの子と愛慕を寄せ合うこと。あの子と婚姻して、子供はそうだな……二人以上は望みたいね。彼女さえいれば僕はそれで満たされるけど、それはそうと家庭を持つことに憧れがあるんだ。
 今の僕には家族と呼べる人間がいない。生まれた頃から近くにいた蒼真は、血縁はないし、育ての親とするには違和感があり過ぎる。どこの世界に幼い息子に人を殺させる奴がいるんだって話。同じく生まれた頃から傍にいる兄弟は全員気狂いでさあ。
 あ〜そうそう、上の階にいる奴も血は繋がってないけど一応兄弟だよ。同い年だけど誕生日はあいつの方が早いから、アレが兄か…… 最悪だ認めたくない。
 はあ…… さっさと結婚してこの腐った家族関係を一新したい……
 大丈夫。僕には彼女がついているから幾らでも頑張れるよ。彼女と共に生きて死ぬことが僕の人生における目標なんだけど、別の形で達成はできてるし。
 殺したあの子の亡骸なんだけど、当然燃やしたり埋めたりはしていない。そんなの可哀相だもの。
 食べる……ああ、それもあるね。死者の魂を身に宿す為にその人の血肉を食らう。胃で消化し、腸の中に通すことで相手の存在によって自分自身の細胞を形成させていく。信仰としても、医学的な観点から見たとしても共に生きていくことになる。細胞はすぐに入れ替わってしまうから、どちらかというと信仰的な意味合いが強いけど。カニバリズムには亡き人を想って食すことで永続的な関係を築くという儀式的な側面がある。僕のもそれに入るだろうね。ある種の葬儀だよ。弔いなんだ。
 僕は素材の味、と言うと不躾だな。彼女本来が持ち得る魅力を身体に収めたいから、基本的に調味料は使わない。薄く肉をスライスして、フライパンで軽く焼いて、それでお終い。グラスに血液を注いで、眼球はそのままの方が良いな。内臓は調理が必要だけど、肉と同じく味付けはしない。
 ありとあらゆる部位を頂いてきたよ。どれも感動して涙が出てくる程美味だった。普通の食事とは違うんだ。舌で感じる味じゃない。心が、脳が彼女という尊い命の輝きにより多幸感を得るんだ。美しい味。まさにその通りだった。この儀式により僕の内には彼女が息づいている。
 でもそれだけじゃ足りなかったんだ。やっぱり儀式は儀式。もう少し確証が欲しい。
 ……ところで君はこの病室には女性しかいないことに気づいていたかな?
 気づいてた? よく見てるね〜偉い偉い。
 まあ患者のプライバシーを考慮して男女を分ける程度の配慮は当然さ。それ以外にも理由があって、男女で実験の内容が違うんだ。君達には薬の治験をやってもらっているけど、隣の部屋では内臓を切り離して別の人間の内臓と交換する、移植手術の実験台になってもらってるの。僕が前に開発した細胞。あれは人間の自動治癒能力を極限まで引き出すことができて……難しいことは置いとくけど、腕を切断してもくっつければすぐに治るようにできるんだ。他にも活用次第では他人の身体部品を接合しても拒否反応を引き起こさずに受け入れさせることができたり。あと、老化防止にもある程度の効果が見込めるね。結構負担がかかって寿命がガリガリ削れるから、今は部分的な使用を推奨してる。無視して全身に置き換える子もいるし、僕もそうだけど。
 人の命は無駄なく使うべきで、生まれ持った才能は人の世の役に立てるべき。丈夫な人間は多少の痛みには耐えてもらわないと困るんだよね。なのにあいつらときたらギャーギャー喚いて…… おっとこのままだと愚痴に移行してしまう。
 腕、脚、眼球、肺、肝臓、腎臓、膵臓、胃、腸は成功したんだ。これらは別人のものと交換しても拒否反応を起こさず、何も問題なく機能するようになった。心臓と脳と、それから血液の交換はまだ成功を収めていない。僕は彼女の心臓が一等欲しい。ただ流石に現段階だと人間の身体から心臓を抜き取ると死んでしまうんだ。胃に溶かして魂を得るのは簡単だったのに、実物となると中々上手くいかないものだね。
 そうそう! 君の言う通り、僕のこの手も脚も左眼も元は彼女のものさ。見た目じゃわからないだろうけど、肺と肝臓と腎臓と膵臓と胃と腸も。そのままだと僕の形に変形してしまうから、彼女の部品のまま保つのは苦労したね。
 あはは!! もしかして僕に女装趣味があるとでも思ってたのかな? 全然違うな〜 これは彼女の手で彼女の脚だから、あの子に似合うように着飾ってるだけ。美しいものを美しいまま保つのは当然の責務だよ。彼女の身体を借りるにあたっての敬意だ。脚を変える際に、彼女の脚の素晴らしさが損なわれないよう身長も頑張って14cmは伸ばしたしね。
 敬意と言えば顔もそうだな…… 左眼を貰う時に思い切って変えてみたんだ。ほら、至高の絵画はそれだけで観る者を感激させるけど、額縁が見合っていなければ感動が減少するかもしれないだろ? 僕がこの世界で一番愛しているあの子の世界で一番美麗な青い瞳だ。それに相応しい顔の造形でなければ眼窩に入れるのは許されない。知り合いに絶世の美青年たる人がいて、彼を参考にさせてもらったんだ。
 どうかな? 結構イケてるでしょ? 髪の色も変えて、瞳の邪魔になる眼鏡も止めて別人みたいになっちゃったけどあの子が気に入ってくれるなら構わない。気に入ってくれるかな?
 お気に召さなかった場合はあの子の好きなようにまた整形し直すつもり。
 手術は自分でやったよ。僕が一番信頼できる医者は僕自身以外にいない。自分で自分の腕と脚を切り離して彼女の手脚を接合して、自分で自分の腹を裂いて彼女の臓腑と交換して、自分で自分の顔の皮膚を取り外して骨の形を変える位なら余裕でできる。生まれつき天才だって言ったじゃん。不可能だって可能にできるんだよ。
 ……まあ? 流石に手の数が足りなくなるからアレの力を借りざるを得ないところもあったけど…… 仕事の優秀さに関してだけは信頼できるから…… 人格はゴミだけど。
 彼に代わりの手となる機械を作ってもらって……というかこの建物にある装置は大体あいつにやって貰ってるから、殺すには惜しい人材ではあるんだけど殺意の方が勝っちゃうな……
 痛くはなかった。普通の人間なら苦痛に悶え苦しむような事でも僕は全然平気。これも才能だって? 違うよ! これは愛の為せる技なんだ!
 彼女を想ってやることなんだから、そこに苦痛が伴うはずがない! 残り少ない人生にはなったけど、後悔なんて微塵もしてないね。あの子と生きられない人生に何の価値がある?
 彼女の目で見る世界は美しい。彼女の肺で吸う空気は美味しい。彼女の胃と腸で味わう彼女の肉を生きる糧にできることが何よりも嬉しい。仮令、手術の過程で死んでしまったとしても愛に殉じて死ねたなら僕にとっては大正解のトゥルーハッピーエンド。
 左眼しか交換していないから一時的にオッドアイになっちゃってるけど、そのうち右目も欲しいな〜
 実験が上手くいけば心臓や脳味噌や血液も全部あの子のものにしたいねぇ。
 完璧な身体だ。僕の大好きなあの子を生きているだけで感じられる。
 君があの時投げたマグカップ、当たらなくて良かったね。僕の反射神経が悪かったら全身の皮膚を裏返しにしてたところ。
 ……うそうそ、冗談! 冗談! そんな猟奇趣味ないよ! 普通に殺すだけだから!
 君、僕のこと頭可笑しい奴だと思っただろ。顔見れば普通にわかるよ。怒ってない怒ってない。
 でも、狂気的な愛だとか狂気的な恋だとか、そういった表現は間違いだと思うんだ。恋愛なんて元から狂気の沙汰なんだから。狂気的でなかったら、それは愛でも恋でもない別の何かだよ。
 3月うさぎは繁殖期のうさぎのこと。基本的に繁殖期の動物は煩くて忙しなくて気が触れてるように見えるんだ。好きなものへの想いなんて気が触れる位が丁度いい。あの子の為なら何だってするし、何を犠牲にしてもいい。
 人の命? 大切だと思ってるよ。当たり前でしょう? 彼女の次にだけど。
 そこまでやる理由……?
 ちょっと!? 今までの話聞いてた?
 あの子のことが好きだから。それ以上でもそれ以下でも無いんだって。
 
 。❅°.。゜.❆。・。❅。
 
 落葉先生はいつもこのような内容のお話を私にしてくれます。荒唐無稽で信じ難く、狂人でももう少し現実感のある話が作れそうなものですが、今の私にはこの妄言としか言い表せない音の連続で良いのです。
 私に事の真偽はわかりませんが、彼の気が違ってるのは疑う余地がありません。そしてこの人の背が高いこと、作り物の如く美しい相貌をしていること、目の色が左右で異なること、両の手足が男性のものとは思えないことも事実として存在しています。
 先生は自身の眼球、特に左の眼を自慢に思っているらしく事あるごとに綺麗?と尋ねてきます。この質問を間違えると命がありません。私の隣のベッドで寝かされていた同い年の茶香は咄嗟に怖いと答えて、首をメス、スカルペル、ランセットで貫かれて息絶えました。彼女も彼の話を聞いていたようです。彼女とは退屈と恐怖を紛らわせる為に色々な話をしました。家族のこと、学校のこと、友達のこと、将来のこと。
 自分がやったことなのに、先生は数秒後かなり焦った様子で彼女の傷口を塞ぎ様々な処置を施したのですが、即死だったらしく彼女は結局生き返ることはありませんでした。じわじわと死に近づいていくことと、一瞬で何もわからないまま死が訪れること。どちらが良いのか私にはわかりません。
 その後彼は携帯端末で誰かと連絡をとって、彼女の骸を運び出す準備と飛び散った血の始末をしました。
 数分経つと出入り口から先生よりも背丈のある長い髪の男が呆れながら茶香を受け取り、外へ連れて行きました。ちらと覗いた顔立ちは容姿端麗という四文字があまりにも似合い過ぎていて、ああこの人が本物のロシアンブルーだと私は思ったものです。長い灰色髪の痩身長躯の青年の目には憐憫しか込められていませんでした。彼はこの病室という小宇宙に漂っている森羅万象を憐れんでいました。死体と血と死を待つだけの私達、さらに先生のことすらも。
 けれど助けてと声をあげたところで彼は救いの手など与えてくれなかったでしょう。あの人も諦めの中で生きているのだと感じました。
 
 「またやったんですか? いい加減治してください。貴方の悪い癖ですよ」
 
 「ごめんなさい申し訳ないです…… 遺体保管庫が満員なこと忘れてて」
 
 「はぁ………… 次からは気をつけてくださいね。私も暇ではないので。今遺体保管庫にいるものも全て埋めてよろしいですか?」
 
 先生がお願いすると青年は無言で茶香と共に部屋の外へ消えていきました。その時に見た彼女の姿を私が忘れることはないでしょう。寂しくはありません。私もまた彼女と同じところに還るのです。
 今日も運良く私は生き永らえる。死に損なう。得体の知れない先生の夢見がちな物語を聴いて眠りにつく。
 
 
 「ねえ先生。その赤い糸、きっと切れてますよ」
 
 私は戯れに彼の意に反することを言ってみる。この人が私をすぐに殺してくれるかもしれないと何となくの望みをかけて。
 
 「だから何? また結び直せばいいじゃない」
 
 先生は私の意図など知らず気にせず無邪気に笑って、そう返しました。時折遠くを眺めるその二色の眼に何が映っているのかは誰にもわかりません。先生も、もしかしたらわからないのかもしれません。
 彼は、たまに、極稀に、酷く悲しそうな色をそこに宿します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?