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「ミステリと言う勿れ(第7話)」生きることがカオスに見えてくる展開。メリークリスマスと言える平和の中で

どんどんと、哲学的な幸福論みたいなところに沈んでいくドラマである。かなり勝手な解釈ができるだろうし、この混沌とした心のありかに凄く親近感みたいなものを思う人もそれなりに多いだろう。私的にはこういう世界が嫌いではない。だが、整がいうように「考えて考えて考える」向こうに何があるのか、長く生きていてもよくわからない世界観みたいなのがある。

そう、ガロ君が妹を殺めたやつを制裁する話から、ここで語られる話まで、間違いはない気がする。DVした親を殺す話の後日談の後で、助かった少女は親を求めていると…。そう、現実の家族の肖像みたいなものは、もはや、狂い過ぎているくらいに狂っている。今日も、世界的に見ればウクライナで自分の利権を明確に言ってのける人がいたりする。こういう利権を強く主張することと、家族の中での権利のありかの探り合いも、あまり差はないような気がする。

だから、「考える」ことがとても必要なのだ。「考える」ことを続ければ疲労の末に、自分が考えていたことがバカらしくなったりする。あまり考えずに同志と思っていた人が、自分が嫌がる世界の人だったと瞬時におもえば、それが死につながることもある。

結局、今回も混沌の中に門脇麦はわかったようなふりをして、整の前から去っていく。この原作、「整」が対峙する事件は理不尽な現代社会そのものだ。彼自身も、何故か出くわす事件が自分に何か問いかけているように感じるから、なんとなく考える。でも、宇宙が引き起こすそんなことより、彼はカレーを作っていたいはずだ。そういえば、カレーの話が入らなかったのは初めてか…。

岡山天音が、子供の時に「カエル君」と呼ばれていて、先生も一緒にカエル君と呼んだ話は、本当に悍ましい話だ。歳を取っても他人の身体の悪口を言ってマウントかける人間がいる。人間として最低なステージレベルだと思う。そういう人間は、追い込まれても謝罪を絶対にしない。このパンデミックでそういう人間はさらに増えている気がする。そう、どうしようもない怒りの末に自分自身をダメにしていく人間だ。昨今、二極化とよくいうが、それは、人間の力を信じるものと、そうでないものの二極化であったりもする。そんな、やるせないことを考えさせるドラマなのだが、これ、普通の連続ドラマのように見る世界ではないような気もしてきた。全て終わった後でまとめて見て、俯瞰して考える世界である。

そう、視聴者は「整」の頭の中にどうシンクロしていくかが大事なのである。そういう難しい主人公を菅田将暉はよく演じているなと思うが、彼自身も「整」というキャラクターの頭の中を浮遊しているような感じなのではないか?あと、3回か4回で終わりだと思うが、どう、このカオス感をまとめてくれるのか?相沢友子氏の仕事にはとても興味ある。

でも、今回一番印象的だったのは、伊藤沙莉のいう「メリークリスマス」だったのは、救いかもしれない。

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