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「ケイコ 目を澄まして」16mmフィルムに焼き付けられた画と空気感とそこから広がる世界への疑念。

この映画は16mmフィルムで撮られたそうだ。それなりに画質は粗いが、昨今のデジタル技術は、それを違和感なく映画館のスクリーンに映し出す。映画がフィルムのみで上映されていた時代は、16mmを35mmにブローアップして上映することはあったが、その画質は映画館で見るとやはり安っぽく映ったし、観ていて疲れた。まあ、今、16mmで撮ることに意味があるかどうかは置いておいて、その映像から醸し出す空気感はなかなか硬質であり、昭和の臭いのするものに仕上がっていた。

だいたいボクシングを主題にした映画で、舞台は荒川区。そして、荒川の河川敷がやたら出てきて、ジムはオンボロ。ほぼ、「あしたのジョー」の世界である。そして、主人公は実在の人物をモデルにしているとはいえ、学生の時は結構荒れた生徒だったということ。そして、彼女がボクシングを続ける理由は、最後まであまり見えてこない。多分、ボクシングに向かう一瞬一瞬に生きることを感じるのだと私は理解したが・・・。

今のジムがなくなるということで、最新設備の整ったジムに見学に行くシーンがある。これ、ジョーが「白木ジム」に見学に行くシーンに似ている。そこで、主人公は、「ここは通うのに遠い」と断る。その断る理由が強く観客にわかる感じは、この映画の空気感みたいなものがよくわかるシーンだと思う。

私が、この映画を見たいと思ったのは、まずは主題がボクシングであること。そして、主人公のボクサーが耳が聞こえないでプロライセンスをとった実在の人物であるということだった。主演、岸井ゆきのというが、今ひとつピントはこなかったが、今やどんな役でもこなす役者ではあるので興味はあった。

でも、私が思った映画とはかなり違っていた。先に書いたようにその空気感は良い、スクリーンに映し出される画にも力はある。だが、そこには何か懐古趣味的なものを感じずにはいられなかった。

そして、ボクシングシーンがあまり熱く描かれていないことに落胆はした。岸井はそれなりに練習したのだろう。ボクサーの顔にはなっていたが、そのリングに上がる心根みたいなものがしっかり撮られていないのだ。カット割がしっかりできていないでアップが少ないのは、予算の関係?

だから私には、監督はリングの上の彼女よりも、聞こえない世界で生きている彼女の生活に興味があるように感じられた。だが、そこで観客に何を訴えたかったのかは最後までよくわからなかった。

途中で、雑誌のインタビューか何かで、ジムのオーナーの三浦友和が彼女がジムにやってきた話をする。映画にするなら、そこからプロライセンスを取って初勝利を上げるまでではないか?と思った観客は私だけではあるまい。そこしか、熱い映画が撮れる部分はない気がする。でも、そこは写真すら出てこない。ということは、ここで監督が提示したいのは、そのボクシングをやり続けて、引き際がどこにあるのかということらしい。

そう、ジムがなくなり、自分もボクシングから離れたくなったその状況の部分を映画にして、この生きにくい世界にいる我々に何かを伝えたいということなのだろうと思うが、そこが映画として結実していたといえば、ノーである。私は映画をTKOした感じで、映画館を出た。

主演、岸井ゆきの。彼女の役者としての印象を強くしているのは、彼女の声質であることは確かだ。それが苦手な人もいると想像できる。そんな、彼女が「はい」と一回言うくらいでセリフを喋らない。これは、役者としてはかなりの挑戦である。彼女自身はそれを好演していると言っていいと思う。しかし、彼女の演技が映画を大きくする要素になりきってないのは、もう一つ映画のパッションみたいなものが盛り上がっていかないからだろう。そして、声のない彼女は役者として大きく見えてこない。

映画自体の「音」が少ないのもあるが、色々と説明不足も多い。弟との関係や母親との関係なども、描けているようで描けていない。弟の恋人が黒人なわけだが、同じマイノリティ的な要素を置くことで何を言いたいのかもよくわからなかった。

とにかくも、先に書いた、「彼女がプロボクサーになった日」が観たくて仕方がないと言う気持ちの中でモヤモヤするところにループしていくのだ。

予算の関係だろう、三浦友和以外はキャストのお金がかかっていないが、その妻を演じる仙道敦子さん、久々に拝見しましたが、存在感ありますね。これからのお仕事期待しております。


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