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2度目の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」2時間半に同世代の思いや考え方が詰め込んである。そして、私との「縁」

「名探偵コナン」新作上映にともないということか、いわゆる特殊上映が終わるという日に、2回目を、TOHOシネマズの轟音上映で観てきました。やはり画面の大きさがあるのでIMAXの方が没入感はありますね。音はいいことに越したことはありません。この映画、音作りもかなりしっかりできていますものね。映画自体はどのスクリーンで観ようと傑作というしかありませんでしたが。ということで、今日はネタバレ満載で感想を書かせていただきます。見ていない方、嫌な方は、この先読まないでください。

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冒頭、荒廃したパリ。そこで、シャンソンではなく、「真実一路のマーチ」「世界は二人のために」という二曲が流れながら戦闘が始まる。ここでエヴァに乗るのはマリ。最初と最後に彼女を据えることでこの話はまとまっている。音楽のことに関しては、この後でも「人生を語らず」とか「さよならジュピター」のテーマでもあった「VOYAGER ~ 日付のない墓標」などのいわゆる日本の歌謡曲が流れるわけだ。もちろん、日本の作品であることを高らかに示しているとも言える。こういう曲に外国の方はどういう反応をするのか興味はある。あくまでも、こういう部分は、庵野総監督の生きた中で心にこびりついていたものが使われている感じ。それが庵野の頭の中のカオスの一つとして存在するだけなのだろう。そして、好きなものを自分の映像に入れ込んでいる。深く考えても仕方ないが、彼と同世代の私には、かなり印象的に残る。そう、これだけ考えてもこの映画は我々世代のものなのかもしれないと思えてくるのだ。

子供である、碇シンジをエヴァの機能としてモノとして扱う感じも、高度成長のなかで苦なく生きてきた我々が、受けてきた洗脳の果てに、子供はものとして扱うものになってしまったということなのかもしれない。物欲主義の中で愛情が欠如して行ったのは確かだ。妻を亡くして、綾波レイを作る話も、つまり、自分の愛するものを量産するという思想は、私たち世代ぐらいの人が考えたこととして違和感がない。そう、こういう生命の永久化みたいなものは、手塚治虫の「鉄腕アトム」や「火の鳥」の思想にも近い。だから、ゲンドウが細胞レベルだけで地球を残すという人類補完計画に加担する感じは理解できてしまう。

そして、この話の中で、生き残った人々が住む「第3村」の中での、生活はラストに向けての承前としてはとても印象的に描かれている。まず、タイトルが出て、クレジットが流れる中、アスカ、シンジ、レイのそっくりさんが、ニーノ・ロータ的な哀愁ある音楽の中、赤い世界を歩いていくのがうつされる。人類補完計画が進む中で、「ニアサードインパクト」に自ら落とし込んでしまったシンジはもはや廃人。この生き残ったものが生きるための村は、彼が再生するために作られたものなのだろう。そして、レイの化身の「そっくりさん」と呼ばれる人格は、彼の復活とともに消える。ここからが最後の戦闘に入るところだが、そこに至る空気感がとても怖いし重い感じが良い。そして、ここは庵野総監督の現在持っている人類の未来感なのかもしれない。そう、未来と過去、誕生、成長、破壊みたいなものがカオスに問いかけられる映画の中で、第3村は一つの理想郷なのかもしれない。

そして、エヴァの最終形である13号機に向かって戦闘をするが、歯が立たない感じは、画面の中から痛いほど感じられる。そこで、シンジがエヴァに乗るというが、彼がこの世界を作った加害者であることで、彼に恨みを持つ被害者たちが心を乱す。これが、この話の混沌のあるべき姿。正義などどこにもない感じ。彼が父親である碇ゲンドウと戦うことでしか終息しないというのは、必然だろう。そんな中、「アディショナル・インパクト」なるものに世界が変容する。このシュールな感じも、手塚や石ノ森の漫画を読んでいた人が作る世界だ。この辺りの描き方は、私はすごい好きである。脳髄を撃たれても再生するゲンドウはもはや「火の鳥」の血を吸ったようなものなのだろう。そう、不老不死的なことを考えるというのは狂気なのだ。ものは生まれて朽ちることで成立している。

あと、エヴァ初号機同士でバトルするところは、「ウルトラマン」の記憶でしかないですよね。家の中や学校の教室で闘うのは、実相寺昭雄監督へのオマージュだったりもするのだろう。自分が育った中で怪獣映画はとても強烈なものだ。怪獣ブーム第一世代の庵野総監督でないと、こんなシーンは入れないだろう。

シンジとゲンドウが古い電車の中で語る場面は、昭和の雰囲気を漂わす。そう、庵野の理想的な世界は自分の子供時代ということなのかもしれない。ゲンドウがここに至った心模様はラフなスケッチアニメで語られるが、ここで話される若い時のゲンドウの心は多分に庵野総監督のことのように感じる。もちろんフィクションだろうが、ラストに近づくほど、作り手とのシンクロ感を隠さずに吐露しているようなところが、この映画の力強く、正直なところなのかもしれない。

最後は、エヴァの合体と、ミサトたちにより新しく作られた矢による特攻で、世界は元に戻るのだが、色々と刹那さが膨らんでくる。そう、最後までカオスの中で観客はかき回され、庵野の故郷である宇部新川駅に連れていかれる。こういう展開は、壮大な高校の文化祭の映画を見せられているようでもある。庵野のクリエイターとしての心が10代20代の青春期から止まっている感じだ。そして、大人になって前を見るシンジのところにマリがやってきて終劇。確かに、ここでカオスにはケリがついている。

生き残って、再生した世界にいるマリはとても美しく、シンジも前に向かって駆ける感じ。庵野が描きたいのは、複雑な物語ではなく、昔のような少年漫画なのだろうとも思う。そう、我々世代、今の天皇陛下と同じ時代を生きてきたものたちの映画であった。それだけに、多分、何度見ても色々な妄想が脳裏を浮かぶすごい映像世界なのだ。庵野秀明氏には、「この映画を完成してくれてありがとう」と言いたい。

そういう意味では、同世代(1960年初頭の生まれの世代)とこの映画を語りたい人は多いのではないか?

そして、追伸

このドラマの中でシンジとゲンドウを取り持つSDATと書かれたDATのウォークマンが出てくる。SONYが発売したウォークマンの中で再生専用のDATウォークマンはただ一つである。そして、この映画に出てくるSDATのそれは、そのデザインをモデルに液晶を本体に加えているだけのものである。私は機械設計者をやっていた頃、このモデルになったウォークマンの設計部隊に加わって、その筐体の設計を行っていた。その設計の時間は脳裏に残っているし、現物もまだ持っているが、とにかくその私の記憶の中にあるものを、この映画の中に使っていただいたことを本当に感謝している。それも、重要なアイテムとして。これからほぼ永遠に残るだろう映像の中に、私が仕事として形にした製品が出ていることは、「縁」を感じずにはいられないのである。庵野総監督はこのモデルをお持ちなのだろうか?それはともかくも使っていただいたことに感謝しかない。素敵な映画に私の化身を出演していただき、ありがとうございました。

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