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卑屈な気持ちから解放されたい。自分を好きになるために、先ずは他人になってみよう。

「自分が好き」と言える方が羨ましいです。そういう方は大抵みんなに好かれていて、自信に満ち溢れキラキラしているからです。

眩しいです。憧れます。

私は、と言うと。
好き嫌いを問う以前の話で、自分を必要のない存在だと思っています(笑)

いくら「前向き思考で!」「ポジティブに!」と思っても根底にあるこの思いを覆さない限り、本当の前向きやポジティブとは言えないのかな……と。

では、どうすれば覆すことが出来るのでしょう?一体何が原因で自分は必要のない人間だと思ってしまったのか?

こうなった原因に、心当たりはありありです。

しかも最初の出来事から何十年も経っているので、非常に根が深いです。

加えて最近知ったのですが、私には昔の嫌な記憶を昨日の事のように覚えているという発達障害の特徴があるようなのです。

その脳の特徴も手伝ってか、忌まわしい記憶が一瞬で甦ってきて始末に負えません。なかなか忘れることが出来ないのです。困りものです。

原因その1

思い起こせば、最初の出来事は保育園の時でした。きっかけは妹が生まれた事です。
妹が生まれたのは私が五歳の時でしたが、この日のことはとても鮮明に覚えています。

これは私に限らず、よくある話だと思います。

私は妹に激しいヤキモチを焼いたのです。
だって、この日を境に家族の目は一気に妹へ向けられたのですから。誰も私を見てくれません。

話しかけても後回し。お姉ちゃんなんだからと言われます。事ある毎に我慢を強いられるお姉ちゃんという立場が、本当に嫌でした。

それに両親は仕事も忙しい人達でしたので、後回しにされても仕方がないのかな、と、今なら分かります。
そう……今なら……。

でも当時の幼い私には両親の忙しさなんて分かるはずもなく、忙しさを思いやる事など出来なかったのです。

とにかく私の事も気にかけてもらいたかった。
ただそれだけだったのに。
家での私は孤独を感じていました。

原因その2

私の場合、その時に保育園で流行っていた遊びも影響していたと思います。

その遊びとは「花いちもんめ」なのですが、これが孤独感に拍車をかけたと言わざるを得ません。

少し話を逸らしますが、花いちもんめを知っていますか?

私にとっては大嫌いな悪魔の遊びでした。今だにトラウマです。

遊び方は至ってシンプル。
・1チーム5~6人で2つのチームを作り向かい合って横一列に並びます(仮にA、Bと呼ぶことにします)
・AはBから、BはAから、欲しい人を一人指名します
・指名された人は、それぞれ前に出てジャンケンをします
・ジャンケンで負けた子は相手チームへ移動します
・どちらかのチームが1人になったら終わりです

これをするために花いちもんめという童謡を歌うのですが……お気づきでしょうか?

そうです。私は1度も名前を呼ばれたことが無いのです。

家でも外でも誰も私を見てくれない。なぜ?どうして?戸惑うばかりで対処方法も分かりません。

誰にも必要とされない孤独感。みんなは私を嫌いなんだという悲しみ。こうやって段々と卑屈になっていきました。

原因その3

小学校に入学すると卑屈に追い打ちをかけるような事件が起こります。

小学校2年生から6年生までの5年間、私はクラスメイトから仲間外れにされたのです。

2年生の時の私のちょっとした行動(痰が絡んだのでゴミ箱に捨てました)から「バイ菌」「汚い」「触るな」と、完全無視が始まりました。

仲間外れにされるというのは過去の経験も相まって、自分の存在自体を否定されたに等しいことでした。

無関心という孤独が与える闇は、想像以上に絶大だったのです。

辛くて悲しくて誰かに助けてほしかった私は、仲間外れにされているという事実を勇気を出して母親に訴えました。

しかし母親は困ったねーと言うばかりで何もしてくれません。

私は「どうせ私は誰からも必要とされない、どうでもいい存在なんだ」と卑屈を確立していきます。

私が出会った解決策

自らを「要らない人間なんだ」と卑下し卑屈になった私は、貴重な10代の青春時代を卑屈なまま過ごしました。

長年の孤独と、色濃く植え付けられた汚い人扱いのお陰で、今もスキンシップは苦手です。パーソナルスペースは広めですし、事務的な握手とかでもためらってしまいます。

中でも一番厄介なのが、何も悪い事をした訳じゃないのに「周りに居る人は私を嫌いなんだろうな。だって私はどうでもいい人間だから」と勝手に疑心暗鬼になることです。

またいつ仲間外れにされるのだろうと、ビクビクしてしまうのです。

啓発本の存在を知ってから色々読みましたが、書いてある内容は大抵同じで「自分を褒めましょう」「鏡に向かって好きだよって言ってみましょう」「自分のいい所を見つけましょう」的な文章です。

自分を適当にあしらっていた私には、自分で自分を褒めるなんて出来るはずがありません。
「それが出来たら苦労しないよ!」と、読まなくなるのが落ちでした。

そんな私にも、やっとストンと胸に落ちた言葉との出会いが訪れます。何年くらい前になるでしょうか。

「自分とは、他人のように接してみて下さい」
という言葉です。

もし、あなたの友達が周りの人に嫌われていると疑心暗鬼にかられていたら、あなたはその友達に何と言葉をかけますか?
「そんなことないよ。考えすぎだよ。大丈夫だよ」と、言うのではないですか?

もし、孤独に苦しんでいる知り合いがいたら、なんと声をかけますか?
「辛かったね。今までよく頑張ったね」と、労ってあげたくなりませんか?

自分を他人だと思って、その言葉達をかけてあげるのです。

自分を卑下することに慣れてしまった人は、自分に優しくすることが苦手です。

でも他人になら優しい言葉をかけてあげられますよね。

そうなんです。なるほど。私はただ、誰かに気づかってもらいたかっただけなのです。

私はこの手法でずいぶん気持ちが軽くなり、救われました。もし、同じように悩んでいる方がいらっしゃったら自分を他人に置き換えて接してみてください。

無理のないところから。

例えば今、ご自宅で欠けたカップを使っている方は思い切って新調してみて下さい。百均で充分です。

私なんか欠けたカップでいいやと思わないで。だって、お客様に欠けたカップは使いませんよね?そういうことです。

何かが変わるかもしれませんよ。









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