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「人数の町」近未来SFが、リアルに感じる21世紀。幸せなど考える時代の終焉を迎える予感。

気持ち悪い話である。でも、こういう事が実際に無いとは言えない現実の方が気持ち悪いのかもしれない。中村倫也の映画は、中村倫也色に染まる。そういう意味では、これからの日本映画での1ジャンルとなりうる中村倫也ものと言っても良いかもしれない。「水曜日が消えた」にしろ、この映画にしろ、中村倫也の歩く世界は不思議であり、リアルさがある。共に、洒落たSFを読んだ後のような触感だった。

罪を犯したもの、住まいがないもの、行き場がないものが集められた町。そこで行われる簡単な仕事が、国を動かしている。この街が何故作られているとか、細かいことが何も語られていないことが、この映画の気持ち悪さである。昨年の「新聞記者」で国が、SNSの操作をしていると言う話があったが、こちらは、それに輪をかけた国の介入のための町があると言う話だ。

町に入るときに、これも明確にされないが、ICチップの様なものを首に撃ち込まれる。それが、彼らを逃げられなくする技であることは、しばらくしてわかる。戸籍を消された、気持ち悪い世界ができる。国にとってマイナンバーカードは国民を掌握する手段だが、そこから完全に外した国民を作ることもまた、国の手段なのかもしれない。全ては、昭和のSF作家が書きそうなことが起きていて、それが実際にあるのではないかと勘ぐりたくなる、日本の統計の数字まで出てくる。今の自分が、どう言う環境にいるのかさえ疑問にさせる映画である。

主人公の中村は、最初は戸惑い、疑問を持つが、それなりに暮らしている。ここの楽しみは、プールで泳ぐことと、自由にSEXを楽しむことくらいなのだが、多分真面目に生きているよりは楽という感じに帰結するのだろう。そう、やることさえやれば、怒られることはない。

幸せを求めたり。欲望を満たそうと未来を思うことなど、くだらないということなのだろう。心を操作されているわけではないが、環境が人を変えていく。この映画を観て、こういうところに行きたいと思う人は、今の日本では珍しくないのかもしれない。

そこに、目的を持った女、石橋静河が、妹を救いにやってくる。妹にはすぐに会えるが、もはや価値観の違いは彼女をこの町を脱出させるには至らない。そして、中村と石橋の逃走劇。ICチップを打たれた身体では、逃げようがない。そして、「そういうこと!」というラスト。

あくまでも、この映画は現代風刺なのだろうと思う。ただ、最近の国の現状は、これが現実なのかもとさえ感じさせるのは気持ち悪い。新しい首相候補も、こういう団体があるから、安心してトップになるのかもしれない。自民党や日本会議の人々には、もうチップが埋め込まれているのかもしれない。未来は明るくないとしか思えない映画であった。

映画という観点に帰れば、もう一つ面白味にかける。脚本が異次元なら、映像ももっと異次元な部分が欲しい気がした。監督はCM出身の人だというから、尚更だ。特に、逃亡しようとしたときに、耳鳴りがして立っていられない状態など、もっとラリった感じの映像があってもいい。町自体が、自分のことなどどうでもいい様なトリップ感にとんでいてもいいのではないか?

多分、監督は、そういう特撮的な世界より、普通だから気持ち悪いというところを描きたかったのかもしれない。それならば、感情を殺されていく感じを映像に埋め込むべきだったのではないか?

描きたいことは理解できるが、映画として、シリアスな訴えをしたいのか?ファンタジー的な不気味さを出したいのか?その間で迷っている感じがちょっと不満な感じだった。中村倫也のフワッとした雰囲気が映画全体を覆うことで成立している一遍である。

映像にもう少しパワーがほしかったです。


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