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ディズニーランドを楽しむ側になるか、つくる側になるか。

週1noteに参加しています◎!明日27歳になる、まちづくり会社人事です。

面談をしていると「自分らしく生きられる人を増やしたい」「ありのままで生きられる社会を作りたい」「人に寄り添いたい」「愛や優しさが循環する世界をつくりたい」といった言葉をよく聞く。

めちゃくちゃagreeなのだけれど、話を聞いていると少しだけ違和感を感じることがある。
なんでなんだろうとずっと思っていたけれど、例えるならば、ディズニーランドを楽しむ側になるか、つくる側になるか。ということなのかな、と最近思ったので、少し書き残しておきたいなと思う。

ディズニーランドを楽しむ側になるか、つくる側になるか。

ディズニーランドが好きで、勉強とか仕事とか嫌なことを忘れて思い切り好きなように楽しみたい、ハラハラしたい、ワクワクをもらいたい、感動したい、ハッピーな気持ちになりたい、というのと、ディズニーランドをつくること、ディズニーランドで働くことは全くの別物だ。
ディズニーランドで働いたら、ワクワクできる、自由に過ごせるわけではないのに、ディズニーランドの仕事にそれを求めているような。

「自分らしく生きられる人を増やしたい」「ありのままで生きられる社会を作りたい」「人に寄り添いたい」「愛や優しさが循環する世界をつくりたい」
そう言う人の多くは、自分がそれを求めている人が多い気がする。

もちろん、この考え方自体に反対する人はいない、みんなが良いねと言ってくれると思うけれど、だからこそ、危うさもあるなと思う。

ディズニーランドも、その楽しさやワクワク、感動の裏には、きっと並々ならぬ努力がある。ショーの練習、色々な関係者との調整、皆が思い切り楽しめるような仕掛けづくり、ルールの整備。きっとその中心にいる人は、沢山の汗と涙があって、沢山の無理をしている。
ダンサーは、人一倍地味で地道な練習を重ね、人一倍厳しいフィードバックをもらい、人一倍の努力をしている。
彼らが、ディズニーランドはハッピーで誰にでもウェルカムな場所なんだから、厳しいこと言わないでよ、全員にチャンスをくれよ、もっと褒めてよ、優しくしてよ、自由に好きにやらせてよ、もっと楽に楽しくやらせてよ、と言い始めたら、多分、お客さんが「勉強とか仕事とか嫌なことを忘れて思い切り好きなように楽しみ」「ハラハラ、ワクワクして」「感動して、ハッピーな気持ちになる」ことはできない。そこを混同したらプロにはなれないんじゃないかな。人の心は動かせないんじゃないかな。

「ハッピー」を大事にしたい、「ウェルカム」を大事にしたい、それ自体は世界平和と同じようにみんなが賛成ではあるから、綺麗な、誰にも否定できない、その言葉に逃げたくなるけれど、その言葉を盾に、権利だけを主張することは違うと思う。

他者を、社会を変えるには、自分が変わることが必要で、自分が無理することが必要になる場面もある。
いわゆる自分らしさだと思っているものを手放したり、ありのままから変化することを求められるかもしれない。

ありのままでいること=無理しない、今のままで良い、現状維持でも良いけれど、その場合は、ディズニーを楽しむ側でいた方がいいのかもしれない、と思う。

本当の意味で自分らしく生きること、本当の意味で自由に生きることは、多分思っている以上に大変だと思う。自らの意思を持って、その意思を実現するための努力をする。何かから逃げずに、それを繰り返すことができる人が、本当の意味で、自分の望む生き方ができるんだと思う。

人生そこそこで良い、仕方ない、土日だけ楽しいことできれば人生ハッピー、小さな幸せ万歳、と思って生きた方が悩まないし、誰かが作った楽しさを時折享受する側の方が楽だし、今のままで充分だ、と思うほうが楽だと思う。合わない環境からは逃げて、どこかそのままの自分を優しく肯定してくれて、何もしなくてもそのままでいい、と言ってくれる環境がどこかにあると信じていた方が楽だと思う。

けれど、それは環境や他者に、幸せを委ねている気もする。

もちろん人それぞれの幸福観があっていいけれど。
もしも本当に何かを大きく変えたいなら、多くの人の変化をつくりたいのであれば、ディズニーランドをつくる側になるのであれば、それは、優しさ楽しさ温かさだけではない、それなりの何かが必要なんだと思う。

それをやらないうちから、もしくは片足突っ込んだだけで、分かった気になって、「自分らしさ」や「ありのまま」を語るなと自戒を込めて思う。1週間ディズニーでバイトしただけで、本当のエンタメをわかった気になって語るのは痛い。

人それぞれの価値観があって、役割があって、タイミングがあるから、全員が全員つくる側に回ること、その努力をすることが必要とは言わないけれど、でも、自分は作り手でありたいし、作り手を増やしたいとは思う。本当の意味で自由に生きる人を増やしたいから、全部今のままそのままで何もしなくていいよなんて無責任は言わないし、対峙する人にも変化を求めるし、成長を求める。し、自分もそうでありたい。
もちろん、親やパートナー、友達、その人の甘えやわがまま、逃げを思い切り受け止める人もいていいと思う。全員にそれを求めることや、作り手として関わる場や仕事にそれを求めることが違うんじゃないかなと思うだけであって。

私自身が、「自分らしく生きられる人を増やしたい」「ありのままで生きられる社会を作りたい」「人に寄り添いたい」「愛や優しさが循環する世界をつくりたい」という思いがあって、時折自分はどっち側なんだろう、と迷うからこそ、勘違いしそうになるからこそ、26歳最後の日に、今の暫定解を改めて。

ちなみに、こんな偉そうなことを書いておきながらだけど、人事は意識高くなりがち、と聞いたので、本当に勘違い野郎にならないように、人のことも自分のことも分かった気にならないように、気をつけないと、と常々思う。人を、あくまでも会社に合うか合わないかではあるけれど、毎日良い悪いと判断しているうちに、なんか分かった気になって、本当にこんな人ばっかりで日本大丈夫かしら、なんとかしなきゃ、みたいな謎の立場を取りそうになる。
日々、目の前。ひとりひとり。愚直に。

(同時に大胆にチャレンジして楽しむ1年に!まだまだ人生の可能性を信じて足掻く1年に!)

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