見出し画像

文盲のおばあちゃん

 もし生きていたら、今120歳くらい、西暦1900年ころに生まれた、私のおばあちゃん・イチの話です。現在放送しているNHK大河ドラマ「青天を衝け」の舞台となりましたが、埼玉北部にある血洗島の近く、街道筋、中山道に面したところで自転車屋を営んでいました。その傍ら、養蚕業もしていて、冬の間は家で銘仙の機織りもやっていたようです。とても働き者でおしゃべりなおばあちゃんでした。私が幼い頃ですが、おばあちゃん家の地域一帯は「ガチャガチャガチャ」と織機の大きな音がひびきわたっていました。まだ何軒か織機さんをしていた家もあったようです。 そのころでも、おばあちゃん家には桑畑もあり、屋根裏では蚕を飼い、たくさんの蚕が葉っぱをたべる「はむはむ」という音が重く静かに響いていたという記憶があります。 たぶん、蚕に葉っぱを私もあげたんじゃないかな。手の上に蚕を乗っけて、その透ける白さ、頭を撫でるといやそうに反るさま、虫と遊んだ思い出が残っています。

 小さい頃は、年に1~2回くらいおばあちゃん家に遊びに行って、お年玉もらったり、いろんな話を聞いたり。おばあちゃんは子どもの頃「もりっ子」をしていたので、小学校も通えなかった。背中に子供をおぶい、今風に言えばベビーシッターしながら、学校の窓の外から授業をみたりしたけど、「そんなんじゃ勉強できないんだ、ずっと働いてきたんだよ」と言っていました。「年を取ると、手とかこんなにしわしわになっちゃうんだよ」「お迎えがこないから、もうしょうがないんだ」、といいながら屈託なく笑って、一日一本、タバコ(ケースに入れた、わかば)をくゆらす人でした。おばあちゃんが子どもの頃は、近くに処刑場があって、生首が置いてあった、それを見に行こうとしたけど、周りの大人に止められたとか、出てくる逸話がまさに江戸時代でその真偽は未だに不明。言葉は方言なので、全部が聞き取れてたわけではないけど、「その頃のお祭りはたのしかった。すごい人が出たんだよ」とか、「いまでもお囃子に合わせて踊れるんだ」と、楽しそうに、懐かしんでいました。
 気は強いけど分をわきまえ、4人の子供を育てたしっかりもののおばあちゃんです。おじいちゃんは割と早く亡くなっていて、3 人いた息子のうち、2人を戦争でうしないます。戦後は、亡くなった息子のお嫁さんと一緒に、自転車屋と養蚕農家を切り盛りしていたのです。

 子どものころ、十分な教育を受けることが出来なかったおばあちゃんは、字を読んだり、書いたりすることができない文盲でした。今考えると、文盲だったことは衝撃ですが、おばあちゃんはひとりで電車に乗って、娘(私の母)のいる所沢まで平気でやってくるのです、駅名も読めないのに(人に尋ねながら乗り換えた、と言っていた) 。また、選挙で名前を書くのが大変だったようです。食べ物は刺身とか肉が好物で、髪の毛はきっちりお団子頭。普段着は地味な小紋の着物などを着ていました。ウールや人絹の着物で帯は貝の口に結び、鼈甲の櫛でいつも身ぎれいにしていた印象です。また、「昔はモテた」と自慢(?)話もあって、「頼めばなんでもやってくれる男どもがいたけど、今はみんな死んじゃった」とさびしそうに話し、自分の長生きを憂いていました。

 おばあちゃん家には、息子達の作ったいろいろなものがありま した。「離れの家の建て増し」や「便所」(そのくらいつくったらしい)、「本棚」や「タバコ盆」、それも相当しっかりした作り。また、絵を描かせれば学校で賞をとり県知事に表彰されたり。書のうまい息子もいて、文化度の高い(今は存在しない)男達の話でもりあがってました。戦争で犠牲になったふたりの息子のうち、一人は飛行機で墜落、もう一人は陸軍でインドネシアで亡くなった、と聞きます。息子は学業も優秀だったけど「頭がいい方から、死んじゃうんだ」と、亡くなった子ども達を悼んで、そういう理不尽を意識していた家族でした。私の母は四人きょうだいの末っ子。女だから、明治生まれのおばあちゃんにとっては子どものうちにカウントしてないのかもしれません。明治生まれのおばあちゃんは、私の母を、自分の子として前にだすことは無かったような気がします。べたべた甘えたコミュニケーションではなく、思い出すと、昭和ですから、なんと言いますか、乾いた親子だったようです。

IMG-5930のコピー

 おばあちゃん家が養蚕農家でしたから、着物の思い出は たくさんあります。母のたんすには、おばあちゃんの家から持ってきた着物が何枚かあり、また私も、母の兄の嫁さん(わたしからするとおばさん)からもんぺの端切れをもらいました。そのおばさんの嫁入りのときに用意した下駄は私が貰いうけ、今は私の家にあります(上の写真が実物)。胴に黒塗りで金の鶴が書かれた畳表の四角い嫁入り下駄は、その後底にゴムをはり、鼻緒も太い物に取り替えて、着物のオフ会などに履いて行ったものです。デザインを考えるときの貴重な資料になっています。設置面の角度がきもちよく、着物好きになった理由の一つです。もんぺの方は、薄い薄い銘仙で、ピンクと紫の花柄。冬に機織りをしていた、おばさんの手作り。「夏育てた繭を内職屋さんが持っていって、代わりに冬は染まった糸ーー10反か20反くらいを悉皆屋さんがもってくる。冬はそれの機織り。ゆるーく織れば1 反くらい余分に作れる。だからそれで着物を作ったんだよ。もんぺの上下も作ったし、戦時中は色々工夫をしたんだ」とおばさんは言います。 指の太い、働き者のおばさんです。嫁入り先で、2人の子供をそだて、気の強いおばあちゃんの下で働きまくったんだと思います。嫁入り仕度のことを聞いたときは嬉しそうで、華やかな 深谷近辺の当時の文化を感じました。
 あるときおばあちゃんに、大きくなった私が、着物好きで集めた着物を見せると、(まだ図案屋ではなかった)「てぇ。らしゃめんみてぇな着物だな」という感想でした。らしゃめん? とは羅紗緬(遊女や妾をさす) のことかと思いましたが、もうすこし聞き出すと「どことか(地名)の方に昔居たんだよ、きれいにしててさぁ……」とのこと。このへんのことを通訳をしてもらうのは苦労したのですが、ともかく派手なものは駄目だったみたいです……。
 

 江戸時代も、養蚕も、着物も、お祭りも、話を聞くと地続きなんだけど、とても遠い世界。私はそれ以上調べることもなく、おばあちゃんは96歳くらいで亡くなります。長命だったのでお葬式にはたくさんの人が集まりました。そのころ、東映の大泉撮影所でバイトをしていた私は着付けができたので、葬式当日の朝、老女達(失礼)に並んでいただき、喪服をはしから着せまくりました。20人か30人、良い着物もあり、ぼろぼろの着物もあり。サイズなんか合いません。なんとかお葬式に間に合わせた、そういう日でした。おばあちゃんのお棺には、一番気に入っていた(と思われる) 茄子の柄の小紋の着物を入れてあげました。ばあちゃんの好みは私も知っています。お祭りみたいな、天蓋の出た、ちょっと派手なお葬式は無事に済みました。その後も芝崎家はごたごたするのですが、最後の頃のおばあちゃんとの思い出は、私がなかなか結婚しないことを憂いてたことです。限られた交流でしたが、それなりに仲良しだったんじゃないかな、と思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?