見出し画像

「レ・ミゼラブル」溜まって澱んだ街のストレスの暴発。現在の世界共通の心模様。

ヴィクトル・ユーゴー の同名小説からの題名。舞台は現在のその場所。もはや古典の小説と何が変わった?と観るものに聴いてくる感じの映画だ。「パラサイト」とパルムドールを争った作品だという。ある意味、フランスの話という点で、こちらの方が私にはセンセーショナルだった。(映画の完成度は、こちらの方が少し落ちると思うが、…。)

「レ・ミゼラブル」の舞台はパリから15kmほど離れたところという。いまだにこのような空気の街が存在していることに驚く。フランスというイメージを勝手に形作っている私であることがよくわかる。

映画の前半は、この街がどんな街なのか?ということを転勤してきた警官視線で観客は見せられることとなる。一般的な治安なんてものが普通にはありえない街。そして、そこに馴れ合いで過ごす公の人々。警察組織も同じ輪の中に組み込まれているから、正義も悪もよくわからない。

だから、最後の暴動に通じる種が、旅周りのサーカスのライオンが盗まれたということにあるのは、外乱が、街の心を引き出す感じな展開。そして、大人とか子供とかもあまり通用しない世界という点でもわかりやすい。

そんな社会の中に、ドローンという近代兵器が登場するのはなんか解せないが、ここはWiFiがまともに入らないのにスマフォを持っている「パラサイト」にも言えることで、近代の貧困とは、歪んだ貧困でしかないのだ。これは、日本も含めた世界共通だ。日本だって、スマフォを解約すれば、子供の食費くらい出るだろう。でも、そうはならないということだ。

話は、先に書いたライオンの話から、流れでその泥棒少年を警官が撃ってしまう。命は取り留めるが、警官たちは、事件をないことにしようと走る。この辺りで警官内でも意見が食い違うように、転勤の男を入れたということだが、それぞれのスタンスがあまり今一明確でないため、映画としての力が弱い。

結局は、様々な今までに溜まったものが暴発し、街のひと全員が公の人々を襲撃してくるのだが、その怒りのエネルギーだけが、映像にされている。そう、そこに本質的な訴えなどないのだ。確かに過去の日本の学生運動なのもそうだと思うのだが、最後には、正義などどこかに消えてしまうのだ。

人間など、そういうものだという教訓的な映画なのだろう。だから最後は顛末が観客に託されている。内容は、ある意味シンプルで、ある意味、ヴィクトル・ユーゴーが描いた時から、人間の本質など変わらないということである。

こういう荒れた街の中で正義面した人間が、襲われるというような映画は、日本でも60年代には多く見られたものだ。街の中で、そういう主人公が村八分になっていく話も多くある。昨年の瀬々敬久監督「楽園」なんかも、主人公が村八分になる話だったが、話の内容が古すぎて私はついていけなかった。

これは、先に書いたように、ドローンやスマフォが存在する近代社会での話というところがミソである。小学生や中学生がLINEで村八分にされる時代と考えれば、そのサークル内に警官がいてもおかしくない。多分、今後、こういう映画はより増えていくであろう。

根本的に人間が一緒に生活する上で、感情というものはすごい重要なものである。デジタル機器がそういう信頼関係を崩し、殺人に至るケースも増えてくると思う。もう一度、人と人がどう寄り添え合えばいいのか、多くの人が話し合う時代なのだろう。そういう意味では、今の時代に作られるべきして作られた映画だったのだと思う。

ラスト、確実に子供は、警官を殺していると思う。だって、ライオンの檻に入れられて脅かされたんだもの…。当事者が彼らでないとか関係ない…。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?