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プロローグ10. 「ムカつく」おけ! 「キライ」上等!(by も )

こんにちは。すべての「不器用さん」に向けて、概念の”ハザマ”を掬(すく)うように綴っている「東の魔女の暮らし」です。
いろんな書籍に「実はそこ書かれていなくない?」というところを書いて行こうと思っています。橋渡しでありながら同時にわたしだって人として不完全です。これを読んで「ラム子さん、まだまだ修行が足りないな」と思う方は、完全なるハイパーアセンシャーですのでわたしから学ぶことはありません。笑。むしろ教えてください、どうしたらそうなれるのか。
日々精進しながら、まだまだ修行が足りない”人間たち”に向けて書いていきます。今日お伝えしたいのは、「キライな人を好きになる必要はない」ということ。あと、ムカつく時はとことんムカついたっていいのだ、ということ。

よく、それ系の書籍に「自分によくない念を送ってくる人や、嫌なことをする人に”光”を送りましょう」と書いてあります。しかしハッキリ言って、すっごい憎かったり、腸(はらわた)煮えくりかえってるとき、「してやられた!」と思っている時や、どうにもこうにもそいつが嫌いな時に、
「光」なんて素敵なものを送ってやる気にはなりません。(どうですか皆さんは。わたしはそうです)むしろ仕返ししてやりたいような気分なのに。
そういう時どうするか。

そういう時、もっと自己肯定的に、今のじぶんに湧き上がってくる気持ちを肯定してあげていいと考えています。「光を送れない」と考えると、そこに自己否定が入ってしまいます。本来じぶんが善人であればそうすべきことができない自分です。でも、だからこそ人間なのです。人が人でいながらそれだけ波動の高い愛のレベルに到達したら、おそらく次は樹木とか、植物とかに生まれ変わります。見返りを求めず与え続けている波動の生き物たちです。でもわたしたちは人間です。同じ過ちを繰り返し戦争をして、生き物を殺してそれを食べて生きて、なのに善人になりましょうとか言って瞑想したりして、驚くほど残虐にもなれるのに、命の誕生には涙したりする、矛盾だらけの生き物です。わたしたちは理不尽の塊のような性質を持って生まれてきました。嫌いなものは嫌い、ムカつくことはムカつく、意地悪をしてしまうこともある。醜いものを抱えながら、それでも光の射す方へ歩こうという努力はしている、健気な生き物でもあります。
だからまずじぶんのことからで大丈夫。

「ムカつく」? おっけい! 「あいつ嫌い」? 上等です!
全然それでいいし。
そこで"ハザマ"のコツとして。
「ムカつく」とか「嫌い」とか「地獄に落ちろ」的な念を、相手に飛ばすのはやめた方がいいです。相手が悪いと、黒い鏡に跳ね返されて、じぶんが自滅します。(経験アリ)世界には明暗があり陰陽があり、同じ人間にも、本当に”呪い人”みたいなのがいますので、素人が安易に恨みの念を飛ばすのは迂闊(うかつ)です。そういういろんな背景から、それ系の本には「光を飛ばすように」書いてあるのだとわたしは思うのだけども。
とにかく「相手のために」ではなく「じぶん自身を守るために」ネガティヴな念は飛ばさない方向をお勧めします。わたしは、ストレスまみれになって、もはやじぶんの意思でそうしているかもわからないタクシーの運転手さんにひどい態度(乗車拒否)とかされても絶対にセンターに連絡したりしません。なんだかものすごくヤバイ、地獄の足の引っ張り合いがそこから始まる気がしてしまうのです。ムカつきます、嫌いです、だから関わらない。

そして次に、嫌いな相手への最大の復讐なのですが、それは「無関心である事」です。嫌いというアクションをしている間はまだ、その相手に対して、エネルギーをさくだけの愛があるという事になります。
これは「そういったってさ!」腹の虫がおさまらない事もあると思うので、どうしても何か言いたい人や「うおおおおお!」とか叫びたい人は、そうしてもいいと思うのですが、同時に「ああ、愛、使っちまったな」とも考えると良いと思います。

あと最後に、これは嫌いな相手を増やさないコツなのですが、
実はわたしはあまり嫌いな人がいません。でもそれは、わたしの心が綺麗なのではなくって、実は合理的な、ずるい? 処理をしているからなのだと思います。一見ひどい言い方に聞こえるかもしれないけれど「期待しない」ということ。心の中に間仕切りを作って、そこをファイリングします。具体的なイメージとしてそういう瞑想をしているのではなくなんとなくそういう感じという意味です。例えばわかりやすい例でいうと、ドタキャンが多い人。
そういうやつは、ドタキャンありきで予定を考えます。つまりその約束が遂行されるなんてこれっぽちも思っていない状態でしか予定を入れません。
だから大切な時間をわざわざ割いてまでそいつと会いません。だけど、ドタキャンするところ以外は好きだから、関わっています。(これはみなさま、割と、そうしてる人いるのではないでしょうか)

それと同じ要領で、「こやつはおしゃべり」「こやつは性格悪い」と分類していきます。「こやつ」とか多少乱暴な目線で分類しましょう。なぜかというと、敬意を持ったり、期待をしたり、想いをかけて歩み寄ってしまうと、ひどいことをされた時に大きく傷ついて、最初は嫌なのは「物事」だったのに、最後には「その人」を大嫌いになってしまいます。

これはわかりやすく「嫌いな人」を分類する時よりも、実は「結構好き」な人を分類する時に、とてもいいです。ずっと尊敬していた人とか、ずっと大好きだった人に、「えっ」っていうことをされたり、じぶんとしては酷いことをされた気がしたり、「ちょっとそれ違うよね」って感じることがあった時に、あなたがとても苦しいのは「尊敬している人」のフォルダに”still(今もなお)” 入れているからです。
そうするとそのフォルダの中で相手を理解しようと頑張りますから、その隙間がどんどん深くなり、あるとき急に「顔も見たくない」存在になってしまいます。こうして嫌いな人が増えてしまう。

そういう時、臨時フォルダを作りましょう。一つのオワコン(終わったコンテンツ)フォルダを作り、そこに相手を入れて、じぶんの納得する名前をつけましょう。「もう追い越した」とか「彼(彼女)は変わってしまった」とか「これがこの人の本質」とか、今の状況を正しく表すフォルダに、入れましょう。「したたか大女優」とか「破滅させ男」とか「親切詐欺」とかそういうのでもいいし、シンプルに「今は嫌い」フォルダでもいいです。
これは特に、そういう相手と物理的に距離がおけず、日々顔を合わせなくてはならない時の対策として、とてもいいです。

今までと違うフォルダに入れることで、一旦今のじぶんの感情の処理が済み、そのことでまたフラットに相手に向かい合えるようになります。これは全然アセンションなやり方じゃありませんが、酷いフォルダ名をつけていたりすると、その引け目から、多少相手に優しくもできます(笑
なんていうか、わたしが言いたいのは「悪なき善」など嘘っぽくて信用がならないと言いたいのです。多少の意地悪、多少の悪意、結構なしたたかさ、を持っているのが人間です。それを飼い慣らしながら光の方へ歩いていく、それだけで尊いのです。生まれつき善の心しかなかったら、誰かに親切にするのはとても簡単です。でもそうじゃないから、優しい人は偉大だし、人に優しくなれない人の気持ちだってわかるのだと思います。矛盾を抱えて、それでも生きていく。
この「それでも生きていく」ことができていれば「矛盾を抱えている」事実を否定的に捉える必要はありません。

臨時フォルダに入れて、日々を紡いでいくうちに、「なんかそこまでやっぱり嫌いじゃないかも」となる時があります。「嫌味しこたま製造機」が、期待通りの嫌味を言ってよこした時に、なんだかふと愛しみを感じてしまうこともあります。そしたらまた「好きな人」のフォルダに戻せばいいと思います。内々でこんなこと考えてるってじぶんって嫌なやつかな、って思う人がいるかもしれないけど、こういうことを、行動に出す人いますよね。
急に「あんたなんか嫌い」みたいな連絡をよこしてきてしばらく疎遠になったと思ったら、あるとき急にそんなことなかったみたいに「ご飯行こう!」みたいな人。それって、した方は随時スッキリしているけれど、された方はずっと傷が残ります。そういう人にあなたがなってしまうよりは、心の中でフォルダわけしている方が、わたしはその相手に対しても、思いやりがあると思うのですが、みなさまどうでしょうか。

今日の『東の魔女』も「世界の声」というより「わたしの声」でお届けしました。一応ずっと、人間だけを書き続けてる ”人担当” の物書きとして。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 

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<ラム子より不器用さんたちへ>
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