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マナー違反ってなんぞや!世の中に蔓延る面倒臭い規則やマナーについて


"マナー違反"という言葉にふと違和感を感じたので書く。

 "マナー"とはあくまで気遣いや気配りといった他人を思いやる為の礼儀や作法をという意味合いに近い。なので、マナーはルールでもなければ規則でもない為、出来ていないからといって違反になるわけではない。

言葉の使い方としてはおかしい。

ルール違反や法律違反といった規定や規則を破った時に使われる言葉である。

辞書を引くと直ぐに出ては来るが。

恐らくだが、これが違和感の正体であると思った。


|細かく厳しくなるルール


 ルールや規則を守れない者が居る、一部破る者が居る事により新しくルールが作られていく。それでも尚、破る者が居るとルールは厳格化される。

しかし、それらを殲滅(完全になくす)させる事は不可能であろう。ゼロにさせることとを目標に掲げルールを作り、厳しくさせ、更に厳しくさせたところでゼロにさせる事は殆ど不可能なのではないか。

国でも、会社でも、学校でも、とにかくルールを作り、破る者が居れば厳格化させ、より細かいルールが増えて面倒臭くさせる。昨今は、破る者が多い為か、あらゆる側面からしてルールが厳しくなり、正直、面倒臭い印象を受ける。


|所詮は鼬ごっこである


 ルールを作っても、厳格化させても、破る者は必ず現れる為、常に鼬(いたち)ごっこなのである。極少数の人間が破る事でルールや規制が厳格化され、それに多数の人間が振り回されるようでは本末転倒ではないか。

破る者を減らすとは言い、至るところに貼り紙をしている光景を見ると呆れてしまう。取り敢えず、ルールさえ作れば守るだろう、書いておけば見て従うであろうと妄信するあまり、多くの細かいルールが作られた結果、非常に面倒臭くなる結果となってしまうのだと。

又、ルールを作れ、或いは、厳格化せよと支配的な人間が増えているのも多くの細かなルールが作られるということに拍車を掛けているのではないか。

そう勘繰ってしまう。


|初歩的すぎて逆に煩わしく感じる


 ルールがなくとも、人としての最低限の倫理は多くの日本人が有していることであり、それも幼い頃から養われてゆく。一人の人間として生きてゆく為に。日本人ならばルールがなくとも、他人が不快になる事はやってはいけない、公に害となるような行為は愚かであると無意識のレベルで備わっている。

だからか、細かなルールや初歩的な規則が乱立していると煩わしく感じるのだと思う。マナーも然り。

「自分がされて嫌なことを他人にするな」
子供の頃から言われ続けた言葉の一つである。


|マウントを取るだけのツールに成り下がったマナー


 ルールは遵守することで社会を乱さない為のツールである。どちらかと言うと強制的な面を持っているのに対し、一方でマナーは礼儀や作法に当たり、ルール程強制力を持たず、任意的な要素を持っている。その為、マナーを強要し、強制的に押し付ける行為は行儀が悪い。

それこそマナーが守れていないに価すると捉える。但し、現代はルールとマナーを混同しているケースがよく見られる印象を受ける。

加えて、起源が不明で何の為なのかも知らず、目的を見失ったまま従順になることを良しとする社会も相まってただただ言われるがまま従うだけのものになってしまっている。

終いには、従っているか否か、及び、知っているか否かで優劣が生じ、知っているからと横柄な態度を示す者や知っている自分が如何にも知識人であるかの如く振る舞う者、知らない人に威張って押し付け矯正させようとする者など、よりニッチなマナーを知っているからとマウントを取り、気取っている惨めな人間を生む結果となっているのではないか。

もはや、マナーというものが自身の優位性を維持する為の道具に成り下がっている節も見受けられる。


|「マナー」と聞いて特に嫌いな言葉


 そして、私は「社会人としてのマナー」という言葉が大嫌いである。

社会人であれど接するのはたかだか人間であるからである。言葉通づる存在、意思疎通できる存在である。

要するに、根底にあるのは人としてお互い接する事である。何もそこに優劣は存在しない。

どちらも人として、一人の人間として快く接すれば良い話。自身の先入観や価値観で他人の揚げ足を取るとか以ての外。

社会人としてのマナーがなっていない或いは知らないからと頭ごなしに人格否定したり、威張ったり、親切心を装って他人を貶す行為は人としてあるまじき行為である。

商売するにしろ、関わるのは所詮、人である。

上司やら、部下やら、取締役やら、分け隔てなく快く接すれば良い。身内の取締役だから上目を気遣い、何か指摘されないか内心ビクビクして接したり、部下だから躾けてやらねば自分が恥をかくからと躍起になったりと、非常にくだらない事である。


|商品として扱われる始末


 マナーを簡単に表すなら、礼儀或いは作法である。ルールのような支配的な要素はなく、どちらかと言えば任意的要素のように思う。

ルールや規則のように「これはこーである!」というような教え方にはさぞかし疑問に感じる。

現に、"マナー講師"と呼ばれる者まで現れる始末。

このマナー講師と呼ばれる人間が前に立ち、「これはこーするのが正しい」、「これは失礼である」などなどそのような文言で教育を成す。就職活動前とかになるとこういった講習を受けるであろう。

ただ、これに違和感を感じざる得ない。

普通に他人を気遣う心について教えれば良いが、事細かに説明したり、「これはこーであるべき!」みたいな教え方をするがあまりマナーという言葉そのものが煙たがれる存在になっているのではないか。

確かに、面倒臭いし、面倒臭い存在であると自分自身もそう思っている。

このマナー講師なる者もこれを生業としている。つまりは、商売として行っているに過ぎない。

故に、創作マナーたる物まで登場し、人々を混乱させる羽目にもなっている。そして、何でもかんでも"失礼"呼ばわりし、そのような創作的なマナーを作る者を揶揄するときに使われる"失礼クリエイター"という言葉も誕生した。

もはや、金稼ぎの道具になってしまっており、本当に馬鹿馬鹿しく思う。


|人として最低限あれば良しと思うが


 各々配慮の仕方は違えど、他人を不快な思いにさせない、公に迷惑になる行為を行わない為の気遣い・気配りすることが本来のマナーの在り方と思っている。

最低限、人を思いやる心があれば細かいマナーは必要ないと思う。ルールやマナーは人を思いやる気持ちが無い者にのみ適用されるツールであると私は捉えている。同時に厳しくすれば良いも根本的な解決に至らないとも捉えている。

私はマナー講師でも何でもないし、これらに詳しいわけでもない。ただ、疑問に思ったから文字に起こしてみた。自分の頭の中に整理の為にも。

昨今はやたらと規制が厳しく、又、事細かに書かれていたりと、初歩的なものまで書かないといけないのかと思うくらいである。本当に面倒臭い世の中になったなと思う。

私が住む近場のダイソーにはあらゆるところに注意書きの貼り紙が張り巡らされている。そして、中には「店内の商品を精算前に開封しないでください」とか、「店内の商品を勝手に持ち出さないでください」などなど、こんな事までいちいち書かないとルールやマナーが守れない者がいるのかとさぞかし呆れてしまう。

ただ、普通に日本で暮らす以上はこんな初歩的なルールやマナーはわざわざ文字で書かなくても皆守れるものである。事細かに、箇条書きでだらだら書かれているのを見ると非常に煩わしいのである。

それに、現代の日本には多くの外国人が訪れる国でもあるが故に、一部の人間が迷惑行為を行い、社会が乱れていく。それらを防ぐ為に、ルールや規制が厳しくなるのも事実である。

こういう社会背景も相まっていろいろ面倒臭くなっているののかもしれない。

※ルールやマナーの中には、守って意味を成さないものも中にはあるという事もあり、あまり従順になり過ぎるのはよろしくない。


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