砂漠の魚

 遠い彼の地に砂漠の海があるという。
 砂の一粒ずつが石英でできていて、広漠な白色。なだらかな砂丘の稜線は優美で、空から見ると起き掛けのシーツの皺のように見える。これがこの場所の名の由来だそうだ。ここは有名な観光地で、特に雨季にだけ現れるラゴーニャ(湖)を目当てに冬から春にかけて観光客がひっきりなしに訪れる。また、南半球なので一日の寒暖差が激しい。昼間は熱いくらいだが、夜はとても冷える。

 ほぼ水着姿の男女が徒党を組んでラゴーニャを追う。運よく見つかれば水浴びをする。いかにも観光地といった感じの昼間の姿とは打って変わって、夜の白砂漠は完全な静寂が冠を戴く。シーツの皺から車の轍や人々の足跡を一息に消してしまうと、王はその滑らかな大理石の白の上にゆったりと身体を横たえる。
 ラゴーニャは夜は気まぐれな青年の姿となり、その美しいしなやかな動きで剽軽に王を誘惑する。瑞々しいヒスイ色の肌の中に、彼は毎年小ぶりな魚をたくさん連れてきて、王の目を愉しませる。静寂の王は決して身体を起こすことはないが、魚をのびのびと泳がせる彼に見入っていると夜が明けるのだった。全く表には出さないが、王は毎年の雨季を心待ちにしていた。

 白く星を照り返す絨毯の上、魚と優美に踊るラゴーニャ。南国の白砂漠をただ一人任された王は、孤独な夜の番人だった。だれが気を遣わせたか、ある時雨の恵みと共に彼がやって来たのだった。夜だけかと思いきや、朝も昼も彼は白砂漠に寝そべり続けた。そのうちに人が美しいラゴーニャを見つけ、昼間の砂漠はとても賑わった。王はあまりいい気がしなかった。ラゴーニャはというと、そのヒスイの懐に人を寛大に迎え入れ、一緒に遊んでいた。それを見るにつけ、王は不機嫌になった。
 静寂の王は静寂を守る以外のことができない。彼を「王」と呼ぶのは、ここにはほかに誰もいなかったからだった。彼は孤独な番人であり、寡黙を貫く以外の力がない。あるのはただ、石英の粒の透明な煌めきだった。夜の冷たい風がときたま通り過ぎ、気に入った砂粒を手でひと掬い、持ち去らっては放って遊ぶ。シーツの模様替えが進むのを、南国の静かな墓守は見つめ続けた。そのうち夜が明け役目を終える。当然のように永遠に続くと思われた無機の世界はしかし、いつも有機物の分子の自由な軌道にふりまわされる。

 ラゴーニャは気まぐれだった。雨が降ると、いつのまにかそこに寝そべっていた。彼は空と石英の色を混ぜて反射することで身体の色を変えた。王が砂漠の上に大きく寝そべると、彼は王の深い黒を真似ようとした。しかし石英の煌めきで思ったようにはいかない。ラゴーニャは夜は星の色をしていた。昼は美しいヒスイ色で、朝の天女たちを愉しませた。
 ラゴーニャの連れてくる魚は、小さなメダカのような見た目で、控えめな性格をしていた。魚たちをどこから連れてくるのか、王は知らなかった。一度夕方に早く起きて、天女たちに月の光で訪ねてみたことがある。彼女たちはラゴーニャの魚のことは王よりも知らなかった。それよりも、人々の乗り回す車の轍やセスナの発する熱や音の方が気になる様子だった。

 ラゴーニャがいなくなる時、王はなるべくその場に居合わせないように気を付けていた。実際、天女たちに導かれて昼のうちにどこかへ行ってしまうことが多かったが、たまに小さな姿になって、魚たちもどこかへやってしまって、ひとりでうずくまって夜の色に染まっている彼を見る年もあった。王はあまりラゴーニャのその姿を見たくなかった。彼は自由で清々しくて、人間や天女や魚たちとにぎやかに遊んでいる姿が似合っているし、ラゴーニャにはいつでもそうあって欲しかった。しかしそれは、そう思うこと自体、王がラゴーニャをただ年に一度の期間、眺めているに過ぎないことの証明でもあった。
 王はラゴーニャのことをなにも知らなかった。月の光を使えば話すこともできるが、夜は静寂の守り人に徹していたかった。いや、そんなことは言い訳で、ほんとうは詳しく知るのが怖かったのかもしれない。ラゴーニャがどこから来て、どこへ帰っていくのか、白い砂漠にいない間はどこでどう過ごしているのか。天女たちならおそらく知っているのだろうが、王はそうした話題がたまたま夕方に聞こえてきたとしても、耳を塞いで聞かぬようにした。なぜここまで意地を張ってラゴーニャに関する情報を知りたくないのか、最初は自分でもわからなかった。
 しかし、最近はおそらくこうであろうという予測がつくようになった。王にとって、ラゴーニャは絵画だった。ただ美しく、王の視覚に訴えるものであり続けて欲しい。だから、一度ラゴーニャが弱弱しい姿でうずくまっているのを見たとき、王は彼を見ないようにして振舞った。朝になるとラゴーニャはいなかった。太陽の出る直前に、王は彼の不在を確認して心底ホッとした。そして翌年、雨と共に大理石に寝そべる瑞々しい彼を見て、再び歓迎した。

 ラゴーニャは一度王の瞳をその身に映して言った。『これがあなたの瞳。なんて綺麗。僕、このままあなたの眼を外に持っていきたいけど、だめかな。』 王は静かに首を振った。『だめなんだね。あなたは、見たいものと見たくないものとを、ごちゃ混ぜにしたくないものね。僕たちのように有機物と接する機会を多く持つと、考えが変わるかもしれないけど。』
 王は改めて首を振って意思を伝えた。『そうか。そうかい。残念だなぁ。でも、あなたは静寂の王様だものね。混沌の昼間はうるさくてかなやしないよ。うん。あなたは、それでいいんだ。でも僕、少し悲しいよ。』
 ラゴーニャはひらりとヒスイ色をはためかせると、魚たちと遊びに行ってしまった。王は安堵していた。ラゴーニャは絵画の中へ戻っていった。

 (model : レンソイス・マラニャンセス国立公園 ブラジル)

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