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心照古教〜『大学』を考える〜【二】

「内にある小太陽」にかかる雲

自己防衛のための自己卑下も、
本来持っているはずの「内なる太陽」にかかる
雲の一つだと思っています。

その思考自体が本人の気力を奪い、
建設的な思考や行動を妨げるからです。

私が自分を露骨に過小評価していたとき、
大学の授業で、就職活動準備として行ったワークで、
「自分が成長したとかんじるエピソードを思い出してみよう」
というものがあったんですが、
沈思黙考した結果、唯一のハイライトが
「二足歩行できるようになったこと(赤子時代)」
だった、っていうしょっぱい記憶が思い出されます。

当時の心理としては、
「それ以外思いつかない」というより
「これが正解だと思った」といった方が適当です。

自分が「成長できた」と思うことは、
当時の私にとってはNGだったからです。

でも、そのルールは外の社会で通用しない。
就活でもまるで役に立ちませんでした。

この後、自分を認められるようになりたいという渇望から
指標となる師匠を見つけ、
「建設的な(…と思える)行動をとる」
ことを選択するようになりました。
これが「修行」の始まりになります。

そのきっかけになった「師匠」の言葉がこちら。

ふしぎな性質·性能をあらゆる物が持っておる。
いわんや万物の霊長たる人間においてをやで、
人と生まれた以上、本当に自分を究尽きゅうじんし、修練すれば、
何十億も人間がおろうが人相がみな違っておるように、
他人にない性能と能力を必ず持っておる。
それをうまく開発すれば、
誰でもそれを発揮することができる。

安岡正篤『人生は自ら創る』より

以降、自分の「他人にない性能と能力」を特定すること
を目標に仕事の研究をしようとしてきました。

仕事の研究の一環で、8年ほど
自分の行動原理を観察したり、考察したりしていくうちに、
「自分のいまの﹅﹅﹅精神状態・健康状態を把握できていない」ことに気づきました。

この「自分の感覚がわからない」状態は、
振り返れば幼少の頃から続いていて、すっかり慣れきったものでした。

その間、何を基準に動いてきたかといえば、
・子供の頃は「大人らしい」キャラクターに準じた言動
・憧れの対象を持ってからは、師匠が言う「こうあるべき」
に則っていたかんじです。

…そうは言っても、そうなれていない時間も多分にありましたもので、
その都度バツの悪さを感じたり、自分責めをやったりしていました。

いずれにせよ、
自分の実感の外側に「正解」がある感覚が
私のこれまでの、人生の大半を占めてきました。

それから、経験を通して自利利他の諫言を受け、
自分が外側に見出していた「正解」が、
本当に自分に適用できるものか、疑いを抱くことになります。

「正解」がない以上、自分の「欲」が指標になる

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。