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鉢かづき

【序章.漂泊の姫君】

その日はたまたま台風が来ていて、山村裕二と息子の彩介は、近所の有志とともに河川敷で見回りをしていた。

幸いにも、行方不明になって心配されていた山村家の三つ向こう側に住むおじいさんは、木陰でブルブルと震えているところを発見された。
認知症を患っているおじいさんは、台風が来ると昔の記憶が呼び起こされるらしく、「用水路」の様子を見に行ってしまう。離農して長いおじいさんの家族は捜索してくれた近所の人間に頭を下げつつも、「うちのお父さんは、いつか川に浮いて人生を終えるんじゃ無いかと思っている」と諦め顔で話していた。

仕事が終わったので、山村父子も家に帰ろうとしていた。 顔に雨粒がぶち当たって痛い。裕二は顔をしかめながら、雨合羽のフードを前に引っ張る。

…と、雨音の中を息子の声がする。
「オヤジ!」
「どうした?」
振り返ると、彩介が、川の中を指差す。
「なんかあったか?」
裕二は、息子の指の方向を見やって、そして総毛立った。

「うわあ、土左衛門だ…」

そこには、流れていく人の背中があった。首にかかった麦わら帽子が浮きになって、流れの中に顔が見えた。少女だ。

裕二は、老人を助けるために持っていたロープを河原の木に括り付け、自分の腹にも縛り付けると、
「俺に何かあったら誰かに言いに行け、それまではそこを動くな」
と言い残して川にザブザブと入っていった。

+++

山村家では、父子の帰りが遅いので、姑のハツメと嫁の麻子が身を寄せ合って不安に耐えていた。
三軒向こうのおじいさんはさっき帰宅したのが見えた。ウチの男どももとっくに帰ってきていい頃だ。
あと10分経ったら消防に電話するかねえ、と、泣き出しそうな麻子の背中をハツメが撫でたところで、ドアがバタンと閉まる音がした。

「おかえり!!!」

麻子がハツメの手を取り、玄関に急ぐ。
そこには、ずぶ濡れになった夫の裕二と息子の彩介、そして…裕二に担がれて身動きもしない、力の抜け切った少女の亡骸があった。
「…ひっ」

「タオル、タオル持ってきてくれ。この子まだ息がある!」
死体でないということが分かればとりあえず恐怖は薄れた。麻子はタオルを取りに浴室へ行って、ハツメは事態を把握して湯を沸かしに台所へと走った。

麻子は持ってきた大量のタオルの一部を夫と息子に渡し入浴を促すと、少女を拭いていった。
途中で気づいて自分のパジャマを持ち出し、ハツメが沸かしてきた湯で少女をさらに拭くと衣類を替えてやった。ハツメが寝室に布団を敷いてきたと言うので、二人で少女を引きずって寝室へと運んだ。

…美しい少女であった。
真っ青な唇は引き結ばれ、眉間にシワを寄せて目を固く閉じている。白磁のような肌は生き物のそれではないほどに色を失っているが、それも目に入らないほどに美しい少女であった。
彩介よりは年下…多分、小学校高学年か中学生。近所の子ではない。
そして、彼女の濡れた服には折りたたまれた紙片が入っていた。

「私の名前は長谷部夏月です。折友中学校の2年生で、父の名前は長谷部智明です。これを誰かが読む頃には私は死んでいると思うので、父にそのことを伝えてください。必ず父に伝えてください。父だけに伝えてください!」

「自殺…」
風呂から上がってきた裕二や彩介も、眉間に深いシワを刻んだままこんこんと眠る少女を覗き込んだ。
まるで地獄の夢を見ているかのような顔をして、少女は時折唸り声をあげていた。


【第1章.私を棄てないで】

娘が行方不明になって丸2日が経つ。
台風一過の真っ青な空を見ると、長谷部智明は不安でいたたまれなくなった。それと同時に「なぜ昨日のうちに捜索願を出さなかったのだろう…」と自責に駆られてもいた。

その顔を見て、妻の美里は目を吊り上げる。
「私のせいだと思っているんでしょ、あの子がいなくなったのは私のせいだって言うんでしょ!」
そうなんだ、それ以外なにがある…とは言えず、大声を上げながら泣き叫ぶ妻を抱きしめるしかやれることがなくなっていた。
妻は半狂乱で、台風の間ずっと「私を棄てないで、どこにも行かないで」と智明に泣いてすがっていた。
もちろんそれは、娘の…美里にとっては継子の、夏月がいなくなったからである。

「夏月を探しに行くなら、私はここで首を吊って死ぬ!」
その言葉のせいで、智明は警察に電話することすらもできないで、一睡もせず妻の様子を見守り続けるしかなかった。

美里は智明の後妻だ。
夏月の母親は、3年前病気で他界した。新盆を終えた頃に知り合った美里と付き合い始め、昨年再婚した。
母親を亡くしてからそう経たないうちに、しかも中学生になったばかりの多感な時期にある娘を抱えて再婚することには当然不安があった。しかし、智明もまだ40を迎えたばかりで、共に生きる相手が欲しかった。
美里は華やかな前妻と違って、地味だけれども温かみのある女性だった。夏月も「美里さん」と呼んで、なついていた。

しかし、ある時期から様子が一転する。
夏月から笑顔が消えた。思春期だから仕方が無いのかと思っていた。父親とも、義母とも話をしなくなり、部屋にこもることが多くなった。
難しい年頃だからね、君には面倒をかけてすまないね、と美里をねぎらうと、彼女は表情をさっと硬くした。

そして、夏月は行方不明になった。

電話が鳴ったので、泣き疲れて眠ってしまった美里の手を離し、智明は受話器を取った。
知らない男性からの電話だった。
「えーっと…長谷部さんのおたくですか?」
「はい…どちら様でしょう?」
電話の相手は、ゴクリと喉を鳴らして、それから押すように一言ずつ声を発していった。
「私は、長島町の山村ともうします。えっと、電話帳でおたくの電話調べました。お嬢さん、ナツキさん?っていらっしゃいますか?」

智明の心臓はバクン、と大きく拍動した。

「ええ…カヅキならうちの娘ですが」
「良かった。お嬢さん、川で流れてきたんで、ウチで保護しています。まだ意識は戻ってないですが、生きています。とりあえず往診に来たお医者さんは眠っているだけで悪いところはなさそうだと言ってます。お嬢さんのポケットにメモがあったので、お父さんにご連絡しました」

智明の肩から力が抜けた。
「それは…ありがとうございます」
そしてボロボロと涙が目に浮いては落ちた。

「嫌!」
しかしまた智明の体に力が入る。
「夏月を探しに行くなら私は死ぬ!」
目を覚ました美里が全身全霊を込めて呪詛を唱えていた。

「申し訳ありません、ウチに急を要する病人がもう一人おりまして、すぐに引き取りに行きますがもう少し置いておいていただいてもいいでしょうか…?」
智明は咄嗟に、知りもしない電話の主にそう言っていた。
電話の主も、
「いいですよ、今夏休みでしょうし、しばらくウチにいたらいい」
と答えていた。

+++

裕二は受話器を置くと、家族一同の事情を問う視線に、首を振った。
「やっぱり家でいじめられてるんかねえ…」

先ほど往診に来た医師が夏月の体を見て、川で流されただけでは出来得ない多くの打撲跡に眉を潜めていた。
「お腹とかね、外から見えないところに集中しているでしょ…これ、ひょっとしたらね、虐待とかイジメとか、そういうの受けてる子かもしれないですね」

裕二はため息をついた。
「電話の後ろから、お母さんだと思うんだけど、キーキー叫ぶ声がしてねぇ…」
眠り続ける夏月の額を撫でながら、ハツメが静かに呟いた。
「もう子供じゃないだろ、歳回りは彩介とそう変わらんだろうし」
チラリと彩介を見やって続ける。
「この子が目を覚ましたら決めさせればいいい。親御さんがいいって言ってるんだ、縁があったと思って、居たければ居させればいい」

彩介は、蝋人形のような夏月の寝顔を、どう見ていいものやら分からなくなって目をそらした。
一体この人には何があったんだろう?


【第2章.うつし世】

山村家に運び込まれてから3日後、ようやく夏月が目を覚ました。

往診してくれた医師には「警察に連絡した方が…」と言われていた。しかし、警察に連絡をすればこの子は家に帰らなくてはならなくなる。とにかく話を聞いてからにしたい、なにしろ親御さんが「迎えに行く」と言っているのだから、というのが山村家の総意であった。

夏月はパチリと目を覚まし、知らない家の仏間に一人で寝ていることに気がついた。
広い和室の一番奥に大きな仏壇があって、黒枠の白黒写真がずらりと並んでいた。みんなおじいさんかおばあさんの写真だったが、2枚ほど若い兵隊さんの写真があった。

周りを見渡して、そのあと起き上がり、布団がかけられていたことを知り、そして自分の掌を見た。グーパーをして動かし、やがて絶望的な声を上げた。
「…死ななかったんだ…」

すると襖がさらりとあいて、写真の兵隊さんが現れた。目が合う。
「あ…オヤジ!お袋!ばーちゃん!起きたよ!!!」
彼はゴツンと襖を閉めて行ってしまった。
兵隊さんなわけないよな…今来た男の人は髪型とか今時っぽいし、だいたい兵隊さんだったら幽霊だよな。そっくりなのは、きっと兵隊さんの子孫なんだろう。夏月はゆっくりと考える。

…そして、彼が家族を呼んできたら、私は家に返されてしまうに違いない。

山村家の面々が揃って夏月の元にやってきたとき、夏月はガクガクと震えていた。
「どうしたの?寒い?調子悪い?」
麻子が水が入ったコップを渡しながら声を掛けると、夏月は必死に訴え始めた。

「私、死んでいる予定だったんです。家には帰れないんです。どうか家には連絡をしないでください。帰れないんです!」

裕二と彩介は言葉を失い、ハツメは黙って目を伏せた。
麻子は夏月の背中を抱き、水を飲ませた。うっすらとレモンの果汁の匂いがした。
「ごめん、もう連絡はしてあるんだ」
夏月は口に水を含んだまま、動きを止める。
「でも、お父さんがね、あなたがここにいてもいいって言っている」
ゴクリ、と水は塊となって喉を通った。
麻子は夏月の背中に回した手に最新の注意を払いながら、できるだけ優しい声を出した。
「あなたが嫌ならば無理にお家に返したりはしないからね」

レモン水が喉を通ると、自分が危険に晒されているわけではないことをそれが教えてくれた。
爽やかで、優しい味だった。

「いやね、君、そこの川に浮いていたところをね、こいつが見つけたんだ。なんかの縁だからまあ、ゆっくりして行ったらいい」
裕二が彩介を指して言う。あ、さっきの兵隊さんだ、と夏月は思った。
「ほら彩介、何か言え」
促されはしたものの、彩介は唸ることしかできなかった。生きて動く美しい蝋人形に、少々動転していたのである。

「…でも、あの…」
いろいろな思いが脳裏を行き来して、夏月の口からまず出てきたのはこれだった。
「私、厄介者だし、ただ居させていただくわけにはいきません。家に返さないでいただけるなら、なんでもやりますから…大したことできないけど…」
「なに遠慮してるんだよ、子供なのに」
裕二がふと笑うと、ハツメが嗜める。
「バカ言うんじゃないよ、この子は分別のある大人だよ」
そして夏月に近寄ると、こう言った。

「夏月ちゃん、それならば、働いてもらおう」
ハツメの目が笑っていたので、夏月は不思議と不安にならなかった。
「ウチは銭湯でね、お湯は薪から沸かすんだ。それから大きな浴場を洗ったりもする。若い人がいてくれると助かるねえ」
夏月はウンと頷いた。
「働くんだから、あんたはウチの従業員だ。遠慮なんかしないでいいんだからね」


【第3章.告白】

その晩、智明は救急車を呼んだ。

食料を買いに少し家を離れた、その30分ほどの時間だった。
家に帰って鍵を開けた瞬間の異様な雰囲気は、言葉では言い尽くせない。

玄関から何かが見えたわけではない。ただ、気配を察知した智明は、奥の寝室へと走り込んだ。
「美里!」
美里は、ドアノブに引っ掛けたタオルで首を吊っていた。
幸い、尻が床についていたので大事に至る前に下ろすことが出来た。息があることを確認して、電話器の119番をプッシュした。

夏月が家を出てから、美里の精神状態は悪化しているように見えた。
美里はずっと、見捨てないで、見捨てたら死ぬと繰り返していた。
智明にも限界が近づいていた。まるで美里は、自分を人質にして何かを要求しているかのようだった。しかし、要求している何かは智明には分からなかった。
救急隊員がやってきて、グッタリした美里をストレッチャーに乗せたとき、正直智明はホッとしていた。

病院で精神安定剤を点滴されて眠る美里の横で、智明はベッドにもたれるようにしてやっと安眠出来た。
そうして、お互いの目が覚めたとき、薬で落ち着いた美里がやっとボチボチと話し始めた。
それは、智明には想像もしていないことだった。

+++

山村家の家業である銭湯は、とてもとても重労働だった。
まず、薪を釜にくべる。大きな煙突から煙がもくもくと上がる。
そして、浴場の掃除。大きなポリッシャーはさすがに夏月の手に余った。彩介が見本を見せてくれる。上手く操縦して、広い浴場をくまなく磨いていく。それを最後に洗浄機で流していくと、ツルッとしたタイルのヒンヤリ感が足の裏に心地いい。
「彩介さんは、ずっとこれをやってるんですか?」
「うん、子供の頃から。小学生の頃は1回につき100円、今は500円。小遣いは稼がないともらえないんだよウチ」
「え、マジですか」
目をパチクリさせる夏月に、彩介は笑いかける。
「でも、俺が一番掃除が上手いんだ。お客にも『彩介は磨きのプロだよな』なんて言われるから、嬉しくてやってる部分もある」
ふーん、と夏月は唸る。
「褒めてもらえるんだ…いいな」
「夏月ちゃんは褒められないの?」
そう問いかけられて。

夏月は視線を斜め下に落とした。

「私、義理のお母さんに『あんたはブスだから人前に出せない』って言われるんです」
彩介は夏月の横顔を見る。
「あんたみたいな何の取り柄もない穀潰しは死ねって言われるんですよね…仕方ないんです、私なんの取り柄もないしブスなのは本当なんだから」
隣の横顔は、本当に本当に、ため息が出るほど美しいというのに、この人は何を言い出したのだろうか…?
「…それ、だからって、お母さんにお腹痣出来まくるほど殴られる理由になるわけ?」

「見たんですか?」
「俺が直接見たんじゃないけど、往診に来たお医者さんが言ってたんだ…」

+++

「夏月は、玲子さんにそっくりなんだもの」
美里は静かに涙を落としながら呟いた。
「玲子さんは私よりもずっとずっと美人で、仏壇の中から写真が見えるだけでも嫌だった。なんでこんな美しい奥さんの後に、私みたいなのをあなたが妻にしたのか、分からなかった」

白いベッドの上で、白い天井をまっすぐ見ている美里は、ほとんど瞬きもせず、流れるままの涙を流していた。
「貴方が、月命日に玲子さんが好きだったピンクのバラを買って来て供えるの、とても嫌だった。私だってバラなんかもらったことがないのに、玲子さんには毎月お花を買ってくる」
それは、死んだ者への供養だから…智明には言いたいことが喉まで溢れていたが、美里がそれを許さなかった。
「しかも、私は日々衰えていくのに、玲子さんは写真の中で華やかな美人のまま。いなくなったというのに、貴方の心の中にどっかり座り込んでいて、あまつさえ生きて女が一番綺麗な時期の娘になって私をあざ笑うんだわ」
「それは…」

眉を潜めた智明に、美里ははっきりと言った。
「ええ、夏月は夏月でしかないわよ。わかっている。玲子さんだってもうここにはいない。でも、どんなにそうだとしても、貴方の中に私が見えないの。私だって39歳よ、もう子供もこの先産めるかどうかわからない。私の子じゃない夏月が本当に疎ましい」

「…私がそんな人でなしだったなんて、思わなかったでしょう?」
美里は全て諦めたように深いため息をついた。
「離婚、してくれていいよ。私、あまりにも夏月が憎くて、顔を見るたびに殴ったり蹴ったりしていたのよ。服に隠れて見えない、お腹とかにね」

「すまなかった…」
智明は歯噛みをした。
「玲子を差し置いて自分だけ幸せになるのに嫌な感じがあったんだ」
そして美里の手を、ぎゅっと握った。
「玲子は死んでしまったから、きっと俺だって日々忘れて行ってしまう。それがとても悪いことのような気がしていたんだ…」
美里はその手を振り払おうとした。でも、今の美里にはそんな力は無かった。
「夏月にしたって、思春期だし、継母ができたらいろいろと考えてしまうんだろうなあと思って、気になっていた」

「なのに、一番大事にしなきゃいけない人のことを、すっかりおろそかにしてしまった…」
そして手のひらの力をスーッと抜いていく。
「…君だって、死別した男のところに嫁に来て、継子ができて、俺が君を大事にしなければ誰も味方にならないもんな。辛かったよな…本当に、すまなかった」

「別れてくれて、いいのよ」
「今からでもやり直そうよ」
「でも」

美里が唇を噛んだ。
「夏月はけっして私を許さないと思う…」


【第4章.夏の終わり】

夏月がポリッシャーを手なずけ始めた頃には、夏もだいぶ終わりに近づいていた。
仕事が終わって彩介と二人、氏神様の夏祭りに出かけたが、そのとき夏月のポケットにもいくばくかの稼ぎが入っていて、走るとチャラチャラと心地いい音を立てていた。夕方の町はいつもと違うそわそわとした空気を醸す。
「屋台、たくさん…」
「今日は俺が一番美味いお好み焼きを奢ってやるよ。毎年来るテキ屋の兄ちゃんがいるんだ」
そう言って、彩介は夏月の手を一瞬取ったが、
「あ、その前に神様にご挨拶だ」
と踵を返した。
神前で柏手を打つと、彩介はにっこりと笑って「あの屋台だよ、何が一番美味いのかはすぐわかる」と指差した。

テキ屋の兄ちゃんは、たくましい腕に龍の彫り物がしてあるイカツイ三十路前くらいの男だったが、彩介を見ると目尻を下げた。
「おう、彩ちゃん、デカくなったな」
そして、そばにいる娘を見て、当然のことながら
「彼女まで作りやがった」
え、違う…と反論しようとした夏月を遮って、彩介は「美人だろ」と白い歯を見せる。

美人…?
私はブスだから美里さんに嫌われているのに…

「うっわー、超ムカつくわー、間違いなく美人だわー、なんで俺の彼女じゃないのかって思うわー」
「兄ちゃんが夏月ちゃんの彼氏じゃ、警察に捕まっちゃうだろが」
そして彩介はにっこり笑う。
「いや、この子、まだ俺の彼女ってわけじゃないんだ。でも美人だし性格めっちゃいいし、仕事も頑張るし、最高の女の子だって思ってるわ」

夏月はさっと赤くなって、何言ってるんですか!と遮ろうとしたが、その時にまた美里の声のフラッシュバックを起こした。

私は、ブスだ。美里さんがそう言って私を殴る。
…でも、彩介さんは私のことを美人だと言ってくれる…。

そんなことを考えていたから、彩介の渾身の告白である「『まだ』彼女ってわけじゃないんだ」は聞き逃していた。
兄ちゃんにはその様子がありありと見えたので、彩介の背中をぽんと叩き「頑張れよ」と呟くと、毎年のように豚肉を倍の量入れた大きなお好み焼きを焼いてくれた。
カリカリに焼けた豚肉に、ソースの味が染み渡った。さらに歯を立てていくと、キャベツの甘みとふんわりした粉がとろけるようで、ああこれが「一番美味いお好み焼き」か、と夏月は思い、じっくりと眺めた後再びそれにかぶりついた。

+++

ふたりが家に帰ると、家族が神妙な顔をして出迎えた。
「夏月ちゃん…」
麻子が代表して、一通の封書を渡した。長谷部夏月様と書かれた宛名の封書の差出人は「長谷部智明」だった。
夏月は、喉をごくんと鳴らし、それから封筒の上の方をひねるようにしてちぎった。

彩介が…そしてもちろん、山村家のみんなが…夏月の様子をじっと見ていた。
夏月はそれに気づく様子も無く、父から来た手紙を一心不乱に読む。
一枚目を読み終わると、別にたたまれていた色の違う便箋を急くように開き、読む。

…そして、頬に一筋、涙がこぼれた。

「夏月ちゃん、嫌なことでも書いてあったかい?」
ハツメが夏月の背中をさする。
夏月はふるふると、首を横に振った。
「差し支えなければ、私達に話してくれない?」
麻子も夏月の空いている方の手を握る。

「お父さんが、すまなかった、許してくれって」

夏月の目に、また一粒涙が溜まる。

「美里さん…義理のお母さんなんだけど、美里さんのことも許して欲しいって。私のことを美里さんが苦しめていたことに気づかなくて本当申し訳なかったって」

涙が表面張力を保ちきれなくなって、ぼろりと落ちる。

「こっちのピンクの便箋は、美里さんの手紙。美里さんは、美里さんは…」

声が震える。次に言葉を出そうとして、声が裏返って、とうとう夏月は嗚咽を始めた。
「美里さんは…私のこと…本当は、」
ヒグッっと一つ息をつく。
「ブスだとか、死ねとか、思っていたんじゃないんだ…」

夏月は泣きながら、彩介に美里の手紙を渡した。
家族達はそれを読み、それからハツメが夏月を抱きしめた。

「義理のお母さんのこと、許してあげても許してあげなくてもいいんだよ」
夏月はハツメの胸の中で視線だけ上げる。
「夏月ちゃんは大人だから、きっと義理のお母さんの気持ちは分かってあげられるだろうと思う」

「でも、分かってあげられたからって、自分の心が納得していないのに無理に許して上げる必要はないんだよ。いくらお母さんが辛かったからとは言え、あんたはそりゃあひどいことをされたんだから、あんたがお父さんとお母さんをどうしようが、誰も責めたりしないからね」
ハツメは言い終わると、夏月を胸から離した。
「お母さんの「可哀想」とあんた自身の「可哀想」は、ちゃんと天秤に掛けるんだからね。ここんちのみんなは、何を選んでもあんたを応援するから」

遠くで、終わりの蝉がジリジリと恋人を呼ぶ音を立てていた。
彼は死ぬ前に、命を共にする相手にめぐり合うことができるんだろうか。


【終章.それから】

夏休みが終わる8月の最後の日、長谷部智明が運転する車が隣町からやってきて、山村家から夏月を連れて行った。

「まあ、そうしょげんなよ」
裕二が彩介を小突く。
「最後の別れなわけでもないんだろ」
彩介の手の中には、紙片が握られていた。そこには夏月のメールアドレスと「秋祭りにも呼んでね」という丸っこい文字が書かれていた。
彩介は真っ赤になると、ちょこんと頷いた。
「あの子はちゃんと答えを出した。いい子じゃないか。お前ともしも今後も縁が続くならば、まあ家族としては大事にして欲しいと願うやね…」

「俺はただ、」
あちらを向いた彩介が呟く。
「夏月ちゃんに、これ、返すの忘れちゃっただけだし」
彩介の手には、夏月が流されて来た時かぶっていた麦わら帽子が握られている。

「それはもう要らないだろ、水でひしゃげて使い物にならない」
「まあ、そうなんだけどさ」

「捨てちゃってもいいんだろうけどさ」
彩介の横顔を、だいぶ傾いた夕日が照らしていた。


(終)

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