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開巻有得〜“絶対悪”の正義と信念②〜

戦場に棲む山椒魚サンショウウオ

今回お話しするのは、
前田啓介氏著『辻政信の真実』を読んで感じた
辻さんの人物像についてです。

彼の人生を貫いていたテーゼは「戦場常在」。

私が本書を読んで辻さんに抱いている印象は、

家族からの命をかけた期待を背負い、
その責任を果たすために決死の努力をしてきたひと

です。

私はまっすぐなひとが好きなので、
彼が潔癖になるくらい真剣に大真面目に生きてきた時点で
すっかりファンになっています。あしからずです。

背負うものの重圧に応え続けた生い立ち

辻さんは、
炭焼きを生業としている家に、
五人兄弟の次男として生まれたそうです。
強靭な精神力と、頑強な肉体をこの時分に養ったとされています。
小学校には毎日、幼い弟妹をおぶって通い、それを囃されると
「二宮尊徳を見ろ、薪を担いで勉強して偉くなったんだ。
 だからわしも幼児ねんねをおんぶして勉強するんじゃ」
とやり返したそうです。

当時の貧しい家庭の優秀な師弟は、学費が少なくて済む師範学校へ入り
小学校教員になるか、軍の学校へ入って軍人になるという選択肢しか
ほとんどなかった。

 戦前の日本では、貧家の秀才に開かれた出世コースは
 陸士、海兵に進むか、師範学校を出て教師になるかが相場
 とされていた。官費で教育してもらえるからだが、
 陸士に入るには中学校か幼年学校を経由せねばならなかった。
 結果的に将校への道は、中程度の自作農か小地主以上の子弟出ないと
 無理だった。辻の周囲では高等小学校に入るのも例外で、
 まして名古屋幼年学校に進んだのは、次男の才能に嘱望した父親が
 身分不相応を承知で奮起したからに他ならない。
           (『経済往来』秦郁彦評 1980年7月号)

亀吉は当初から辻の進学を手放しで認めていたわけではなかった。
だが、辻の家族はどこかで、辻にその全てを賭けることを決めたよう
に思われる。辻自身も、家族から大きな期待がかけられていたことは
よく理解していたのだろう。その自覚は、悲壮感さえ帯びていた。

71頁 家族の期待を背負って

「死線を越えて」

私は十四歳のとき、高等小学校から陸軍の幼年学校を受験しました。
家が貧乏で、受験に必要な参考書を買うこともできませんでした。
[中略]一冊の参考書を手に入れたときの喜びは、五十七才になった今日まで忘れることはできません。夜、寝るときに、両足の親指をひもで縛って寝ました。夜半にその両足が痛くなって目を覚ますと、頭から水をかぶって眠気をさまし、朝まで勉強しました。そのように苦労して、幼年学校の試験に合格したときの喜びは、一生忘れることができません。

このからだを、死に神の胸もとにぶつけてやろうと、恐れずに前進すると、
死に神がたじたじとして不思議に道は開けるものです。
避けようとしたり、他人に頼もうとしたら、
おそらく私は生きてはこられなかったでしょう。
諸君にお勧めすることばは、
「人よりもよけいに苦しみ、人よりもよけいに鍛えよ」ということです。

『中学コース』1959年10月号

この時、辻さんは「当時30倍といわれた倍率を突破して幼年学校に入学」しており、「圧倒的不利な状況から現状を打破するという、終生貫いたスタイルの出発点はこの時の体験にあった」とされています。

家庭の経済状況が芳しくないにも関わらず、
学ぶ道を進ませてもらった経験は、私にもあります。

私の場合は、自分のことは自分でする約束で
学費をアルバイトで稼ぎつつ、
奨学金の補助をもらいながらやっていたので
辻さんほど強迫的な努力とは言えません。

受けたい授業は単位を無視して楽しく受講していたし、
興味がない授業は「及第点」ラインをやり過ごしました。

むしろ、両親の苦労に見合うような
苦しい思いや、わかりやすい努力ができていないことへの
(勝手な)負い目の方が大きかったように思います。

私が、受け入れられない誰かを責めるようになるまでに
長い時間をかけるのは、これまでの人生で
「人のことをとやかく言えるほど私は立派にことを成し遂げてきたか」
を省みて悄然とすることが多かったからです。

逆に、私がよく受け入れられなくなる相手は、常態的に
「自分を棚上げにして他者を批判している(ように見える)人」
なのですが、彼らをサンドバックにする時はだいたい
「てめえ人のこと言えるほどご立派かよ」
というセリフを(頭の中で)吐きます。
(対立は疲れるので面と向かっては言いません)

辻さんには、
「本当に、自負にできるくらい成し遂げてきたんだろうな」
という羨望と敬意を抱きます。

サンショウウオというあだ名

辻は頭脳明晰、時に独断専行と言われようと、己の信念に従い、
行動する人であったが、老練とはほど遠かった。

辻の清廉潔白さや有言実行は、
同じ環境、同じ価値観を持った軍隊の中で最も効果的だった。
まして辻はその軍という組織においてさえ、
個人としては孤立しがちで、仲間作りや組織内での世渡りは苦手だった。
軍人時代の辻を支えたのは、
陸軍という限られた人間関係の中での個人的な繋がり、
生死を共にするという特別な条件下における親愛の情であった。
言わば、戦場があったからこそ辻は軍人として評価され、
人との繋がりを保つことができた。
平時の軍人ではなく、有事の軍人として…。

積極的な理想論を面と向かって否定できない軍組織に対し、
政治は本音と建前を巧妙に使い分ける。
「父のあだ名は、サンショウウオなんです」
辻の次男、毅がそう教えてくれた。
そして、「清流にしか住めませんから」と言葉を補い、笑みを浮かべる。

1922年(大正11年)、第七連隊の見習士官時代の辻は、
軍人としての心構えとして「五箴」を書き、机の前の壁に貼り付けていた。
その中に、「清濁併セ吞ムヘシ」の一条がある。
「だけど…」と毅は語る。
「父はやはり、『濁』はのめなかったということですね」

これを読んだとき、なんだか泣きたくなりました。
なまじ実行力のある、不器用でまっすぐな正義漢となれば、
孤独に耐えることは多かったと思います。

失踪後、千歳は手記にこう綴っている。

 辻という男は、
 わたくしが妻という立場で三十年いっしょに暮らして、
 一口にいえば、とてもおだてに乗る人間なのです。
 それは幼い時から人の情に飢えていたからにちがいありません。
 子供のころから、他人に愛された経験がなかったのです。
 ですから、「君だけが、ほんとうの友人だ…」といわれれば、
 つい、その気になってしまう人なのです。
 短気で、潔癖で、けっしてよい夫とはいえません。
 わたくしは十九歳のときお見合いで結婚してから三十年間、
 辻がかわいそうだという”同情”で
 いっしょに暮らしてきたような気がします。
 夫婦の愛情というよりも、なにか、ほんとうの”友情”
 …いえ、母親が子供を見守るような気持ちでございました。
         (『週刊読売』1963年2月10日特大号)

故郷、家族、その期待を一身に受けた男は
歓喜の渦に押し出されるように、
敵は誰だ、どこにいるのだと、熱を帯びた眼をして、前に出た。
やがて、彼を囃す声も聞こえなくなった。
それでも、彼は前を向いて進み続けた。

彼にはちゃんと自制心と思いやりがあった。

死地や負け戦を突破してきた経験が
偏った価値観になりうる可能性は、自分の経験から想像していました。
でも、彼はちゃんと、他者を尊重することも知っていた。

辻は料亭に出入りすることを嫌い、職業的女性の酌を受けなかったけれど、
その態度は淡々として、
彼女たちを憎んだり、見下したりする風はなかったし、
それによって彼女たちの自尊心を傷つけたり、座を白けさせたりすることもなかった。
(杉森久英『参謀・辻政信』)

「辻政信というのは典型的な右翼だと思っていました」
1960年(昭和35年)、22歳の学生服姿の早稲田大学生・三輪和馬みわかずまは、
面前の辻政信にそう言い放った。
辻は「言うね」と返し、笑っていたと言う。
「周りの人はハラハラしていたけどね。磊落らいらくな人でしたよ」と振り返るのはこの発言をした三輪本人だ。

辻とは同じ宿に泊まった。
豪華ではなかったが、辻は不満を述べることはなかったという。
三輪にとって印象深いのは、辻が軍人時代のことを一切話さなかったことだ。
「あったら覚えているが、特徴的になかったね」と話す。
何より、辻から意見を押しつけられた記憶がないという。
「『上から目線』は一切なかった」。
それどころか、辻は学生たちの意見を否定することさえなかった。
「学生運動について、どうのこうのと議論しましたけど、
 批判的なことはなかった。
 若い人が日本を導いていくべきという話はしたけど、
 自分の意見を押しつけてこうしろとか、
 思っている方向へ導こうとかは全然なかった。
 我々の動きや考え方が間違っているとかいうことも一切なかった。
 辻さんは思想的には自分と違うと思っていたのかもしれないね。
 でも、それよりも、とにかく若い者に現地を見せて自覚させて、
 おまえたちのやり方で良いように変えろと思っていたのかもしれない」

こういうエピソードを知ると、
もう「ちゃんとしてる人じゃん」としか言えません。

本書を読み進めていると、
辻さんの生い立ちや人となりが、
私を構成している一部の自己像と重なって、
必要以上に入れ込んでしまった気がします。

「悪」と呼ばれる要素

「君はまだ若くて元気なのに
 人に頭を下げて使ってもらうことを考えてはいけない。
 司法試験でも外交官試験でも受けて堂々と生きる仕事につくべきだ」
同期生の未亡人や家族らに見せた無類の優しさと、
このような厳しさが、
辻本人の中では矛盾なく同居しているようだった。
弥富(記者)は「信念に従って迎合する事のない強い性格」を知り、
心ひかれると同時に、「誤解される面が少なくない性格」を思いやった。

『これでよいのか』という著書が地元の図書館に所蔵されていて、
それを読んでみたことがあります。
岸政権への強めの批判が書かれていて、
「明け透けな人だなあ」というのが
彼への当時の印象でした。

政界に入った辻さんを悪様に罵り続けた一人に、
川口清健という方がいます。
ガダルカナルで戦った川口支隊の支隊長をされていた方で、
どうやら、すれ違いがあった…というか、
辻さんの自信過剰の犠牲になられた一人のようです。
川口さんは、
辻さんが議員をやっているときに、
辞職を求める勧告書を持って面会を求めています。

「お前人のこと言えるんか」という強いメッセージを感じます。
(私のフィルターを通すとこうなります。)

辻さん自身、なまじ「時の人」となり
神格化されるレベルの応援を受けている中で
岸首相を悪役サンドバッグに正義を振りかざす戦法をやっていたので、
その反撃にあったようにも見えます。

戦後彼を批判する声が高いのは
彼が生涯身を置いた戦場で、
常に自らを「正義」として
「敵」を淘汰していたからかもしれません。

→彼の心情を惻隠そくいんする

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