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「トイレの神様」の代わりに信じていたこと
トイレ掃除は、私にとって、嫌だけどやらなければいけない義務。
今住んでいる賃貸アパートは、トイレ掃除がかなりややこしい。
手が届きにくい場所が多く、狭い場所に手を伸ばし、便器に限りなく顔を近づけることになる。便器の蓋は閉まっているとはいえ。
モップも試してみたけど、微妙に届かない箇所の方が多く、やはり床にしゃがんで拭くことになる。
不動産に掘り出し物はない、と聞くけど、確かに、立地と広さと家賃の兼ね合いで、妥協しないといけない点も多く出てくる。
我々のようなコネなし外国人には掘り出し物が回ってくる可能性は非常に低い(いつかあったら嬉しいな)。
ジュネーブには歴史的価値があるような素敵な建築もあるけど、我が家は古びたアパートで、トイレの床は、仮に年月を経ることがあっても、レトロの呼称を得ることはないであろう単なるタイル。なかなか掃除がしにくい素材で、特に、目地がなかなかきれいにならずに難儀。
そんな床のタイル、時には大掃除をしないとと思って、目地をゴシゴシしていた。磨きものは無心になれることも多いけど、トイレ掃除に関しては昔から嫌いで。小学校の時のトイレ掃除当番も嫌やった。そういえば、連帯責任とやらでトイレ掃除班が全員一列に並ばされ、教師から順番にビンタをくらったことがあった。
・・・あ、これは、思い出し怒りや。
何十年も前の昭和の話、もう忘れてしまったと思っていた。
私は、トイレの神様とか、トイレ掃除と開運を結びつけるとか、そういうのが個人的に苦手だった。
トイレ掃除すると金運や運気が上昇すると信じてモチベーション上がって、トイレ掃除が好きになれるならそれはいいことかもしれない。
清潔なトイレは衛生上必須だから、健康に悪影響が出ないことを運気と呼ベるかもしれない。
でも、それ、神様とか運気とか引っ張り出してくる必要ある?
神様を使って人を従わせようとしてない?
トイレ掃除は自分のため、と頭ではわかっていたけど、腹落ちしておらず、どこかでやりたくない、という気持ちがあった。そして恥ずかしい話だけど、ちょっと他人のせいにしていたところもある。だからトイレの神様の話が嫌いだったのだ。
私は、トイレの神様を信じる代わりに、トイレ掃除を嫌いであり続けた。
トイレ掃除という行為が、非力で不安で怒りを抱えていた昔を思い出すきっかけになっていたかもしれない。
自分で気づくことなく、怒りを確認し、増幅していたかもしれない。
トイレ掃除が嫌いなことには何の疑いも持たず、簡単に信じ込んでいた。
トイレの神様は信じてないのに。これは認知のゆがみだったのか。
あるいは、トイレ掃除嫌いの神様を崇拝していた、と言えるかもしれない。
じゃあ、私は改宗して、今日からトイレの神様バリバリ信じまっす! というわけにはいかない。私の中でまだ納得感がないので。
だけど、公平を期して、掃除嫌いの神様からは少し距離を置いてみてもいいかもな。
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