見出し画像

昭和時代を駆け抜けた人は、自分自身を見つめる時間なんてなかったのでは?

今やたら、いたるところで、
自分軸とか、
自己肯定感とか、
自分らしさとか、
自分自身を見つめ直すことが
当たり前のように注目されている


・・・またまた、父親との会話・・・

「お父さんは、他人の欠点ばかり気づくけど
 自分自身は完璧だと思ってるわけ?
 自分が完璧じゃないことがわかれば
 他人の欠点は簡単に許せるけど。。」

「自分で自分のことはよくわからん。。」

・・・昨日の会話でした・・・

こんな会話を落ち着いて
できるようになったのも
予想外だし、奇跡的に思う。
1時間くらいゆったり話していたら
父親は穏やかに眠り出した。
(もうとにかく穏やかにしていてほしい)


父親は年齢的にぎりぎり
戦争の空襲を本当に体験している
狭くて浅い防空壕には避難せずに
田んぼにふとんをかぶってすくんでいたから
運よく助かったらしい

生まれて5年ほどでそんな経験をして
戦後の復興の波に乗り、グイグイ進んできた
成長も目覚ましかったから
充実感も半端ないものだった、と思う
「成長」=「充実」が心に焼き付いている


でも今は社会問題が複雑化して
からみ合ったまま、足踏みしている
だから「成長がない」「充実がない」
と短絡的に考えてしまうようだ。
それがつい不満になり我慢できず
周りの悪口になってしまう


<昭和の目覚ましい復興では>

外を変える、外が変わる、、
成長する、充実する、、

これがふつう、当たり前だった。

<令和の足踏みの現代では>

内を変える、内が変わる、、
受容する、許容する、、

自分を見つめ直すことが見直されている
社会の停滞をただの停滞で終わらせない
いったいどんな創造ができるのだろう。。


そしてタイトル画像の「昭和~平成~令和」
自分自身に置き換えることができる(下図)

平成~令和の流れを自分自身に置き換えると

でも、もし自分が、今生まれ変わったら
いきなり内側の成長もしていかないと
何やっていいかわからないように思える
😌😅😄。。