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どうせ死ぬなら (2)

藤崎さんの人となり



「吉田絵美ちゃん、いるか?」

授業が終わった頃、見慣れない人が私を教室に訪ねてきた。

黒い短髪に、パリッとした詰襟の制服を着た男の子だった。

「…あの、藤崎さん?」

「これでどうだ?」

その姿は、昨日までの様子と一転して、若々しく見えた。不良ってなんか、不貞腐れて見えるせいか、老けてるんだよね…。

「こっちの方がいいです!断固こっち!」

「やった!」

ガッツポーズをして見せる藤崎さんは…あっけらかんと、明るかった。にっこりと笑う。クラスの男子がその様子を見てザワつく。藤崎さんのことを元々知っている連中なんだろうか。


「あの、そんな格好してて大丈夫なんですか?」

私は、なんだか心配になった。

「何が?」

「いや、友達関係とか…お友達もグレてるじゃないですか」

ふふん、と、藤崎さんは鼻を鳴らした。

「奴らにはことの成り行きを話した。好きな子ができた、だからダッサイ格好でウロウロするけどいいな?って言ったら、みんな諸手を挙げて応援モードよ」

「あの、ことの成り行きって」

私が焦っているのを見て、藤崎さんは耳打ちをしてきた。

「大丈夫、ヤったことは内緒にしてあるから」


私は目の前がクラクラしてきた。

こっちを、近田くんも見ている。ええ、関係ないですけどね。近田くん、私なんかより飯野さんのことが好きなんだから。私のことは付き合う対象として見ていなかったんだから。


にしても、私は藤崎さんのことを何も知らない。

そんなのが毎日、教室を訪れるもんだから、たまらない。

「あの人、2年生の不良でしょ?なんで絵美ちゃんのところに遊びにくるの?」

クラスメイトが、遠巻きに私のことを見る。

私は、普段、休み時間になると本を読んでいる根暗だ。クラスの中にも派手な子はいるけど、その子達はスカートが短い。今時ロングスカートを履いているのは、華やかな子とは対極にあるってわけだ。

黒髪を、斉藤由貴みたいにポニーテールにまとめている。顔周りにぽよぽよと産毛が出るのが、まさに斉藤由貴みたいなんだ。でも、もちろんあんなに可愛いわけじゃない。

ただのチビで、ただの根暗。それが私、吉田絵美だ。

不良が毎日訪ねてきて、きゃっきゃと楽しそうに喋っていく相手ではない。


もっとも、不良とか言っても、所詮うちの高校に通っている人だ。

地味で、頭が良くも悪くもなく、悪いことをやろうにもせいぜい校舎裏手の汚いドブ川の河川敷で授業をサボるくらいのもんだ。

日々喧嘩をやっていたり、ガン飛ばしたり飛ばされたり、盗んだバイクが校庭を走り回ったりとかはしない。聞いたことがないし、藤崎さんの話ぶりでもそんなのはやっていない。


「じゃあ、なんで藤崎さんは不良やってるんですか?」

私が聞くと、ドレッドをやめて清潔感のある髪型になった彼は、真っ赤になって答える。

「中学の頃は結構喧嘩とかしてたんだよね。でも、高校入ってそんなのダセエじゃん?ほとんどファッションだけだよな。それと、酒とタバコくらい」

…惰性?


なんでも、同じ学区のA高校なんかでは、いまだに当たり前のように喧嘩をしていたり、授業を妨害して先生を追い出したり、暴れて天井に穴を開けたりしているらしい。

「そんなの中学の時にやり切ったわけさ」

馬鹿馬鹿しい、という顔をして、藤崎さんは語る。学校の帰り道、並んで歩きながら話すには、だいぶ物騒な話だ。

「うちの中学、修学旅行先の京都の旅館全てからお断り入れられてるらしいよ。まあ、俺らが悪かったんだけどな」

噂は聞いている。私の出た中学の、隣の中学。

「ま、調子に乗ってただけよ」

ニヤリと笑むこの人が、そんなに荒れていたようには見えない。

「レールに乗せられている感じが気持ち悪かっただけだったんだ」


「別に、レールなんて、乗りたきゃ乗ればいいし、乗りたくなきゃ乗らなきゃいい。高校行って、大学行って、就職して、結婚して子供作って家買って。そういう人生でも、幸せなんじゃん?俺は嫌だけど」

「じゃあ、藤崎さんは何をやりたいんです?」

私は、まさに藤崎さんが言う未来が自分にも来るんだと思っていたし、それ以外の頭が働かなかった。

「俺?社長」

「社長?」

「そ。会社作るの。どんな会社かは考えてないけど、はみ出した連中でも居心地のいい会社作るわけ」

そして彼は、空を見上げた。意外にも、さっぱりとした横顔だった。

「俺の中学の時のダチさ、高校にも入れなくて、学歴がないのと不良やってたんで就職もままならなくて、いまだにウダウダしてるのもいるんだ」

私は、それに聞き入っていた。多分、口をポカンと開けたまま。

「その他にもさ、音楽やろうとして高校入らないで頑張ってるやつとかさ、夢を追っかけてる奴もいるんだよ。でも、そんなもんで食っていけるやつなんてほんの一握りだから」

そして彼は、足を止めた。

「レールを外れたやつが、別のレールを求めた時、そこに俺がいてやりたいんだ」



今日は、藤崎さんと一緒にいても、タバコの匂いが髪に付かなかった。

藤崎さんが私のことを構いだしてから、いつも家に帰ると、自分の髪と制服を嗅ぐ癖がついていた。タバコは吸っていないとはいえ、藤崎さんの体臭からタバコの匂いが抜けるには2週間かかった。


別に、付き合っているわけではない。

それなのに、なぜか毎日、私は彼と一緒に最寄り駅までの15分間、一緒に下校している。

しょうがない、だって、迎えにきちゃうんだもん。

最初は「あの不良がなぜ?」という顔をして、私を遠巻きにしていたクラスメイト達も、地味な姿になった藤崎さんにだんだん疑問を感じなくなっていき、やがて「いつものこと」として気にしなくなっていった。

でも、多分、私と藤崎さんが付き合っていると思ってるんだろうな。

告白されてフった直後から別の男の人と下校するようになった私を、近田くんはどう思っているのかな。告白した日以降話してもいないや。


藤崎さんは相変わらず、リーゼントとか金髪とかの友達とつるんでいるけれども、それについては私はなんとも思わないし、むしろ私にかまけて友達を失うような人だったら心配でさっさと突き放していたと思う。

まして、レールから外れた人をなんとかしたいと言ったそばからレールを外している人を切り捨てたら、幻滅するだろうな。

時々彼らとは、お酒を飲んでいるみたいだった。そんなことしてるから背が小さいままなんじゃない?お酒飲まなくても、私みたいにちっちゃいのはちっちゃいんだけど。



私はどうしたいんだろう…?

もう、近田くんのことはどうでもよくなってしまった。半年間、あれだけ好きだと思っていたのに、この頃の藤崎さんの怒涛のラブコールをかわすことに気を取られていたら本当にどうでもよくなってしまった。

死にたい気持ちもどうでもよくなっちゃった。


同じクラスの近田くんは、私にないものをたくさん持っていた。

まず、背が高い。186センチあると聞いた。見上げた先にある顔は、細いけれど優しげな垂れ目の甘いマスクで、見下ろされるとドキッとする。

私は惚れやすいのかもしれない。高校に入った直後、近田くんに話しかけられて有頂天になった。その目でニコッとされると、とても嬉しかった。


でも、今思うと、なんで近田くんが好きだったのか、よくわからない。

ルックスの問題?

理由、弱いなあ…こんな、フラれて死ぬことを考えるほど好きな人に対する、それが理由?

私、近田くんとそんなに喋ったこともない。

1学期の校外学習では一緒になったし、鎌倉の街を一緒に歩いたけど、別に二人きりで遊んだわけじゃない。6人の班で動いただけで、近田くんと特別なにか話したわけじゃなかった。

それなのに、なぜか有頂天になっていたっけ。


あれ?

なんで?

毎日15分喋ってる藤崎さんのことの方が、よほどたくさん知ってるじゃない?



それはないよね



そして、その時は唐突にやってきた。

「吉田」

近田くんが、放課後私を呼び止めた。まだ藤崎さんが迎えに来ない時間だった。嫌な予感と…そして、少しだけ下心が疼いて、振り返った。

「近田くん」

「吉田、俺のこと、好きだって言ってたよな?」

唐突に…でも、なんとなく分かっていたことを、近田くんは言い始めた。この頃、なんとなく視線を感じていた。私が藤崎さんと帰っていくところを、じっと眺められていた。

「なんか、ここんところ、2年生といつも一緒だよな。あれ、彼氏?」

「いや、彼氏ってわけじゃ…」

彼氏ってわけじゃない。約束が果たされたら、ひょっとしたら付き合わなきゃならなくなるかもしれないけど、今のところ彼氏じゃない。友達かと聞かれたら、それも違う。


「じゃあ、俺と付き合わない?」

近田くんは、やっぱりそんなことを言い始めた。

もうね、わかっているんだ。自分のことをずっと好きだと思っていた(それは、視線や仕草でバレていただろう)女子が、告白してきてフった途端に別の男の人と仲良くし始めた。

彼は、多分モテる。いや、知ってる限りで私の他に2人、彼のことが気になっている女の子がいる。背が高いし、気さくだしな。


…彼のプライドを、痛く傷つけたに違いない。

それを補うための「付き合わない?」でしかない。

その目には、愛や恋なんか感じない。


「…ううん」

私は、できる限り背筋を伸ばして、なるべく彼を見据えて、言った。

「私、もうあなたのこと好きじゃないや」


「あんな奴の方がいいのか?」

近田くんは、怒っていた。ザマアミロ。今度は私がフっているんだぞ。

「別に藤崎さんがどうのって話じゃない。今はあなたのこと別に好きじゃないってだけ」

「ふざけんな」

近田くんは、机の足をバンっと蹴った。大きな音を立てたので、私もびっくりしたし、周りに残っていたクラスメイト達がビクッとした。

「何怒ってるのよ。私のこと、フったじゃない。もう、あなたには関係ない」

「関係ないのか?」

今度は机を平手でバンっと叩いた。

よほど、怒りを感じるらしい。

私は、恋愛対象ではなくて、ちやほやしてくれる女の子の一人で、アクセサリーみたいなもので…他の人に取られるのは嫌、それだけのことなんだろう。

呆れてものが言えない。


言葉が出ない私に、ギラギラした目を向けている近田くんは…何をしているのか、わかっているのだろうか?

「絵美ちゃん」

毎日のように藤崎さんが私を迎えにきた。そして、この状態を見ることになる。

「…お前が、絵美ちゃんをフったやつか…」

何かを察して、藤崎さんが私の前に立った。

「俺に取られて、悔しいか」

いや、取られてないですけど…ツッコミを入れようとした、その時。


バシッ


上の方から、拳が飛んできた。私が殴られるのかと身構えたけど、そうじゃなくて、その拳は藤崎さんを狙っていた。

それを、藤崎さんは、平手で止めた。


「俺、あんまり素人相手に喧嘩する気はねーんだよな」

下からだけど、すっと背筋を伸ばして…おそらくそれが、背の低い彼のファイティング・ポーズなんだと思う…顎を引き、相手を鋭い目で見据えた。

「俺みたいなちんちくりんに取られたのが気に入らないんだと思うけど、もとよりお前が手放したんだろ?」

近田くんは…止められた拳をゆるりと下ろし、下を向いた。その視線の先には、…私がいた。


「ごめん、吉田」


そして、荷物の入ったリュックを背負って、教室を出ていった。

私の目は、大好きだった近田くんを追っかけることなく…殺気を放っている藤崎さんを見ていた。

「藤崎さん…」

「女の子相手に机を蹴るだ叩くだって、バカじゃねえの、あんなデカいなりして」

「見てたんですか?」

そして、私に振り向いて、親指をグッと立てた。

「あんなチンタラしたパンチ、なんでもねーよ」


その様子があまりにも誇らしげだったので、少し笑ってしまった。え、面白すぎる。つい、からかいたくなる。

「喧嘩する人は嫌いです」

「だから、喧嘩しないようにしたのにー」

私もバッグを背負い、藤崎さんを促して帰路に着く。

「別に、私、藤崎さんの彼女じゃないですから」

「まだ彼女じゃないだけだから!あと2ヶ月で彼女になるんだからね!」



この頃、テレビを見ると、気分が落ちていく。

天皇陛下が病気で、そろそろ危ないみたい。毎日のように「吐血なんml、下血なんml」って報道する。

なんか可哀想になって思う。下血の量まで他人に知れ渡るの、ただのおじいちゃんだったら絶対あり得ない。あの人の立場的に仕方がないのかもしれないけど、そんな究極のプライバシーを晒されて、可哀想にな。


空気もどんどん冷たくなって、冬と言われる季節になっていた。


地理の先生は、どうにもみんなが天皇陛下の話をするのが気に入らないらしくて、「亡くなっても学校を休みにすべきではない」ってしきりに話している。そういう思想なんだと思う。

私は、思想的なことはともかく、生まれた家が原因で何のプライバシーもなく、神様だの人間だのっていろんな扱いを受けた運命の人を、ちょっとくらい思ってあげてもいいんじゃないのかなって思うんだ。

今年は昭和63年。そんなに長い間、しんどいだろうなって。


それはそれとして、藤崎さんはやっぱり毎日私を迎えにクラスまで来ていた。

「寒くなったなー」

ニコニコしながら一緒に帰る。あんまり寒いんで、100円の缶コーヒーを買ってきて私に一つくれる。

「すぐ冷めるけどさ、15分くらいは温かいんじゃない?」

缶を握っていると、心まで温かくなった。


そうは言っても、私と藤崎さんは付き合っているわけではない。手が冷たいからって、握り合うわけでもない。

すっかりタバコの匂いが消えた彼の体は、みんなと同じ制服に包まれている。今はその上にウールの黒いコートを着ている。前みたいに目立つところは一つもない。

彼がワルであるという証拠は、友達の様子と、たまに夜更かししてその人達とお酒を飲んでいることくらいだろう。

そのくらいは全然、なんとも思わない。


約束の3ヶ月は、残り1ヶ月を切った。

本当にタバコはやめてしまったわけだ。なんか私、彼の人生にいいことをしたような気がする。タバコなんて、あんな勢いで吸っていたら…見る間に10本の束が消えていくんだから…背が低いだけでなく、将来は肺がんで若死にするよ。


「絵美ちゃん」

藤崎さんは、嬉しそうに語る。

「あと4週間、そうしたら、…手くらい握ってもいいよね?」

当たり前じゃない。

私は、そう言いそうになって、言葉を呑む。

ドキッとする。

そうだ。このまま、私たちは「恋人じゃない」という関係を続けていくんじゃないんだ。

もとより、体の関係は結んじゃっている。でも、それはあくまでもその時だけのこと。

本当に恋人になった時に…私は、この人とどういう関係を結んでいくんだろうか?



藤崎純平、大立ち回り



藤崎さんが、頭を下げた。

私に向かって、頭を下げた。

「…なんですか?」

その日は、終業式を間近に控えた暮れで、地面から冷えが立ちぼってくるみたいな冷たい日だった。

いつもみたいに下校時に来たのではなくて、2時間目の合間の休み時間に彼は現れた。そして、私に90度のお辞儀をしたのだ。

「…俺、絵美ちゃんとの約束を、破らなくちゃならなくなった」

「え」


「ダチが、A高校の連中にボコられた。こればっかりは見過ごすわけにはいかない」

目には怒りの色がありありと見えた。こんな藤崎さん、初めて見た。

「この格好じゃ相手を威嚇できない。短ランとボンタン、着ようと思うんだ」

土下座をせんばかりに、頭を下げる。

「約束を破る。せっかくあと10日のところだったのに、本当にすまない。こんな奴だと呆れてくれて構わない」

私は、彼が何を言おうとしているのか、わからなかった。

しばらく考えて、ああそうか「約束を破ったからお付き合いする話は無しにしよう」って言ってるんだと思いが至った。

それに気づいても、私は、何を言ったらいいかわからなかった。


「これで仲良くするの、最後になると思う。絵美ちゃん、楽しい時間をありがとう」

「え、ちょっと、待ってよ」

私は、焦った。心臓がドクン、と鳴った。

「勝手に答えを出さないでくれませんか?」

頭が真っ白になって、何も考えられなくなって、でも、私の中で何かが明らかに彼の提案を拒否していた。


「理由が理由じゃないですか」

私は、何を言い出しているんだろう?

「仲のいいお友達が殴られて、黙っている藤崎さんの方が、嫌いですよ」

あーあ。私、何かを認めてしまった。

これまで、認めようとしなかったことを。認めたら話をさっさと進めたくなっちゃうから、認めようと思わないでいたことを。

「え」

「藤崎さんは、私とお付き合いするの、やめたいですか?」

「いやでも、約束を違えてしまうから」

「そんなのいいですよ」


あーあ。

「そんなのいいから行ってきてください。その代わり、勝って帰ってきてください。なるべく怪我しないで帰ってきてください。その約束を守ってくれるのならば」

あーあ。


「10日は短縮しちゃいましょう」


「え」

藤崎さんは、目をぱちくりとさせた。さっきまでの、怒りと覚悟を決めた表情はどこへ行ってしまったのだろう。

あれよね、ヤクザ者の人が、もう帰ってこないって意味でお酒を飲んだ盃をパンっと割るシーン、テレビで見たことがあるけど…あれをやろうとしていたら、盃が割れなかったガッカリシーンみたいになってる。

「いいの?」

「藤崎さんがそれでいいなら、いいです。私、藤崎さんのことが問題なく好きなんで、無事に帰ってきてくれたらすぐにでもおつきあいしたいです」


あーあ、本当に言っちゃった。


藤崎さんは…まるで乙女のように、顔をパーっと赤めた。

「あ、や、本当に?」

「嘘は言いませんよ私。応援してますから、頑張って敵討してきてください」

そして、私、ものすごいことを言い出した。

「帰ってきたら、セックスしましょう」

「えええええ!?」

藤崎さん、本当に表情がコロコロ変わる人だな…今度は、びっくりして、目が大きく見開かれた。


「俺、頑張るわ…」

グッと拳を握って、彼はその拳を見つめると、今度は私の目を見た。

「俺、めちゃくちゃ絵美ちゃんのことが好きだわ…絶対、絶対、相手ぶちのめして帰ってくるから」

そして、グッと頷いて言った。

「セックス、しよう」



心配していたことは何も起きず、どうやら我らがX高校の不良達の方が喧嘩で圧勝してきたらしい。

藤崎さんの友達連中が私に語ったところによると、藤崎さんが鬼のように相手をぶちのめしてきたそうな。

実は、中学の時には「鉄拳の藤崎」と名を轟かせる暴れ者だったらしい…。

そして、喧嘩の話が終わると、その友達連中が私のことを「絵美さん」と呼び始めた。彼らは私よりも一学年上なんだけど、「絵美ちゃん」ですらなく、尊敬を込めた「絵美さん」だった。

「カッコいいよ、絵美さん。純平が惚れるだけのことはある」

「え」

「啖呵切ったらしいじゃない。勝って帰ってきたら付き合ってやるって」

…そこまでしか喋ってなくて、よかった…。


藤崎さんは、ボロッボロに怪我をしていた。顔は腫れ上がって唇を切っていて、体のあちこちに打撲の跡を作っていた。

「カッコ悪いな、もっと爽やかに帰ってこられればよかったけど」

そんな顔は、先ほどまで人に見せていたであろう「鉄拳の藤崎」ではない。バツの悪そうな、クシュンとした恥ずかしげな笑顔だった。

「いや」

私は、深呼吸をして、彼に問いただした。

「勝ったの?」

「おうよ、当然」

「敵討ちはできたんですね」

「土下座までさせたった」


「よし」

私は、彼の痛々しい頬を手のひらで包んで、腫れた唇に唇を添わせた。

「…痛い?」

「痛…くない、っす」

藤崎さんは、一瞬力を抜いて、そして、腹に力を入れた。


「絵美ちゃん」

私の目をしっかりと見る。

「俺、もうこの服着ない。喧嘩もできるだけしない。絵美ちゃんが好きな爽やか好青年を目指す」

「うんうん、無理に目指さなくてもいいっすよ」

そうね。そろそろ、聞かなくちゃ。

「だから」

藤崎さんが顎を引いた。あのファイティング・ポーズだ。


「俺と付き合ってください」


「よろしくお願いします」

私は、打撲だらけの彼の体にできるだけ触れないように…その手のひらを、両手のひらでふわっと包んだ。

小さい私の手は、あまり大きくない藤崎さんの手の全てを包むことはできない。

でも、精一杯包んで見せた。

「あなたのことが、好きです」


「よっしゃあ!!!」

藤崎さんは、身を屈めて目をギュッと閉じた。それから、首をブルブルと振って、私の方に向かい直った。

「やった!俺、やったわ!」

そして、私のことをギュッと抱きしめて、そして

「痛え!」

と、腕の打撲に悲鳴をあげた。



どうせ死ぬなら、と思ってやった前回のセックスとは違って、お酒を飲む必要もなければ一晩だけだと思う必要もなくなった。

私は死ななくても良くなったし、目の前にいて肌を合わせているこの人がなんで好きなのかもはっきりしていたし、ずっと離したくないとすら思った。

そして、…痛いのはまだ痛いんだけど…温かくて、優しくて、気持ちのいい時間を過ごした。



やがて、昭和が終わり、平成の時代がやってきた。

私と藤崎さんは、いつまでずっと一緒にいられるんだろう?

どうせ死ぬなら、死ぬまで一緒にいたいな、なんて思っちゃったり。


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