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「望み」。古典的な家族の心の揺らぎの映画。役者たちが映画を堅くまとめている。

堤幸彦監督作品。原作は雫井脩介の小説。子供が失踪し、殺人事件に絡んでいるのか?という疑問の中、家族が追い込まれていく話。全体像は、とても古典的なものに見えた。自分の息子を信じられるか?そして、その結果によって自分たちの世界が変わるということを受け入れられるか?そんな家族の気持ちなど知ったことではない周囲の反応。その醜さ。ある意味、そのわかりやすい人の揺らぎの世界を映画としてよくまとめている。

それは、この映画に関しては役者の力がとても大きいようだ。主演の堤真一、石田ゆり子、清原果耶の心の中が見えてくるような演技が映画に観客を引き込ませる。それを監督は、カメラの揺れや逆光の入り込みを多用して観客に提示してくる。このあたりは、かなり効果的に働いている気がした。

舞台は、堤が経営している設計事務所を横に持つ家庭。その家の中は、顧客のモデルハウスとしても機能している。この最初の風景を見て上野瞭の小説「砂の上のロビンソン」を想起した。こちらは、モデルハウスに住むことで家族のストレスが溜まっていく話だった。それに比べれば、ここでの子供たちのストレスなどは少ないだろうが、普通とは少し違う環境ということは同じな気もした。

そんな環境の中、至って家庭は安定し穏やかだった。しかし、息子が怪我でサッカーができなくなってしまったことが、イレギュラーな日常を引きずってくる。個人にとって世の中がイレギュラーになるのは唐突だ。そして、それを人は運命として、受け入れられるかどうかでしかない。そして、そのイレギュラーに個人的に穏やかでいようとしても、警察やマスコミがそれをそうはさせないような時空に連れていく。信じていた人も信じなくなり、長く顧客だった人もいなくなる。ここに提示される話は昔から何度も描かれた話だ。そういう意味では新しさは何もない。

そして、世の中の罵倒する声は、建物の落書きや、ネットの書き込みなどで暴力的に襲ってくる過程も、紋切り型である。映画としての見せ方として、それらはあまり褒められないと思った。松田翔太演じる雑誌記者のあり方もよくある感じ。そこに新しい形は見えなかった。

この映画で興味深いのは、堤真一と石田ゆり子の息子への信頼感の微妙な違いを映像として、結構きちっとわかるように見せていることだろう。息子が加害者であるか被害者であるか、カオスに陥っていく中で、父親の思いと母親の思いが微妙にずれてくる。結果は、どちらに向いても最悪だったのだが、映画の流れの中で観客の心のバイアスをいろいろな方向に持って行けているのは、二人の役者の技量と監督の手腕なのだろう。

清原果耶は、ここでも安定した演技を見せている。他の役者に振り回されない個性はここでも大したものである。主役である時と脇役である時の空気が変わるのも面白い女優さんだと思う。

家庭を壊してしまう当事者の岡田健史は、ここでは少し存在感が弱い。多分、一年前に撮ったものだからだろう。その後の彼の役者としての成長を考えると、少しもったいなかった早い起用だったとも思える。この映画、岡田がサッカーで怪我をするところから始まり、最後にも彼のアルバムが示される。そう考えると、この役の存在感がいまいちなのはこの映画の大きな欠点になっている気もする。

いろいろと、満足いかない部分は多いが、堤真一と石田ゆり子の演技を見るための映画と考えれば、なかなか贅沢な時間ではあった。

余談だが、このところ「浅田家!」「ミッドナイトスワン」「望み」と3本の日本映画を見たが、どれも、「家族」というものを主題にしたものである。今年のコロナ禍など、どの映画も予期していなかったであろうが、この秋にこの3本の家族に関する映画が封切りされたのは偶然ではない気がする。今、私たちが考えなければいけないのは、家族という単位からのリセットなのではないだろうか?その基本の単位の信頼から考え直さないと世界は幸せな社会に戻らない気もするのだ。


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