「季節のない街(第8話)」今日で全てが終わるさ、今日で全てが変わる、今日で全てが報われる、今日で全てが始まるさ
ガンモドキの後編。しかし、この作品、ディズニープラスで流すことが前提だったのでしょうね。変な、地上波のコンプライアンスで寸止めされたドラマではない。そして、このくらいのものは、過去には平気で作れたのに、今では作ることもできないという虚しさも感じる。そして、地上波での放送も深夜である。前からわからないが、深夜なら放送コードが甘い的な感覚はなんなの?誰でもスイッチ入れれば見られるテレビだからという人もいるかもしれないが、深夜だって、小さい子がスイッチ入れれば見られるだろ。11PMとか流れていた昔は、テレビは一家に一台で、深夜帯は親に隠れて見てたってこともあるが、ネット社会の今はそんな常識は通じない。まあ、みんなわかってるけど、いけない線など法律しかなくて、そんな中でモラルの線引きをしようとするのはおかしいよね。で、結論は「だからテレビはつまらない」的な感じに収束していく・・。
この作品、とにかく原作も貧民を描いたものなわけだ。そして、貧しいがために、家族のいる環境のためにここでの主役の三浦透子みたいな人が確かにいるのだ。今はこういう風体で歩いている人はあまり見ないが、半世紀前までは、毎日見かけるようにそういう人がいた。学校の教室にもいた。そう、臭い人もいっぱいいたし、酔っ払って、どうやって生きてんだ?と思う人もいっぱいいた。
で、ここでは、三浦透子の心の中がどうなってるの?という話なのだと思う。ただ、毎日、内職のマスクを作りながら、特に楽しみもなく生き続ける三浦を抱いて腹ましてしまう父親の岩松了。それが発覚され追い出されれば三浦が作ったマスクを持って逃げてそれを現金に変えるという、本当にとんでもない親なわけだ。だが、こういう親は今も存在するし、それが見た目だけでわからないところが今はもっと物騒だったりもする。
そんな、彼女を好きなのかはよくわからないが気にする酒屋の渡辺大知。彼の気持ちはよくわからない。そう、彼女を元気づけさせようというのはいいが、それは誰のために?それは三浦自身の思いでもあったのだろう。だから、彼女は鬱陶しくて彼を刺してしまう。そのことで、彼女は刑務所に行き、子供を堕すことになる。全くもって、彼女は幸せには近づけないし、このループから抜け出すのは困難な状況である。そう、貧民窟とはそういう波動が重なり合う場所だ。
だから、そこで最後に二人で歌う「春夏秋冬」が沁みるのだ。歌というものは、その時間の波動を変える。そして、この歌は、泉谷しげるが20代の時に作った奇跡的な名曲だ。「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人に会う」今でも、人生はそんなものと思ってる人は多いだろう。そう、「愛」がある人に会うのは難しくはないが、会えない人には一生会えないようなものなのだ。そして、「今日で全てが終わるさ、今日で全てが変わる、今日で全てが報われる、今日で全てが始まるさ」などと考えてるうちは、愛のある場所にはいけないのだ。
だから、隣でせっかくハモってくれてる三浦透子に文句を言う渡辺大知は幸せそうだが、幸せではない。そう、表面的な波動は一瞬で消えるからだ。
では、どうすればいいかというと、その答えは簡単だ。自分を愛して生きていけば、世の中は愛に包まれる。それだけのことだ。愚痴や文句や悪口の中にある空間でお祓いをしたって効果はない。霊能者は、他人の心の中を詠めても、それを変えることはできない。霊能者から見たら、他人のことはやはり他人事だからだ。まあ、そんなことを考えながら、このドラマを見ている私。
脚本のクドカンも、この回の演出の横浜聡子も、そう言う貧乏な空気を肯定しているわけではない。そう、幸せの逆を描くことで、そこに幸せが見えてくる感じが描きたいのかもしれない。それは、原作の山本周五郎にしてもそうなのだと思う。なぜに彼らはそこに存在し、そんな暮らしをしているのか?人間のそんな思いの向こうには、幸せのヒントが隠れている。