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緑の縁(1)

 窓が割れて、緑色の線になる。
 木の生き方を真似するみたいな線でガラスが割れていく。割れて露わになった縁は目を刺すような緑色に光っている。割れ終わったあともガラスの縁は緑色の光を出していた。あたしは窓という透明なからだのものに血が通っていたことに驚いた。
「嵐かもしれない」
 背後でタマの声がした。開けっ放しの部屋のドアから、廊下に珠が立っているのが見えた。
「窓、それ、割れたの?」
 珠の声が続く。廊下の暗がりの中に表情は見えなくて、それでも珠の気持ちが伝わってきた。高い背丈に噛み合わない細やかなつくりの声が、今は悲しいくらいにか細くなって、音の波がいつまでもふるえている。
 そのふるえが、あたしの耳を揺さぶった。
 つかえたテープが回り始めるように、あたしたちの周りの音が再開した。机の上の雑誌がページをはためかせる音。机へ向かう風が耳元をかすめていく音。風の侵入してくる窓の、割れ残ったガラスの向こう側で、誰かが低く唸る声。
 窓の外の路地は、朝の行き来の多い時だった。通り過ぎていくはずだった人達が、あたしたちの部屋の窓のすぐ下、唸り声のするあたりを見て立ち止まっている。人だかりのうちの何人かに見覚えがある。珠より少し年上に見えるお兄さん達の三人組は、裏手の理髪店の人たちだ。鋏の入ったエプロンのままで、慌てて飛び出してきたらしかった。その横で、あたしたちの隣の部屋に住むおじいさんが、杖をぐらぐらとついて狼狽えているのが見える。
 あたしはスリッパを足の裏で踏みしめて、床に散らばるガラスを恐れながら窓に近づいた。鋭い破片で溢れたサッシから慎重に身を乗り出して、下を見る。
 見慣れた側溝の蓋の、黒くこびりついた砂埃の上には、誰かがひとりうずくまっていた。タンクトップから痩せた肩が出ていて、十月の朝には寒々しかった。遠巻きになる人だかりの方から、危ないよ、と囁く声が聞こえた。うずくまる人が、金属のパイプを握りしめているのが目に入る。長く続いていた唸り声が止む。
「嵐を見ろ」
 唸り声と同じ色の声だった。パイプが持ち上がるのが見えた。あたしは窓から飛び退いた。逆光の中、立ち上がる人とパイプのシルエットが見えた。

 あたしの意識は、ほんの一瞬途切れたらしかった。窓が再び見えたとき、シルエットは崩れていた。理髪店の人たちが窓の近くに屈み込んで、地面の方へ向かって何か叫んでいた。
 あたしは肩に熱を感じる。珠が隣にいる。あたしたちは部屋を出る。

 玄関で珠が立ち話をしている。お隣のおじいさんが繰り返し何かを嘆いて、珠は静かに相槌を打っている。
 あたしは台所で、絆創膏の薄い剥離紙をつまむことに失敗し続けていた。指先がしびれている。体の隅々に渡っていた神経の道が、離ればなれの砂粒になっている。昔、うまく踊れなかったときの、悪い緊張の仕方だ。
「はい、大丈夫です」
 珠の話し方が変わった。玄関に二人組の警察官が来ていた。
「窓は割れてしまいましたが、怪我はなくて。幸いにも」
 珠の嘘は、すぐに声に出る。それが長く一緒にいると気づくものなのか、誰でも気づいてしまうものなのかは分からない。あたしは開けられないでいる絆創膏を強くつまんだ。
「いや、知らない人ですね……」
 珠の声が少し緩む。いつもの、本当の声だ。『知らない人』のことはあたしも知らなかったし、目撃者や近所の誰もがそのようだった。取り押さえた理髪店のお兄さん達は、この辺の人じゃない、と言っていた。仕事柄すぐにわかるものなのかもしれないし、そう思い込みたいのかもしれなかった。
 珠は警察官と話をしながら、玄関を閉めて外に出ていった。お隣のおじいさんがしきりに何かを訴える声と、警察官が質問をしている声の塊が、アパートの廊下の向こうへ遠のいていく。
 あたしは自分の怪我の場所を忘れていた。両腕を見回すと、右手の小指の側面に、暗い赤色が貼り付いているのを見つけた。傷口は小さく、血はすっかり固まっていた。開けられなかった絆創膏はしわしわになって、テーブルの上に落ちていた。

 騒ぎが収まった頃、お隣のおじいさんが部屋に戻る音が聞こえて、珠も帰ってきた。目元に力のない、疲れた顔をしていると思って、あたしはやっと珠の顔を見ることが出来たと気づいた。
ヨミ、怪我は」
「大丈夫だったよ。ほら」
 あたしは珠の前に右手を掲げて、細いかさぶたの線を見せた。
「痛い?」
「ううん、そんなに痛くない」
「消毒した? 絆創膏は貼らなくていいの」
「消毒はしたよ、絆創膏は無くても良さそう。これくらいの傷なら、かえって治りが悪くなるかもしれないし」
 珠が向かいの椅子に座って、あたしの指先に両手を添える。
「びっくりしたね、さっきは」
 珠の声は落ち着いている。あたしはそれに安らいでいる。

 あたしは珠と一緒に、自分の部屋へ戻った。サッシに割れ残った窓ガラスの、色づいた縁を見る。緑色の血は緑色のまま、少しもくすんでいなかった。
 あたしは泣いた。珠があたしの右手を握った。小指の傷口が少し痛んだ。
 あたしたちの流す血は、すぐに赤黒く枯れてしまう。