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「パンドラの果実〜科学犯罪捜査ファイル〜(第3話)」科学が超えてはいけない壁とは何か?そして、科学という言葉の脆さ

岸井よしのが最初から何度も「科学には超えてはいけない壁がある」的なことを呟いてる。そして、それがこのドラマのテーマでもあるのだろう。フジオカの口から、シンギュラリティという言葉も出てきたし、「科学が人の知能を超えるのか?」という命題に、いろんな可能性を示そうとするのがこのドラマなわけだろう。そういう意味では興味深い。

今回は、人間の蘇りの話。研究室の遺体安置所の遺体が突然歩き出したという話だ。先にも書いたが、この手の話は約半世紀前の「怪奇大作戦」でも描かれていた事象だ。ただ、あの頃は、あくまでもSF的飛躍の中で描かれているが、最近はIPS細胞の話なんかもあり、ここに出てくる生き物を再生させるタンパク質のようなものが発見される可能性はあると思う人がほとんどなのではないか?そして、結論として、ここで、そのタンパクの効き目がそんなに長く続かなかったというオチも、ある意味リアル感を高めている。そういう意味では、1話、2話よりも身近に感じる題材であった。

ディーン・フジオカが岸井に問う「心はどこにあると思う」。岸井もいうが、これは科学で解明できていない大きなテーマだ。人間の喜怒哀楽は脳で作られているのか?それとも、細胞ひとつひとつが心として稼働しているのか?今の世界では、心を研究するのは心理学者だったりする。そこに科学的な介入ができないためにそうなってるのである。「何故、人は突然に人に恋したりするのか」ある意味、この脳がショックを受けるような事象も何も解明されていない。だから、整形手術の中では、心を手術することができない。それができれば、振り向かない人を振り向かせることも可能であるわけだ。そんなことを考えると、科学的と言われる領域の狭さが見えてくる。その科学というものの脆さが見えてくると、神の存在を認めざるを得ない状況も出てくる。よく、物事を断定するようなことを言うと「それは科学で証明されているのか?」と言う人がいる。そして、曖昧な事象ながら、結果が出るようなことに対し「偽科学」と言う人がいる。ともに、科学というものをよく理解していない人の発言だ。科学で証明できるものなど、世の中のひとつまみだからだ。

科学者はそれを知っているからこそ、壁を破ろうとする。だが、破った時に、「それは倫理的に正しいのか?」という心のサインを受け取る。原爆しかりである。これは、なんなのだろうか?そう考えていくと、人間にこのコーションのサインが出る以上は、シンギュラリティは起きないと思うし、心という部分をAIに置き換えることは、ほぼ無理なのだろうと思う。まあ、こんなこと私に書かせるくらい、このドラマの定義は結構重要だ。

問題のタンパクの研究をしていた子が、最後に研究所を去ったという話が出てくるが、そういうことは、最近ではあちこちで起こってるのではないだろうか?そう考えれば、科学やデジタルの仕事は、かなりバランスの良い倫理観を持った人間がやらないと、うまくいかないということがわかったりする。そう、教育の基本として何を教えればいいか?ということのヒントもそこにあると思ったりする昨今だ。

来週は、VRでゲームをやった人たちが自殺に至る話。これも、また興味深い。シリーズ的にはなかなか面白くなってきた。そして、岸井ゆきのが見た、超えてはいけないものが早く知りたい!

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